日本神話の中でも特に重要なエピソードとして知られる「国譲り」。これは単なる神々の争いの物語ではなく、天津神と国津神の間で行われた壮大な「国土の引き渡し交渉」を描いたものなんです。
この記事では、『古事記』と『日本書紀』に記された国譲り神話のあらすじを、登場する神様や舞台となった場所とともにわかりやすく解説していきます。
国譲りとは
国譲り(くにゆずり)とは、地上世界「葦原中国(あしはらのなかつくに)」を治めていた大国主神(オオクニヌシ)が、天照大御神(アマテラス)をはじめとする高天原の神々に国土の支配権を譲り渡した出来事を指します。
『古事記』や『日本書紀』といった日本最古の歴史書に記されているこの神話は、国津神(地上の神々)から天津神(天上の神々)へと日本の統治権が移った経緯を語り伝えるもので、のちの天孫降臨、そして神武天皇による日本建国へとつながる重要なエピソードです。
国譲りの背景|大国主神による国造り
葦原中国の繁栄
須佐之男命(スサノオ)から出雲の国造りを託された大国主神は、少名毘古那神(スクナビコナ)や大物主神(オオモノヌシ)といった神々の協力を得ながら、葦原中国を豊かな国に発展させていきました。
大国主神は農耕や漁業、殖産の方法を人々に教え、さらには医薬の道まで授けたとされています。こうして築かれた国は「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」と呼ばれ、稲作と祭りが営まれる繁栄した国となったのです。
天照大御神の発意
地上世界が豊かに発展していく様子を高天原から見ていた天照大御神は、ある決断をします。
「この豊かな葦原中国は、私の子孫が治めるべき国である」
こうして天照大御神は、自らの子孫を地上に降ろし、天上の秩序と稲作、そして祭りをもたらすことを決意しました。これが国譲り交渉のはじまりです。
難航する交渉|失敗した使者たち
しかし、国譲り交渉は一筋縄ではいきませんでした。高天原から派遣された使者たちは、次々と任務に失敗してしまいます。
第一の使者:天菩比神(アメノホヒ)
最初に派遣されたのは、天照大御神の息子である天菩比神でした。しかし、天菩比神は大国主神のカリスマ性に魅了されてしまい、3年経っても高天原に戻ってきませんでした。
ただし『出雲国造神賀詞』では、天菩比神は地上をくまなく視察した功績者として描かれており、その子孫は出雲国造として代々出雲大社の祭祀を担うことになります。現在の出雲大社宮司・千家家も天菩比神の子孫とされています。
第二の使者:天若日子(アメノワカヒコ)
次に派遣されたのは、天津国玉神(アマツクニタマ)の子である天若日子でした。彼には天之麻迦古弓と天之羽々矢という神聖な武具が与えられました。
ところが天若日子は、大国主神の娘・下照比売(シタテルヒメ)と結婚し、自ら葦原中国の王になろうと企みます。8年が経っても何の報告もなかったため、高天原は雉の鳴女(キジノナキメ)を偵察に送りました。
しかし天若日子は、鳴女を授けられた神聖な弓矢で射殺してしまいます。この矢は高天原まで届き、高皇産霊尊(タカミムスビ)が「もし天若日子が邪心を持っているなら、この矢で射られるだろう」と投げ返すと、矢は天若日子の胸を貫き、彼は死んでしまいました。
最強の使者、降臨|建御雷神の登場
武神の派遣
度重なる失敗を経て、高天原の神々は協議の末、最終兵器ともいうべき神を派遣することを決定します。
『古事記』によれば、派遣されたのは建御雷神(タケミカヅチ)と天鳥船神(アメノトリフネ)の2柱でした。建御雷神は火の神・迦具土神(カグツチ)の血から生まれた、雷と剣を司る最強の武神です。
一方『日本書紀』では、経津主神(フツヌシ)と武甕槌神の2柱が派遣されたとされています。経津主神の派遣が決まった際、武甕槌神が「立派な男は経津主殿一人しかいないのか」と不満を述べたため、同行を許されたという逸話も残っています。
稲佐の浜での威圧的な登場
建御雷神と天鳥船神は、出雲国の稲佐の浜(現在の島根県出雲市)に降り立ちました。建御雷神は十拳の剣(とつかのつるぎ)を波打ち際に逆さまに突き立て、その鋭い切先の上にあぐらをかいて座るという、威圧的な姿勢で大国主神に問いかけます。
「この国は天照大御神の子孫が治めるべき国である。汝はどう思うか」
二人の息子の回答
大国主神は自分一人では決められないとして、息子たちの意見を聞くことにしました。
事代主神の承諾
まず意見を求められたのは、大国主神の長男・事代主神(コトシロヌシ)でした。「事代主」という名前は「言葉を代わりに伝える」という意味で、託宣(神のお告げ)を司る神とされています。
