ミケランジェロ・ブオナローティとは?「神のごとき」と称されたルネサンスの巨匠の生涯と作品

神話・歴史・文化

レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並ぶ「ルネサンス三大巨匠」の一人、ミケランジェロ。彫刻、絵画、建築、詩と多分野で才能を発揮し、88歳という長寿を全うするまで創作活動を続けた芸術家です。システィーナ礼拝堂の天井画やダビデ像など、誰もが一度は目にしたことのある作品を生み出したこの人物は、いったいどのような人生を歩んだのでしょうか。本記事では、ミケランジェロの生涯と代表作品について詳しく解説します。

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ミケランジェロの基本情報

ミケランジェロ・ディ・ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni)は、1475年3月6日にイタリア・トスカーナ州アレッツォ近郊のカプレーゼで生まれました。彫刻家、画家、建築家、詩人として活躍し、1564年2月18日にローマで亡くなるまで、実に88年の生涯を芸術に捧げました。

存命中から「神のごとき(Il Divino)」と称賛され、同時代の芸術家ジョルジョ・ヴァザーリは著書『画家・彫刻家・建築家列伝』で、ミケランジェロの作品を「絵画、彫刻、建築のすべてにおいて頂点を極めている」と評しています。西洋美術史上、存命中に伝記が出版された最初の芸術家でもありました。

ミケランジェロの生涯

幼少期と芸術への目覚め(1475〜1488年)

ミケランジェロの父ルドヴィーコは、カプレーゼの行政官を務めていた小貴族の末裔でしたが、財政的には豊かではありませんでした。ミケランジェロが生まれてすぐに一家はフィレンツェに戻り、父は近郊のセッティニャーノで大理石採石場と小さな農園を経営することになります。

1481年、ミケランジェロが6歳の時に母フランチェスカが長い闘病の末に亡くなりました。その後、石工の家に預けられたミケランジェロは、幼い頃からノミとハンマーに親しむ環境で育ちます。後年、彼は伝記作家アスカニオ・コンディヴィに「乳母の乳を飲みながら、鑿と金槌の使い方を覚えた」と語っています。

ギルランダイオ工房とメディチ家(1488〜1494年)

1488年、13歳のミケランジェロは、当時フィレンツェで最大の工房を持っていた画家ドメニコ・ギルランダイオに弟子入りしました。しかし、絵画を中心としたこの工房に満足できなかったようで、まもなく彫刻へと興味を移していきます。

その才能に目をつけたのが、フィレンツェの実質的な支配者ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコ)でした。ロレンツォはサン・マルコ庭園に古代彫刻のコレクションを集め、若い芸術家の育成の場としていました。ミケランジェロはここで彫刻家ベルトルド・ディ・ジョヴァンニの指導を受けながら、古代ギリシャ・ローマの彫刻を学びます。

メディチ宮殿に住み込んだミケランジェロは、当時一流の人文学者マルシリオ・フィチーノやピコ・デラ・ミランドラと交流し、新プラトン主義の思想に触れました。この時期に制作した『階段の聖母』(1490〜1492年頃)と『ケンタウロスの戦い』は、10代にして驚くべき技量と芸術性を示す作品として評価されています。

なお、この頃にミケランジェロは年上の彫刻家ピエトロ・トッリジャーノと口論になり、鼻を殴られて骨折するという事件がありました。この怪我で彼の鼻は生涯変形したままとなります。

1492年にロレンツォが死去すると、メディチ家の庇護は失われました。1494年にはフランス王シャルル8世のイタリア侵攻を機にメディチ家がフィレンツェから追放され、修道士サヴォナローラによる厳格な神権政治が始まります。19歳のミケランジェロはフィレンツェを離れ、ボローニャに身を寄せました。

ローマでのデビュー:ピエタの衝撃(1496〜1501年)

1496年、21歳のミケランジェロはローマへ向かいました。この渡航のきっかけには面白いエピソードがあります。ミケランジェロは自作のキューピッド像を土に埋めて古代の作品に見せかけ、ローマの枢機卿ラファエレ・リアリオに売りつけることに成功しました。しかし、贋作であることが発覚。ところが枢機卿はその技量の高さに感心し、ミケランジェロをローマに招いたのです。

ローマでの最初の大作が『バッコス像』(1496〜1497年)でしたが、ミケランジェロの名を一躍世に知らしめたのは次の作品でした。

1498年8月27日、フランス大使ジャン・ビレール枢機卿(Jean de Bilhères de Lagraulas)と正式に契約を締結し、サン・ピエトロ大聖堂のための『ピエタ』の制作を開始します。十字架から降ろされたキリストを抱く聖母マリアを描いたこの大理石彫刻は、1499年に完成しました。ミケランジェロ24歳の時です。

