「ブラッディ・メアリー」という言葉を耳にしたことがある方は多いのではないでしょうか。
カクテルの名前や都市伝説の「ブラッディ・メアリー」としても知られるこの呼び名は、実在したイングランド女王に由来しています。
その女王こそが、メアリー一世(Mary I、1516年〜1558年)です。
彼女はイングランド初の女王として君臨しながら、プロテスタントへの苛烈な迫害によって「血まみれのメアリー(Bloody Mary)」という不名誉な異名を歴史に刻みました。
しかしその生涯をたどると、父ヘンリー八世に翻弄された幼少期、庶子への転落、そして信仰を貫き通した強い意志の持ち主であったことが見えてきます。
この記事では、メアリー一世の波乱に満ちた生涯を、歴史的背景とともに詳しく解説していきます。
概要
メアリー一世は、テューダー朝第4代のイングランド女王(在位:1553年〜1558年)です。
父ヘンリー八世と最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon)の娘として生まれました。
敬虔なカトリック信者であった彼女は、即位後にイングランドのカトリック復帰を推し進め、プロテスタントに対する激しい弾圧を行ったことで知られています。
在位わずか5年余りの治世でしたが、イングランドの宗教史・政治史において重要な転換点を形成した人物です。
生い立ちと幼少期──王女として愛された日々
メアリーは1516年2月18日、ロンドン近郊のグリニッジ宮殿で誕生しました。
母キャサリン・オブ・アラゴンは、スペインのカスティーリャ女王イサベル一世とアラゴン王フェルナンド二世の娘という名門出身の王妃です。
キャサリンは4度の懐妊に失敗しており、メアリーは5度目の懐妊でようやく無事に生まれた待望の子どもでした。
父ヘンリー八世は当初、男児の誕生を願っていたとされています。
しかし、娘が健康であると知ると態度を一変させ、「イングランドでは女子の王位継承を妨げる法はない」として跡継ぎと見なしたと伝えられています。
幼いメアリーは「プリンセス・オブ・ウェールズ」の称号を用いられ、養育係にはプランタジネット家男系最後の生き残りであるマーガレット・ポール(Margaret Pole)が任命されるなど、手厚い教育を受けました。
少女時代のメアリーは非常に聡明で、ラテン語やフランス語、スペイン語を学び、音楽の才能にも恵まれていたと記録されています。
外交上の駒としても重視され、2歳の頃からフランスの王子やスペインの皇帝カール五世との婚約話が持ち上がりましたが、いずれも破談に終わっています。
両親の離婚と庶子への転落
メアリーの人生が暗転したのは、1530年代に入ってからのことです。
ヘンリー八世はどうしても男子の跡継ぎを望んでおり、キャサリンとの結婚の無効を求めるようになりました。
しかしローマ教皇はこれを認めなかったため、ヘンリー八世は教皇権からの離脱を決断し、イングランド国教会を設立するという歴史的な転換を引き起こしたのです。
1533年、ヘンリー八世はキャサリンとの結婚を無効とし、新たな妃アン・ブーリン(Anne Boleyn)を王妃に迎えました。
この結果、メアリーは王女の地位を剥奪され、「庶子」として扱われることになります。
「プリンセス」の称号も取り上げられ、異母妹エリザベス(後のエリザベス一世)の侍女として仕えることを強いられるという屈辱的な境遇に置かれました。
母キャサリンはメアリーに会うことさえ許されず、1536年に孤独のうちに亡くなっています。
敬虔なカトリック信者であったメアリーにとって、両親の離婚とカトリックからの離脱は、個人的にも信仰上も計り知れない苦痛だったことは想像に難くありません。
忍耐の時代──エドワード六世の治世
1536年にアン・ブーリンが処刑された後、ヘンリー八世の3番目の王妃ジェーン・シーモア(Jane Seymour)の取り計らいもあり、メアリーは宮廷に復帰することができました。
ただし復帰の条件として、ヘンリー八世がイングランド国教会の長であること、そして両親の結婚が無効であることを認めなければなりませんでした。
メアリーは当初これを拒否しましたが、神聖ローマ皇帝カール五世やスペイン大使シャピュイの説得により、渋々受け入れたとされています。
1547年にヘンリー八世が亡くなると、異母弟エドワード六世(Edward VI)が即位しました。
エドワード六世はプロテスタントの支持者であり、イングランド国教会をさらにプロテスタント寄りに改革していきます。
一般祈祷書(Book of Common Prayer)の導入など、宗教改革が加速する中、メアリーは自身の領地でカトリックのミサを守り続けるという形で、頑として信仰を曲げませんでした。
エドワード六世の治世を通じて、メアリーは宮廷にほとんど出仕せず、自領で静かに暮らしていたと伝えられています。
即位──イングランド初の女王
1553年7月、わずか15歳のエドワード六世が病死すると、王位継承をめぐる政治的な混乱が生じました。
エドワード六世は死の直前、カトリックのメアリーが即位してプロテスタント改革が覆されることを恐れ、遺言でメアリーとエリザベスの王位継承権を無効としました。
代わりに、プロテスタントであるジェーン・グレイ(Jane Grey)を後継者に指名したのです。