当時、事代主神は美保関(現在の島根県松江市)で魚釣りをしていました。天鳥船神に連れ帰られた事代主神は、こう答えます。
「恐れ多いことです。この国は天津神の御子にお差し上げましょう」
そう言うと、事代主神は乗っていた船を踏み傾け、逆手を打って(手を逆さまに打ち合わせて)船の上に青柴垣を作り、その中に隠れてしまいました。現在の美保神社では、この国譲りの故事にちなんだ「青柴垣神事」が毎年4月に行われています。
建御名方神の力競べ
事代主神が承諾したことを聞いた建御雷神が「他に意見を言う子はいるか」と尋ねると、大国主神はもう一人の息子・建御名方神(タケミナカタ)にも聞くよう言いました。
すると建御名方神が、千人がかりでないと持ち上げられないような巨大な岩を片手で軽々と持ち上げながら現れ、こう宣言します。
「我が国に来て何をこそこそ言っているのだ。それなら力競べで勝負しようではないか」
建御名方神が建御雷神の手を掴もうとすると、その手は瞬時につららに変わり、さらに剣の刃に変化しました。驚いて後退した建御名方神に対し、今度は建御雷神が建御名方神の手を掴みます。すると若い葦を握りつぶすようにその手を握りつぶし、放り投げてしまいました。
建御名方神は逃げ出しましたが、建御雷神は追いかけ、信濃国の諏訪湖まで追い詰めます。殺されそうになった建御名方神は降参し、「この土地から出ない」「父の大国主神と兄の事代主神の言葉に背かない」「この国は天津神の御子に差し上げる」と誓いました。
この力競べは日本最古の相撲の記録とされ、相撲の起源として知られています。また、建御名方神は現在の諏訪大社の祭神として祀られています。なお、『日本書紀』には建御名方神との力競べのエピソードは記されていません。
大国主神の条件|出雲大社の創建
国譲りの成立
二人の息子が天津神に従うことを表明したことを受け、建御雷神は再び大国主神に尋ねました。大国主神はついに国譲りを承諾しますが、一つの条件を出します。
『古事記』によれば、大国主神はこう述べました。
「この国は天津神の御子に差し上げましょう。その代わり、私の住む所として、皇孫の住まう宮殿と同じくらい立派な宮を建ててください。柱は太く高く、千木は高天原まで届くような壮大な宮殿を」
『日本書紀』では、高皇産霊尊が大国主神に対してこう述べたとされています。
「現世の政治は我が孫が治めるべきものである。汝は代わりに目に見えない世界(幽世)の神事を掌れ。汝の住むべき天日隅宮を造ろう」
天日隅宮の建立
こうして大国主神のために、出雲の多芸志(たぎし)の浜に壮大な宮殿が建てられました。『日本書紀』ではこの宮を「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と呼んでいます。「日隅」という名称は「日が沈む方角」を意味し、大和から見て西の果てにある出雲が「日が沈む聖地」として認識されていたことを示しています。
この宮殿こそが、現在の出雲大社(正式名称:出雲大社〈いづもおおやしろ〉)の起源とされています。
平安時代の貴族の子弟のための教科書『口遊(くちずさみ)』には、「雲太、和二、京三」という記述があります。これは当時の日本で最も高い建物のランキングを示しており、第1位が出雲大社(雲太)、第2位が東大寺大仏殿(和二)、第3位が京都の大極殿(京三)だったことを伝えています。
2000年には出雲大社境内から、13世紀前半のものと推定される三本一組の巨大な柱根が発見されました。この発見により、古代には本当に巨大な神殿が存在したという伝承の信憑性が高まっています。
古事記と日本書紀の違い
国譲り神話は『古事記』と『日本書紀』の両方に記されていますが、いくつかの重要な違いがあります。
派遣された使者
| 文献 | 最終的な使者 |
|---|---|
| 古事記 | 建御雷神と天鳥船神 |
| 日本書紀 | 経津主神と武甕槌神(建御雷神) |
『古事記』では建御雷神が主役として描かれますが、『日本書紀』では経津主神が主役で、武甕槌神は副官的な位置づけです。経津主神は物部氏の祖神であり、香取神宮の祭神として知られています。
建御名方神の存在
『古事記』には建御名方神と建御雷神の力競べが詳しく描かれていますが、『日本書紀』の本文には建御名方神は登場せず、大国主神は事代主神の意向を聞いた後に国譲りを承諾しています。
天菩比神の評価
『古事記』では天菩比神は任務に失敗した裏切り者のように描かれていますが、『出雲国造神賀詞』では地上を視察した功労者として、また出雲大社の祭祀を担う重要な神として描かれています。
国譲り神話の意義
神話学的な解釈
国譲り神話は、古代日本において各地の首長たちが大和朝廷に服属していった歴史的過程を、神話として物語化したものと考えられています。
