風よりも速く、海も陸も駆け抜ける伝説の馬――。
そんな夢のような存在が、ケルト神話には登場するんです。
オーニュ(Aonbharr)またはエンバル(Enbarr)と呼ばれるこの馬は、海神マナナン・マク・リルが所有し、光の神ルーに貸し与えられた魔法の馬です。
この記事では、ケルト神話に登場するオーニュについて、一次資料や信頼できる研究書を基に詳しく解説します。
オーニュとは?基本情報
オーニュは、ケルト神話(アイルランド神話)に登場する伝説の馬です。
名前の表記と読み方
この馬には、複数の表記と読み方があります:
- Aonbharr(アイルランド語): オーニュ、イーンヴァル
- Enbarr(古アイルランド語): エンバル、アンヴァル
- Énbarr: エーンバル
- Aenbharr: エーンバル
日本語では「アンヴァル」または「エンバル」と表記されることが多いですが、アイルランド語の発音に近い「オーニュ」という表記も使われます。
所有者と使用者
所有者: マナナン・マク・リル(Manannán mac Lir)
- ケルト神話の海神
- トゥアハ・デ・ダナーン(ダヌの民)の一柱
- マン島の守護神とされる
使用者: ルー(Lugh Lamh-fada)
- 「長腕のルー」と呼ばれる神
- トゥアハ・デ・ダナーンの戦士であり、多芸多才な神
- マナナンから馬や武具を借り受けた
マナナンは、オーニュだけでなく、剣「フラガラッハ(The Answerer)」や鎧など、多くの魔法の品をルーに貸し与えました。
名前の意味
オーニュ(Aonbharr / Enbarr)の名前には、いくつかの意味が提唱されています。
「泡」「飛沫」説
中世アイルランドの辞典『コルマクの語彙集(Cormac’s Glossary)』によれば、Enbarrは「泡(froth)」や「飛沫(foam)」を意味するとされています。
海の泡のように白く、波の飛沫のように素早い馬――というイメージでしょうか。
「唯一の超越性」説
現代アイルランド語で、Aonbharrは「唯一の超越性(unique supremacy)」を意味すると解釈されています。
他の馬とは比べ物にならない、圧倒的な優位性を持つ存在という意味ですね。
「単一のたてがみ」説
ユージン・オカリーの研究によれば、「単一のたてがみ」または「比類なきたてがみ」という意味もあるとされています。
実際、P.W.ジョイスの英訳版『Old Celtic Romances』では、「Enbarr of the Flowing Mane(流れるたてがみのエンバル)」と表現されています。
オーニュの能力と特徴
オーニュは、単なる速い馬ではありません。
数々の超自然的な能力を持つ、魔法の馬なんです。
1. 風を超える速さ
オーニュは、「冷たい春の生風(the naked cold wind of spring)」よりも速く走ることができました。
どんな敵からも逃げ切れる、圧倒的なスピードです。
2. 陸海を自由に移動
この馬の最大の特徴は、陸も海も同じように駆けることができるという点です。
水面や地面に触れることなく、まるで空中を走るかのように移動できました。
海神マナナンの馬らしい、海との深い結びつきを感じさせる能力ですね。
3. 不死性の付与
オーニュに乗った者は、決して殺されることがないという驚異的な能力を持っていました。
戦場でこの馬に乗れば、無敵の戦士になれるわけです。
ルーがマナナンから借り受けた鎧や剣と組み合わせることで、さらに強力な防御力を発揮しました。
4. 外見の特徴
- 色: 白または灰色と描かれることが多い
- たてがみ: 「流れるたてがみ(Flowing Mane)」を持つ美しい馬
- 性別: 古い文献では雌馬(she)として描写されている
オーニュが登場する物語
オーニュが登場する主な物語は、『Oidheadh Chloinne Tuireann(トゥレンの子らの最期)』です。
『トゥレンの子らの最期』とは
この物語は、アイルランドの「三つの悲しい物語(Trí Truagha na Scéalaigheachta)」の一つに数えられる悲劇的な伝承です。
物語の概要:
- トゥレンの息子たち(ブリアン、イウハル、イウハルバ)が、ルーの父キアンを殺害する
- ルーは復讐として、8つの困難な課題(賠償金)を課す
- トゥレンの息子たちは次々と課題をこなすが、最後の課題で致命傷を負う