この背景には、エドワード六世の側近であったノーサンバランド公ジョン・ダドリー(John Dudley)の政治的野心もあったとされています。
しかしメアリーは、イースト・アングリア地方のフラムリンガム城で支持者を集め、軍を組織しました。
民衆の多くがメアリーを支持し、枢密院の貴族たちもジェーン・グレイからメアリーへと支持を乗り換える事態となります。
結果として、ジェーン・グレイはわずか9日間で退位に追い込まれ、メアリーがイングランド女王として即位を果たしたのです。
この即位について、後世の歴史家たちはメアリーを「イングランドで初めて広く国民に支持された女王」と評しています。
なお、ジェーン・グレイの在位(9日間)やマティルダの在位を認めるかどうかには議論がありますが、メアリー一世がイングランド史上初の正式な女王(クイーン・レグナント)と位置づけられるのが一般的です。
スペイン王太子フェリペとの結婚
1554年、メアリーは母方の従兄にあたる神聖ローマ皇帝カール五世の息子、スペインの王太子フェリペ(後のフェリペ二世)との結婚を決めました。
当時メアリーは38歳、フェリペは27歳であったとされています。
この結婚は、メアリーにとってカトリック信仰の強化とスペインとの同盟を意味するものでしたが、イングランド国内では強い反対の声が上がりました。
カトリックの大国スペインとの結婚により、将来イングランドがスペインに従属するのではないかという懸念が広がったのです。
反対派のトマス・ワイアット(Thomas Wyatt)がケント地方で蜂起し、エリザベスを王位に就けることを旗印に反乱を起こしましたが、メアリーは毅然とした態度でこれを鎮圧しています。
この反乱に連座する形で、ジェーン・グレイも処刑されることとなりました。
メアリーはフェリペとの間に後継者を切望していましたが、2度にわたる想像妊娠(偽妊娠)に終わり、子どもに恵まれることはありませんでした。
フェリペ自身もメアリーのもとを離れてスペインに帰ることが多く、政治的な結婚という性格が色濃いものだったと考えられています。
カトリック復帰とプロテスタント迫害──「メアリアン迫害」
メアリー一世の治世で最も大きな影響を残したのが、カトリック復帰政策とそれに伴うプロテスタントへの迫害です。
即位後、メアリーはエドワード六世時代のプロテスタント関連法を次々と撤廃し、ローマ教皇との関係を回復させました。
枢機卿レジナルド・ポール(Reginald Pole)を登用して、カトリック聖職者の復職や修道院の再建を進めるなど、イングランドの再カトリック化を推し進めたのです。
さらに異端処罰法を復活させ、1555年1月からプロテスタントに対する本格的な弾圧が始まりました。
この迫害は「メアリアン迫害(Marian Persecutions)」と呼ばれ、1555年から1558年の間に、少なくとも約280名のプロテスタントが異端として火刑に処されたとされています。
犠牲者の中には、一般の市民や女性も含まれていましたが、特に有名なのがカンタベリー大主教トマス・クランマー(Thomas Cranmer)や、主教ヒュー・ラティマー(Hugh Latimer)、ニコラス・リドリー(Nicholas Ridley)といった高位聖職者たちです。
ラティマーとリドリーは1555年10月、オックスフォードで共に火刑に処されました。
クランマーは一度改宗を受け入れましたが、最終的にはそれを撤回して殉教の道を選んでいます。
メアリーは、異端者を改宗させることが魂の救済につながるという信念のもとに迫害を推し進めたとされています。
しかし、この弾圧は結果的にプロテスタントへの同情を広げる結果となり、殉教者たちの物語は人々の間に広まっていきました。
カレーの喪失と晩年
メアリー一世の治世を決定的に暗くしたもう一つの出来事が、大陸最後のイングランド領カレーの喪失です。
フェリペとの結婚によって、イングランドはスペインとフランスの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれました。
1558年1月、フランス軍がカレーを攻撃し、百年戦争(1347年)以来イングランドが保持してきた大陸最後の拠点が陥落してしまいます。
カレーの喪失はイングランド国民に大きな衝撃を与え、メアリーの威信に致命的な打撃となりました。
メアリー自身も深い悲嘆に暮れ、「私が死んで解剖されたら、心臓にカレーの文字が刻まれているでしょう」と述べたと伝えられています。
健康を害していたメアリーは、1558年11月17日、42歳でセント・ジェームズ宮殿にて崩御しました。
死因は卵巣腫瘍であったとする見解が有力です。
後継者は異母妹のエリザベスしかおらず、メアリーは崩御の前日になってようやくエリザベスを後継者に指名したと伝えられています。
メアリーの命日は、その後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われたとされており、在位中の施策がいかに国民の反発を招いていたかを物語っています。
「ブラッディ・メアリー」という異名の由来
「ブラッディ・メアリー(Bloody Mary)」という異名が広く定着したのは、メアリーの死後のことです。