『ピエタ』は従来の表現を大きく革新するものでした。聖母マリアは息子を亡くした50代の母親ではなく、若々しい姿で表現されています。この点についてミケランジェロは「純潔な女性はより長く若さを保つ」と説明したとコンディヴィは伝えています。また、死せるキリストの身体は解剖学的に正確でありながら、聖母の膝の上に自然に収まるよう巧みに比率が調整されています。

『ピエタ』はミケランジェロ作品の中で唯一、彼の署名が刻まれている作品でもあります。ミラノから来た見物人が別の彫刻家の作品だと話しているのを耳にしたミケランジェロが、夜中にこっそり聖母マリアの胸帯に自分の名前を刻み込んだという逸話が残っています。

フィレンツェでの栄光:ダビデ像(1501〜1505年)

1501年、26歳のミケランジェロはフィレンツェに帰還しました。サヴォナローラは1498年に処刑され、共和政が復活していたフィレンツェで、彼は羊毛ギルドからある依頼を受けます。

それは、40年以上前に彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチオが手をつけたものの、途中で放棄された巨大な大理石のブロックから、フィレンツェ共和国の自由と勇気を象徴する彫刻を制作するというものでした。テーマは旧約聖書に登場する少年ダビデ。巨人ゴリアテを倒した英雄です。

約3年の歳月をかけて1504年に完成した『ダビデ像』は、像本体の高さ約5.17メートル(台座を除く)。従来のダビデ像が敵を倒した後の姿を描くのに対し、ミケランジェロはこれから戦いに挑む瞬間、敵を睨みつける直前の緊張感に満ちた姿を表現しました。

この像の設置場所をめぐっては委員会が設けられ、レオナルド・ダ・ヴィンチも参加しました。ダ・ヴィンチは保護のため屋根の下への設置を提案しましたが、ミケランジェロは多くの人の目に触れる場所を主張。結局、シニョリーア広場のヴェッキオ宮殿前に設置されることになりました。

同じ頃、ミケランジェロはヴェッキオ宮殿大広間の壁画『カッシナの戦い』の制作も依頼されます。向かい合う壁にはダ・ヴィンチが『アンギアーリの戦い』を描く予定でした。しかし、両作品とも完成には至らず、ミケランジェロの下絵は後の芸術家たちの手本として大きな影響を与えました。

システィーナ礼拝堂天井画(1508〜1512年)

1505年、ミケランジェロは教皇ユリウス2世からローマに招かれ、教皇の墓廟制作を依頼されました。しかし、この壮大なプロジェクトは計画の縮小と中断を繰り返し、最終的な完成まで40年もの歳月を要することになります。この「墓廟の悲劇」はミケランジェロを生涯苦しめ続けました。

1508年、ユリウス2世は墓廟制作を中断させ、システィーナ礼拝堂の天井画を描くようミケランジェロに命じました。彫刻家を自認するミケランジェロはこの依頼に不満でしたが、教皇の命令に逆らうことはできませんでした。

当初は十二使徒のみを描く予定でしたが、ミケランジェロ自身がより壮大な構想を提案し、天井全体を覆う大フレスコ画となりました。500平方メートルを超える天井に300体以上の人物を描くこの大事業を、ミケランジェロはほぼ一人で、約4年かけて完成させました。

天井画は旧約聖書『創世記』の9つの場面を中心に構成されています。その中でも最も有名なのが「アダムの創造」です。神とアダムの指先が今にも触れそうな瞬間を描いたこの場面は、人類の始まりという壮大なテーマを象徴的に表現し、西洋美術史上最も知られたイメージの一つとなっています。

天井画の制作は肉体的に過酷なものでした。足場の上で上を向きながら長時間絵を描き続けたミケランジェロは、首や背中に慢性的な痛みを抱え、目に絵具が垂れて視力が悪化したとも言われています。彼自身が詩の中で、この制作がいかに身体を蝕んだかを詳細に記録しています。

最後の審判とメディチ家礼拝堂(1513〜1541年)

1513年にユリウス2世が死去すると、メディチ家出身の教皇レオ10世が即位しました。ミケランジェロはフィレンツェのサン・ロレンツォ教会にあるメディチ家礼拝堂(新聖具室)の設計と彫刻制作を任されます。

この礼拝堂には、ジュリアーノ・デ・メディチとロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ・イル・マニフィコの孫)の墓碑が設けられました。墓碑の下には「朝」「夕」「昼」「夜」を擬人化した4体の寓意像が横たわっています。建築と彫刻が一体となったこの作品は、ミケランジェロの芸術の総合性を示すものとなっています。