- ルーは治癒の道具を持っていたが、それを貸すことを拒否し、彼らは死ぬ
オーニュの登場シーン
物語の冒頭、ルーは「約束の地の妖精騎士団(the Fairy Cavalcade from the Land of Promise)」を率いて登場します。
P.W.ジョイスの英訳版『Old Celtic Romances』には、次のように記されています:
「彼はマナナン・マク・リルの馬、すなわち流れるたてがみのエンバルに乗っていた。この馬の背に乗った戦士は決して殺されることがなかった。なぜなら、この馬は冷たい春の生風と同じくらい速く、陸でも海でも同じように容易に移動できたからである。」
トゥレンの息子たちとオーニュ
トゥレンの息子たちは、課題の一つとしてルーに馬を貸してほしいと頼みます。
しかしルーは、「これは借り物を貸すことになる(loan of a loan)」という理由で断りました。
代わりに、自動航行する魔法の船「Sguaba Tuinne(波の箒)」を貸し出しています。
一次資料と歴史的背景
オーニュの物語は、どのような資料に残されているのでしょうか。
中世の写本
『Oidheadh Chloinne Tuireann』の最古の写本は、以下のものがあります:
- Book of Lecan(15世紀頃): 要約版
- 16〜17世紀の写本: より完全な版
これらの写本は、中世アイルランド語(Middle Irish)または初期現代アイルランド語(Early Modern Irish)で書かれています。
P.W.ジョイスの英訳版(1879年)
パトリック・ウェストン・ジョイス(Patrick Weston Joyce)は、アイルランドの歴史家・民俗学者です。
彼の著作『Old Celtic Romances(古いケルトの物語集)』(1879年出版)には、『トゥレンの子らの最期』の英訳が含まれており、オーニュの描写も詳しく記されています。
この書籍はProject Gutenbergで無料公開されており、信頼できる資料として広く参照されています。
現代文化におけるオーニュ
オーニュは、現代のゲームや文学作品にも登場しています。
ゲームでの登場
Final Fantasy XIV
- 極リヴァイアサン討滅戦で稀にドロップするマウント(騎乗動物)
- 海神の馬という設定が、リヴァイアサン(海の召喚獣)と結びついている
Fire Emblem: Three Houses
- アドラステア帝国の首都が「Enbarr」と名付けられている
その他の作品
- Nate Templeシリーズ(Shayne Silvers著): マイナーキャラクターとして登場
- Harry Potter and the Goblet of Fire: 作中で言及される(ただし詳細な描写はなし)
ケルト神話における馬の重要性
オーニュのような魔法の馬が神話に登場する背景には、古代ケルト社会における馬の重要性があります。
地位と権力の象徴
古代アイルランドでは、馬を所有できるのは貴族など限られた階級だけでした。
馬は飼育にコストがかかるため、馬を所有することは富と権力の証だったのです。
戦争における重要性
馬は戦場において、機動力を提供する重要な存在でした。
ケルトの戦士たちは、騎乗して戦うか、戦車(チャリオット)を馬に引かせて戦いました。
英雄クー・フーリンの戦車を引いた「マハの灰色馬」と「サングレインの黒馬」も、有名な神話の馬です。
馬の女神エポナ
ケルト神話には、馬を守護する女神エポナ(Epona)がいます。
彼女は馬の繁栄と豊穣を司り、古代ガリア(現在のフランス)やローマ帝国でも広く崇拝されました。
まとめ
オーニュ(アンヴァル/エンバル)は、ケルト神話に登場する伝説の馬で、以下のような特徴を持っています:
- 海神マナナン・マク・リルの所有する魔法の馬
- 風よりも速く、陸海を自由に駆ける
- 乗った者は決して殺されない
- 「流れるたてがみ」を持つ白または灰色の美しい馬
- 『トゥレンの子らの最期』で光の神ルーが騎乗
オーニュの物語は、古代ケルト人が馬に抱いていた畏敬の念と、神話的想像力の豊かさを今に伝えています。
現代のファンタジー作品やゲームにも登場し続けるオーニュは、数千年の時を超えて、私たちの想像力を刺激し続けているのです。


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