この異名を決定づけたのが、プロテスタントの著述家ジョン・フォックス(John Foxe)が1563年に出版した『殉教者の書(Acts and Monuments)』(通称『フォックスの殉教者の書』)でした。
この書は、メアリー治世下で迫害を受けたプロテスタントの殉教者たちの物語を、詳細な木版画とともに記録したものです。
特にメアリー治世下の迫害に関する記述が圧倒的な分量を占めており、初版では57点の挿絵のうち30点がメアリー治世下の処刑場面を描いたものでした。
この書は大きな反響を呼び、第2版(1570年)以降はイングランドの全大聖堂に設置が義務づけられるほどの影響力を持ちました。
プロテスタント側の視点から書かれたこの作品によって、メアリーは「カトリックの圧政と宗教的暴虐の象徴」として記憶に刻まれることになったのです。
ただし現代の歴史学者の中には、フォックスの記述には誇張や不正確な部分も含まれているとの指摘もあります。
現代における再評価
近年の歴史研究では、メアリー一世に対する見方にも変化が見られます。
歴史学者ルーシー・ウッディング(Lucy Wooding)は、メアリーに対する評価には性差別的な側面があると指摘しています。
メアリーは「復讐に燃えた残忍な女王」と批判される一方で「意志の弱い女性」とも非難されるという、矛盾した評価を受けてきたということです。
政治犯に恩赦を示した行為ですら、「軟弱さ」として批判の対象になることがあったとされています。
また、テューダー朝の他の君主たちも多数の政敵を処刑しており、メアリーの迫害のみが突出して批判されることへの疑問も呈されています。
後継者エリザベス一世もまた、カトリック信者に対する弾圧を行っていたからです。
とはいえ、メアリーの迫害が当時のイングランド社会に深い傷痕を残したことは事実であり、約280名にのぼる火刑という手段の残酷さは、時代を考慮しても批判を免れないものでした。
メアリー一世は、イングランド初の女王として王位を勝ち取る政治力を持ちながらも、信仰と政治の間で苦悩し続けた複雑な人物像として、現在も研究と議論の対象となっています。
メアリー一世の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | メアリー・テューダー(Mary Tudor) |
| 生年月日 | 1516年2月18日 |
| 没年月日 | 1558年11月17日(42歳没) |
| 出生地 | グリニッジ宮殿(ロンドン近郊) |
| 王朝 | テューダー朝(第4代) |
| 在位期間 | 1553年7月19日〜1558年11月17日 |
| 父 | ヘンリー八世(Henry VIII) |
| 母 | キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon) |
| 配偶者 | フェリペ二世(Philip II of Spain)※1554年結婚 |
| 子女 | なし |
| 宗教 | ローマ・カトリック |
| 異名 | ブラッディ・メアリー(Bloody Mary) |
| 後継者 | エリザベス一世(Elizabeth I)──異母妹 |
まとめ
メアリー一世の生涯は、テューダー朝の宗教的・政治的激動を象徴するものでした。
- 父ヘンリー八世と母キャサリン・オブ・アラゴンの娘として王女に生まれたが、両親の離婚によって庶子に転落した
- 異母弟エドワード六世の死後、ジェーン・グレイを退けてイングランド初の女王として即位した
- カトリック復帰政策を推進し、約280名のプロテスタントを火刑に処す「メアリアン迫害」を行った
- スペインのフェリペ二世との結婚は国内の反発を招き、フランスとの戦争に巻き込まれて大陸最後の領土カレーを喪失した
- 在位5年余りで後継者を残すことなく崩御し、異母妹エリザベス一世に王位が引き継がれた
プロテスタント側の視点から「ブラッディ・メアリー」として語り継がれてきた彼女ですが、その生涯をたどると、信仰を守り抜いた一人の女性の姿が浮かび上がってきます。
メアリー一世を知ることは、イングランドの宗教改革という激動の時代を理解するうえで欠かせない視点を与えてくれるでしょう。
参考情報
関連記事
この記事で参照した情報源
百科事典・辞典
- コトバンク「メアリー1世」 – 平凡社『世界大百科事典』およびブリタニカ国際大百科事典の項目。王位継承からカレー喪失に至る治世の概要
- Wikipedia「メアリー1世(イングランド女王)」 – 生い立ちから崩御までの詳細な経歴
- Wikipedia “Mary I of England” – 英語版。即位の経緯やメアリアン迫害に関する詳細情報
学術・歴史専門メディア
- History.com “What Inspired Queen ‘Bloody’ Mary’s Gruesome Nickname?” – ブラッディ・メアリーの異名の由来とフォックスの殉教者の書の影響
- Christian History Magazine “Why Queen Mary Was ‘Bloody'” – メアリアン迫害の背景と結果に関する学術的分析
歴史辞典
- 山川出版社『世界史小辞典(改訂新版)』2011年 -「メアリ1世」の項目


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