同じ時期、ミケランジェロはサン・ロレンツォ教会のラウレンツィアーナ図書館の設計も手がけました。特に入口の階段室は、柱が壁に埋め込まれるなど、従来の建築ルールを覆す斬新なデザインで、後のマニエリスム建築に大きな影響を与えました。

1534年、ミケランジェロは再びローマに移り、以後この地を離れることはありませんでした。教皇パウルス3世の依頼で、システィーナ礼拝堂の祭壇壁に『最後の審判』を描くことになります。1536年から1541年にかけて制作されたこの大作は、キリストの再臨と死者の復活、天国と地獄への振り分けを描いたものです。

『最後の審判』では、400体近い人物が裸体で描かれ、その大胆さは当時から賛否両論を呼びました。ミケランジェロの死後、一部の人物には布が描き加えられています。また、中央のキリストの足元には、聖バルトロメオが自分の剥がれた皮を持つ姿で描かれていますが、この皮の顔はミケランジェロ自身の自画像だと言われています。

建築家としての晩年(1546〜1564年)

1546年、71歳のミケランジェロはサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命されました。この大聖堂の建設は1506年に始まっていましたが、ブラマンテ、ラファエロ、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョーヴァネと建築家が代わるたびに設計が変更され、完成の見通しが立たない状態でした。

ミケランジェロは先任者サンガッロの計画を大幅に変更し、ブラマンテの当初案に近い集中式平面に戻しながら、独自の壮大なドーム(クーポラ)を設計しました。彼は報酬を辞退し、神への奉仕としてこの仕事に取り組みました。しかし、ドームの完成を見届けることなく、ミケランジェロは1564年2月18日にローマで息を引き取ります。享年88歳でした。

大聖堂のドームは、ミケランジェロの死後、ジャコモ・デッラ・ポルタとドメニコ・フォンターナによって完成されました。高さ133メートルに及ぶこのドームは、ミケランジェロの設計を基本としながらも、より縦長のシルエットに変更されています。

ミケランジェロの遺体はローマのサンティ・アポストリ教会に埋葬されましたが、甥のレオナルドが密かに遺体を持ち出し、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に改葬しました。墓碑はジョルジョ・ヴァザーリの設計によるもので、絵画、彫刻、建築を擬人化した3体の像がミケランジェロを見守っています。

ミケランジェロの代表作品

彫刻作品

ミケランジェロは自らを「彫刻家」と称し、大理石彫刻を本業と考えていました。

作品名制作年所蔵場所
階段の聖母1490〜1492年頃カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)
ケンタウロスの戦い1491〜1492年頃カーサ・ブオナローティ(フィレンツェ)
バッコス1496〜1497年バルジェッロ国立美術館(フィレンツェ)
ピエタ1497〜1499年サン・ピエトロ大聖堂(バチカン市国)
ダビデ像1501〜1504年アカデミア美術館(フィレンツェ)
モーセ像1513〜1516年頃サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会(ローマ)
瀕死の奴隷・反抗する奴隷1513〜1516年頃ルーヴル美術館(パリ)
メディチ家墓碑彫刻群1520〜1534年メディチ家礼拝堂(フィレンツェ)
ピエタ(フィレンツェ大聖堂)1547〜1555年頃ドゥオーモ美術館(フィレンツェ)
ロンダニーニのピエタ1552〜1564年頃スフォルツェスコ城(ミラノ)

『モーセ像』は、当初ユリウス2世の墓廟のために制作された彫刻です。イスラエルの民が黄金の子牛を崇拝しているのを見て怒りを爆発させる直前のモーセを表現しており、その威厳に満ちた姿は「テリビリタ(terribilità)」、つまり見る者を畏怖させる力を体現しています。

晩年のミケランジェロは複数の『ピエタ』を制作しました。フィレンツェ大聖堂のピエタでは、十字架から降ろされるキリストを支える老人ニコデモの姿に、ミケランジェロ自身の顔が刻まれています。最晩年の『ロンダニーニのピエタ』は未完のまま残されましたが、輪郭が溶け合うような表現は、20世紀の彫刻を先取りしているとも評されます。

絵画作品

ミケランジェロは自分を画家とは考えていませんでしたが、西洋美術史上最も重要なフレスコ画を残しています。

作品名制作年所蔵場所
トンド・ドーニ(聖家族)1506〜1507年頃ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
システィーナ礼拝堂天井画1508〜1512年システィーナ礼拝堂(バチカン市国)
最後の審判1536〜1541年システィーナ礼拝堂(バチカン市国)

『トンド・ドーニ』は、現存するミケランジェロの完成したパネル画として唯一のものです。円形の板に描かれた聖家族の図で、身体をひねったマリアの姿勢は、後のマニエリスム様式を予告しています。

