ブラックホールと聞くと、謎に包まれた複雑な天体を想像するかもしれません。
しかし実は、ブラックホールは宇宙で最もシンプルな天体の一つなのです。
この驚くべき性質を示すのが「ブラックホール脱毛定理」です。
この定理は、どんなに複雑な星が崩壊してブラックホールになっても、最終的にはたった3つの数値だけで完全に記述できることを示しています。
まるで個性的な特徴(毛)がすべて失われてしまうかのようなこの現象は、物理学者ジョン・ホイーラーによって「ブラックホールには毛がない」と表現されました。
この記事では、ブラックホール脱毛定理の基本的な内容から、その歴史、観測的検証、そして現代の物理学における重要性まで、わかりやすく解説していきます。
ブラックホール脱毛定理とは
ブラックホール脱毛定理(No-hair theorem)は、ブラックホールを特徴づける物理量が、質量・電荷・角運動量の3つだけであるという定理です。
別名「ブラックホール無毛定理」とも呼ばれます。
この定理が意味するのは、ブラックホールを形成した元の天体がどれほど複雑な構造を持っていても、ブラックホールになってしまえば、外部から観測できる特徴は3つのパラメータだけになるということです。
より詳しい定義
一般相対性理論において、定常的な(時間的に変化しない)ブラックホールの外部重力場および電磁場は、以下の3つの物理量で完全に記述できます。
- 質量(M): ブラックホールの重さ
- 電荷(Q): 電気的な性質
- 角運動量(J): 回転の速さ
それ以外のあらゆる情報、例えば元の星の化学組成、温度分布、磁場の詳細、内部構造などは、事象の地平面(イベントホライズン)を通過すると外部から観測できなくなります。
「脱毛」という名前の由来
John Wheelerの表現
この定理の印象的な名前は、アメリカの物理学者ジョン・アーチボルト・ホイーラー(John Archibald Wheeler)による「ブラックホールには毛がない(black holes have no hair)」という表現に由来します。
ホイーラーは、ブラックホールに関する多くの概念を一般に広めた科学者であり、「ブラックホール」という言葉自体も彼によって定着しました。
Jacob Bekensteインの貢献
実は、この「毛がない」という表現を最初に使い出したのは、当時ホイーラーの学生だったジェイコブ・ベッケンシュタイン(Jacob Bekenstein)でした。
ベッケンシュタインは後にブラックホールのエントロピーを提唱した物理学者として知られています。
1971年、ルフィーニ(Remo Ruffini)とホイーラーの共著論文「Introducing the black hole」がPhysics Today誌に掲載されました。
この論文には、次のような記述があります。
“The collapse leads to a black hole endowed with mass and charge and angular momentum but, so far as we can now judge, no other adjustable parameters: ‘a black hole has no hair.'”
(崩壊によって生じるブラックホールは、質量と電荷と角運動量を持つが、我々が現在判断できる限り、それ以外の調整可能なパラメータを持たない。「ブラックホールには毛がない」のである。)
なぜ「毛(hair)」なのか
「毛」は、通常の物体が持つさまざまな個性的な特徴を比喩的に表しています。
人間の髪の毛が一人ひとり異なるように、星や惑星はそれぞれ独自の特徴を持っています。
しかしブラックホールは、まるで「毛を剃り落とした」かのように、3つのパラメータ以外のすべての個性を失ってしまうのです。
この比喩的な表現が、定理の理解を助けるとともに、一般の人々の興味を引くことにも成功しました。
定理の内容:ブラックホールを特徴づける3つのパラメータ
ブラックホールを完全に記述するために必要な3つのパラメータについて、それぞれ詳しく見ていきましょう。
1. 質量(Mass: M)
質量は、ブラックホールがどれだけの「重さ」を持つかを示します。
質量が大きいほど、ブラックホールの重力は強くなり、事象の地平面の半径も大きくなります。
太陽質量の数倍から数十倍のブラックホールは「恒星質量ブラックホール」、数百万から数十億太陽質量のブラックホールは「超大質量ブラックホール」と呼ばれます。
2. 電荷(Electric Charge: Q)
電荷は、ブラックホールが持つ電気的な性質を示します。