出雲が国譲りの舞台となったのは、大和から見て西の辺境に位置し、「日が沈む方角」という神話的な意味を持っていたためとされています。出雲国造が天皇の即位や遷都の際に朝廷に参上し、『出雲国造神賀詞』を奏上する儀式は、この国譲り神話を儀礼として表現したものでした。
現世と幽世の分担
国譲りの結果、天照大御神の子孫が「現世」(目に見える世界)を、大国主神が「幽世」(目に見えない世界)を司ることになりました。
現在でも大国主神は「幽冥主宰大神(かくりよしろしめすおおかみ)」として、神々の世界や霊魂の世界を司る神として信仰されています。また、縁結びの神として広く知られているのも、目に見えない「縁」を結ぶ神としての性格に由来しています。
国譲り神話ゆかりの神社
出雲大社(島根県出雲市)
国譲りの主人公・大国主大神を祀る日本を代表する神社です。国譲りの条件として建てられた壮大な宮殿がその起源とされています。縁結びの神様として全国から参拝者が訪れます。
稲佐の浜(島根県出雲市)
建御雷神が剣を逆さに突き立てて大国主神に国譲りを迫った場所です。現在も毎年旧暦10月10日に、全国から出雲に集まる八百万の神々を迎える「神迎神事」が行われています。
美保神社(島根県松江市)
事代主神と三穂津姫命を祀る神社です。事代主神が国譲りを承諾した後に隠れた故事にちなみ、「青柴垣神事」と「諸手船神事」が行われています。事代主神は「恵比須さん」としても親しまれ、漁業や航海安全の神として信仰されています。
諏訪大社(長野県諏訪市・茅野市)
建御名方神を祀る神社です。建御雷神との力競べに敗れて諏訪まで逃れた建御名方神が、この地に鎮まったとされています。全国に約25,000社ある諏訪神社の総本社です。
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
建御雷神(武甕槌神)を祀る神社です。国譲りを成功させた最強の武神として、勝利祈願や開運の神様として信仰されています。境内では神の使いとして鹿が飼育されています。
香取神宮(千葉県香取市)
経津主神を祀る神社です。鹿島神宮とは利根川を挟んで対岸に位置し、両社は古くから武道の神様として崇敬されてきました。
まとめ
国譲り神話のポイントをおさらいしましょう。
- 国譲りとは、大国主神が天照大御神の子孫に国土の支配権を譲り渡した出来事
- 最初の使者・天菩比神と天若日子は任務に失敗
- 最終的に建御雷神(と天鳥船神)が派遣され、交渉に成功
- 大国主神の息子・事代主神は承諾し、建御名方神は力競べに敗れて降参
- 大国主神は壮大な宮殿の建立を条件に国譲りを承諾
- この宮殿が現在の出雲大社の起源
- 国譲りの結果、天照大御神の子孫が現世を、大国主神が幽世を司ることになった
国譲り神話は、単なる神話ではなく、日本という国がどのようにして成り立ったのかを伝える建国神話の重要な一部です。出雲大社や稲佐の浜を訪れる際には、この壮大な物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
参考情報
この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。
一次資料(原典)
- 『古事記』(712年成立)- 太安万侶編纂、日本最古の歴史書
- 『日本書紀』(720年成立)- 日本最古の正史
- 『出雲国風土記』(733年成立)- 出雲国の地誌
- 『出雲国造神賀詞』- 出雲国造が朝廷で奏上した祝詞(『延喜式』所収)
学術・研究機関
- 國學院大學「神々の相互連携で進む大事業『国譲り』とは?」 – 神道史の専門家による解説
- 神社本庁「国譲り」 – 神社の公式による神話解説
- コトバンク「国譲り神話」 – 世界大百科事典・日本大百科全書の解説
神社・観光公式サイト
- 出雲大社公式サイト「出雲大社と大国主大神」 – 出雲大社による解説
- 出雲観光協会「出雲大社」 – 出雲大社の歴史と見どころ
- しまね観光ナビ「国譲り」 – 島根県による神話解説
- 日本遺産「日が沈む聖地出雲」 – 稲佐の浜と天日隅宮の解説
百科事典
- Wikipedia「国譲り」 – 基本情報の確認
- Wikipedia「出雲大社」 – 出雲大社の歴史
- Wikipedia「タケミカヅチ」 – 建御雷神の詳細
- Wikipedia (English)「Kuni-yuzuri」 – 英語圏での学術的解説


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