建築作品

ミケランジェロは建築家としても革新的な業績を残しました。

作品名設計年所在地
メディチ家礼拝堂(新聖具室)1520〜1534年サン・ロレンツォ教会(フィレンツェ)
ラウレンツィアーナ図書館1524〜1534年サン・ロレンツォ教会(フィレンツェ)
カンピドーリオ広場1536年〜ローマ
パラッツォ・ファルネーゼ上階1546年〜ローマ
サン・ピエトロ大聖堂(ドーム設計)1546〜1564年バチカン市国
ポルタ・ピア1561年ローマ

カンピドーリオ広場は、古代ローマのマルクス・アウレリウス騎馬像を中心に据えた台形の広場で、幾何学模様の舗装と左右対称の建築配置が特徴です。この設計は近代的な都市計画の先駆けとも言われています。

ミケランジェロの芸術の特徴

ミケランジェロの作品に共通するのは、人体表現への強いこだわりです。彼は若い頃からサンタ・マリア・デル・サント・スピリト教会の許可を得て人体解剖を行い、筋肉や骨格の構造を徹底的に研究しました。その知識は彫刻にも絵画にも反映され、躍動感と緊張感に満ちた肉体表現を可能にしました。

また、ミケランジェロの作品からは「テリビリタ(terribilità)」と呼ばれる特質が感じられます。これは見る者に畏敬の念を抱かせる力、圧倒的な迫力のことです。ダビデ像の決然とした表情、モーセ像の威厳、最後の審判の劇的な構図など、どの作品にもこの「テリビリタ」が宿っています。

彼の作品に見られる「身体をひねった姿勢(コントラポスト)」や「誇張された筋肉表現」は、後に続くマニエリスム様式の芸術家たちに大きな影響を与えました。ミケランジェロは盛期ルネサンスを完成させると同時に、次の時代への扉を開いた芸術家だったのです。

レオナルド・ダ・ヴィンチとの関係

ミケランジェロより23歳年上のレオナルド・ダ・ヴィンチとの関係は、決して良好なものではありませんでした。伝記作家パオロ・ジョヴィオによると、二人がフィレンツェの街で出会った際、大勢の弟子を引き連れたレオナルドに対し、一人で歩くミケランジェロは「まるで刑事長のようだ」と皮肉を言いました。レオナルドは「死刑執行人は一人で歩くものだ」と切り返したと伝えられています。

芸術観の違いも二人の対立の一因でした。多分野に関心を広げたレオナルドに対し、ミケランジェロは彫刻を最高の芸術形式と考えていました。レオナルドが「彫刻は肉体労働に過ぎない」と発言したとの記録もあり、これはミケランジェロへの当てつけだったとも言われています。

しかし、ヴェッキオ宮殿の壁画競作の企画や、互いの作品への間接的な言及からは、二人が相手の才能を認め合っていたことも窺えます。二人の対立は、ルネサンス最盛期の芸術的緊張と競争を象徴するものでもありました。

ミケランジェロの人物像

ミケランジェロは気難しく孤独な性格で知られていました。弟子をほとんど持たず、生涯独身を通しました。贅沢を嫌い、成功して富を得た後もボロボロの服を着て制作に没頭していたと伝えられています。伝記作家コンディヴィによれば、「どれほど裕福になっても、貧しい人のように暮らした」とのことです。

一方で、深い信仰心と繊細な詩心を持つ人物でもありました。300編以上の詩を残しており、特に女流詩人ヴィットリア・コロンナとの友情は、彼女が1547年に亡くなるまで続きました。二人は書簡とソネット(14行詩)を交わし、精神的な絆で結ばれていました。

まとめ

ミケランジェロ・ブオナローティは、彫刻家、画家、建築家、詩人として、西洋美術史に比類なき足跡を残した芸術家です。

  • 1475年にトスカーナ州カプレーゼで誕生
  • 13歳でギルランダイオ工房に弟子入り、その後メディチ家の庇護を受ける
  • 24歳で『ピエタ』を完成させ、一躍名声を得る
  • 29歳で『ダビデ像』を完成、フィレンツェ共和国の象徴となる
  • 33歳からシスティーナ礼拝堂天井画を約4年かけて制作
  • 61歳で『最後の審判』の制作を開始
  • 71歳でサン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に就任
  • 1564年、88歳でローマにて死去、フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に埋葬

「神のごとき」と称えられながらも、苦悩と葛藤に満ちた生涯を送ったミケランジェロ。その作品は今も世界中の人々を魅了し続けています。


参考情報

この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。

学術・百科事典

伝記資料

  • ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』(1550年初版、1568年増補版)- 同時代の芸術家による一次資料
  • アスカニオ・コンディヴィ『ミケランジェロ伝』(1553年)- ミケランジェロ本人の口述を元にした一次資料

美術館・博物館情報

Wikipedia

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