正の電荷を持つブラックホールもあれば、負の電荷を持つブラックホールもあり得ます。
ただし、実際の宇宙に存在するブラックホールは、電荷をほとんど持たないと考えられています。
これは、電荷を持つブラックホールがあっても、周囲から反対の電荷を持つ粒子を引き寄せて中和されるためです。
3. 角運動量(Angular Momentum: J)
角運動量は、ブラックホールの回転の速さと方向を示します。
回転していないブラックホールもあれば、高速で回転しているブラックホールもあります。
回転しているブラックホールは「カー・ブラックホール」(Kerr black hole)と呼ばれ、回転していないブラックホールは「シュヴァルツシルト・ブラックホール」(Schwarzschild black hole)と呼ばれます。
実際の宇宙では、ほとんどのブラックホールは回転していると考えられています。
定理が意味すること:情報の消失とシンプルさ
情報はどこへ消えるのか
元の星が持っていた膨大な情報は、ブラックホールになると外部から観測できなくなります。
例えば、以下のような情報はすべて失われます。
- 化学組成(水素、ヘリウム、炭素などの割合)
- 温度分布
- 密度の不均一性
- 磁場の詳細
- 内部の対流や乱流
これらの情報は、事象の地平面を通過すると、外部の観測者には永遠にアクセスできなくなります。
宇宙で最もシンプルな天体
この性質により、ブラックホールは「宇宙で最もシンプルな巨視的天体」と言われることがあります。
例えば、太陽のような恒星は非常に複雑です。
表面には黒点があり、フレアが発生し、内部では核融合が起こり、対流によってエネルギーが運ばれています。
これらすべてを完全に記述するには、膨大な量の情報が必要です。
しかし、もし太陽がブラックホールになったとすると、その複雑さはすべて消え去り、たった3つの数値(質量、電荷、角運動量)だけで完全に記述できるようになります。
ブラックホール脱毛定理の歴史
初期の研究(1960年代〜1970年代)
ブラックホール脱毛定理の概念は、複数の物理学者による段階的な研究によって確立されました。
1967年: Werner Israelの研究
カナダの物理学者ヴェルナー・イスラエル(Werner Israel)が、非回転ブラックホールが非常にシンプルであることを最初に示しました。
これが脱毛定理研究の先駆けとなりました。
1970年: Brandon Carterの証明
イギリスの物理学者ブランドン・カーター(Brandon Carter)が、電荷を持たない定常的で軸対称なブラックホールについて、重要な証明を行いました。
彼は、球状の事象の地平面を持つこのようなブラックホールは、質量Mと角運動量Jの2つのパラメータで一意に決定される外部重力場を持つことを示しました。
この解は「カー解」(Kerr solution)と呼ばれ、1963年にロイ・カー(Roy Kerr)によって発見されていたブラックホール解に対応します。
1971年: 「black holes have no hair」の登場
ルフィーニとホイーラーによる解説記事が、Physics Today誌に掲載されました。
この記事で、「ブラックホールには毛がない」という表現が初めて公に紹介されました。
1973年: 『Gravitation』での詳細解説
チャールズ・ミスナー(Charles Misner)、キップ・ソーン(Kip Thorne)、ジョン・ホイーラーの共著『Gravitation』が出版されました。
この重厚な教科書の876ページには、「A BLACK HOLE HAS NO ‘HAIR’」というコラムが1ページを割いて掲載され、定理の詳細が解説されています。
数学的証明の状況
興味深いことに、ブラックホール脱毛定理には厳密な数学的証明が存在しません。
そのため、数学者はこれを「定理(theorem)」ではなく「予想(conjecture)」と呼んでいます。
スティーブン・ホーキング(Stephen Hawking)、ブランドン・カーター、デイヴィッド・C・ロビンソン(David C. Robinson)らによって部分的な証明がなされていますが、それらは以下のような制限的な仮定の下でのみ成立します。
- 非縮退事象の地平線
- 時空連続体の実解析性という技術的で難しい仮定
そのため、現在でも完全な証明を求める研究が続けられています。
観測的検証:理論から実証へ
理論として提唱された脱毛定理ですが、21世紀に入って観測技術の進歩により、実際に検証できるようになってきました。
重力波観測による検証(2015年〜)
2015年: 初の重力波検出
2015年9月14日、LIGO(レーザー干渉計重力波観測所)が史上初めて重力波を直接検出しました。
このイベント「GW150914」は、2つのブラックホールの合体によって生じたものでした。
この観測結果は、ブラックホール脱毛定理の予測と矛盾しないことが確認されました。
ブラックホール合体後に放出される重力波のパターンが、一般相対性理論と脱毛定理の予測と一致していたのです。
2019年: 重力波の「overtones」分析
MITのマクシミリアーノ・イシ(Maximiliano Isi)らの研究チームは、GW150914のより詳細な分析を行いました。
彼らは、ブラックホール合体後の数ミリ秒間に存在する「overtones」(倍音)を検出することに成功しました。
この倍音の周波数と減衰率を測定することで、新しく形成されたブラックホールの質量と角運動量を独立に計算できました。
結果は、一般相対性理論の予測と一致し、脱毛定理を直接テストした初めての実験的測定となりました。
イシ博士は次のように述べています。
“We all expect general relativity to be correct, but this is the first time we have confirmed it in this way. This is the first experimental measurement that succeeds in directly testing the no-hair theorem.”
(我々は皆、一般相対性理論が正しいと期待していますが、このような形で確認したのは初めてです。これは、脱毛定理を直接テストすることに成功した初めての実験的測定です。)
OJ 287による観測的検証(2020年)
史上初の観測的検証
2020年、大阪教育大学の松本桂准教授を含む14か国の研究者からなる国際研究グループが、画期的な成果を発表しました。
彼らは、地球から約35億光年離れた活動銀河核「OJ 287」を継続的に観測しました。
この銀河の中心部には、約180億太陽質量という超巨大ブラックホールが存在します。
研究チームは、このブラックホールにおいてブラックホール脱毛定理が成立していることを観測的に検証することに成功しました。
これは、実際の宇宙に「真のブラックホール」が存在することを史上初めて明らかにした成果です。
この研究は、故スティーブン・ホーキング博士らによるブラックホールに関する先駆的な理論的研究を立証するものとなりました。
例外と新たな発展
ブラックホール脱毛定理は、一般相対性理論の枠組みにおいて成立する定理ですが、いくつかの例外や新たな発展があります。
「色ものブラックホール」の研究(1990年代)
1990年代には、「色ものブラックホール」(colored black hole)という名前で、脱毛定理の例外となる「毛」が精力的に研究されました。
ブラックホール脱毛定理は、アインシュタイン・マクスウェル方程式を仮定しています。
しかし、その他の場(スカラー場、非可換場、宇宙項など)を仮定すれば、他の「毛」が生えることになります。
特に、Yang-Mills理論における「色ものブラックホール」解が発見されましたが、これらの解は不安定であることが多く、実際の宇宙に存在する可能性は低いと考えられています。
宇宙の膨張を考慮した場合(2023年)
2023年、サウサンプトン大学のオスカー・J・ディアス(Óscar J. Dias)氏らの研究チームが、興味深い発見を発表しました。
従来の脱毛定理と唯一性定理は、「時空は漸近的に平坦」(宇宙は膨張も収縮もしない)という仮定の下で成立します。
しかし、実際の宇宙は加速膨張していることが観測で証明されています。
ディアス氏らは、宇宙の膨張を考慮した場合、同じ質量を持つ2つのブラックホールが互いに静止できることを示しました。
さらに、この状態を遠くから観察すると1つのブラックホールと区別できないため、ブラックホールが1つなのか2つなのか判別できない状況が生じることを数学的に示しました。
これは、質量のパラメータを固定しても唯一性定理が成立しない初めての例であり、ブラックホールは脱毛定理が示すほど単純ではない可能性を示唆しています。
「ソフトヘア」の提唱
2016年、スティーブン・ホーキング、マルコム・ペリー(Malcolm Perry)、アンドリュー・ストロミンジャー(Andrew Strominger)、サーシャ・ハコ(Sasha Haco)らは、ブラックホールが「ソフトヘア」(soft hair)を持つ可能性を示唆しました。
ソフトヘアは非常に低エネルギー状態に存在するため、従来の計算では現れませんでした。
この概念は、ブラックホールが従来考えられていたよりも多くの自由度を持つ可能性を示しています。
ただし、このソフトヘアが脱毛定理を根本的に覆すものなのか、それとも定理と整合的なものなのかについては、現在も議論が続いています。
ブラックホール情報パラドックス
ブラックホール脱毛定理は、物理学における最も深刻なパラドックスの一つを生み出しています。
パラドックスの内容
量子力学によれば、物理的情報は決して失われません。
これは「ユニタリ性」と呼ばれる基本原理です。
しかし、ブラックホール脱毛定理によれば、ブラックホールに落ち込んだ物質の詳細な情報は、外部から永遠にアクセスできなくなります。
つまり、情報が失われてしまうように見えます。
この矛盾は「ブラックホール情報パラドックス」または「ファイアウォールパラドックス」として知られています。
ホーキング放射との関連
1974年、スティーブン・ホーキングは、ブラックホールが量子効果によって放射を出すことを理論的に示しました。
この「ホーキング放射」により、ブラックホールは徐々に質量を失い、最終的には蒸発してしまいます。
しかし、ホーキング放射は熱的な放射であり、ブラックホールに落ち込んだ物質の詳細な情報を含んでいないように見えます。
これがパラドックスをさらに深刻にしています。
現在の研究状況
このパラドックスの解決に向けて、現在も多くの研究が行われています。
提案されている解決策には以下のようなものがあります。
- 情報は実際には失われず、ホーキング放射に微妙な形で符号化されている
- ブラックホールの内部に情報が保存され続けている
- 時空の性質そのものを根本的に見直す必要がある
この問題は、量子力学と一般相対性理論を統合する「量子重力理論」の構築において、重要な手がかりを提供すると考えられています。
まとめ
ブラックホール脱毛定理は、ブラックホールが宇宙で最もシンプルな巨視的天体であることを示す重要な定理です。
定理の要点:
- ブラックホールは、質量、電荷、角運動量の3つのパラメータだけで完全に記述できる
- 元の天体が持っていた他のすべての情報は、外部から観測できなくなる
- この性質を「ブラックホールには毛がない」と表現する
歴史的発展:
- 1967年にWerner Israelが基礎を築き、1970年代に理論が確立された
- 2015年以降、重力波観測によって実証的に検証されるようになった
- 2020年には、OJ 287の観測によって史上初の直接的な観測的検証が達成された
現代的意義:
- 一般相対性理論の予測を検証する重要なテストとなっている
- ブラックホール情報パラドックスという深刻な理論的問題を提起している
- 量子重力理論の構築において重要な手がかりを提供している
ブラックホール脱毛定理は、一見シンプルな定理ですが、その背後には宇宙の本質に関わる深遠な問題が隠されています。
今後の観測技術の進歩と理論研究の発展により、この定理の真の意味がさらに明らかになっていくでしょう。
(最終更新日:2025年2月10日)
参考情報
- 天文学辞典「無毛定理」 – 日本天文学会による専門的な解説
- No-hair theorem – Wikipedia – 英語版Wikipediaの詳細な解説
- R. Ruffini and J.A. Wheeler, “Introducing the black hole”, Physics Today 24, 1, 30 (1971) – 脱毛定理が初めて公に紹介された論文
- Charles W. Misner, Kip S. Thorne, John Archibald Wheeler, “Gravitation” (1973) – 一般相対性理論の古典的教科書
- 大阪教育大学「ブラックホールの無毛定理の観測的検証に成功」 (2020) – OJ 287による観測的検証の研究発表
- Maximiliano Isi et al., “Testing the no-hair theorem with GW150914”, Physical Review Letters (2019) – 重力波による脱毛定理の検証
- Physics – The Simplicity of Black Holes – アメリカ物理学会による解説記事
- 膨張している宇宙ではブラックホールの個数が不明な場合があることを数値解析で証明 – 2023年の最新研究についての解説

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