エリドゥ創世記完全ガイド:シュメール最古の創世神話と大洪水伝説

古代メソポタミアに伝わるシュメール最古の創世神話「エリドゥ創世記」。
人類の創造、最初の都市の誕生、そして世界を襲った大洪水の物語は、後の『ギルガメシュ叙事詩』や聖書の『創世記』にも影響を与えました。
この記事では、紀元前1600年頃に記された粘土板に刻まれた壮大な物語の全貌を、発見の歴史から内容、文化的意義まで徹底的に解説します。

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概要

エリドゥ創世記(Eridu Genesis)は、シュメール語で記された古代メソポタミアの創世神話です。
神々による人類と動物の創造、最初の都市の建設、王権の起源、そして世界を襲った大洪水の物語が記されています。
現存する最古のメソポタミア洪水伝説として、後世の神話文学に多大な影響を与えた重要な文献です。

エリドゥ創世記とは

エリドゥ創世記は、シュメール創世神話、シュメール洪水物語、シュメール大洪水神話とも呼ばれています。
紀元前1600年頃にシュメール語で記された粘土板文書で、現存するメソポタミアの洪水伝説の中で最古のものとされています。

この名称は、1981年に歴史学者トーキルド・ヤコブセン(Thorkild Jacobsen)が学術論文で使用したことから定着しました。
ヤコブセンは『聖書文学ジャーナル(Journal of Biblical Literature)』に発表した論文の中で、この神話を「エリドゥ創世記」と命名しています。

物語の舞台となったエリドゥ(Eridu)は、シュメール王名表において「王権が天から最初に降った都市」とされる古代メソポタミア最古の都市の一つです。
現在のイラク南部に位置し、シュメール文明発祥の地として神話的にも考古学的にも重要な意味を持っています。

発見の歴史

エリドゥ創世記の物語は、異なる時代に作成された3つの断片から知られています。

ニップール出土の粘土板

最も重要な資料は、1889年にペンシルベニア大学の探検隊が古代シュメールの都市ニップール(Nippur)で発掘を開始し、発見された粘土板です。
発掘は1889年、1890年、1893-1896年、1898-1900年の4シーズンにわたって実施されました。
この粘土板は「B10673」という識別番号で管理されており、現在はペンシルベニア大学博物館に所蔵されています。

1912年、アルノ・ポーベル(Arno Poebel)がこの粘土板を創世神話として認識し、1914年に学術的に出版しました。
粘土板はシュメール語で書かれており、紀元前1600年頃のものと推定されています。

ただし、粘土板の上部約3分の1が失われており、最初の36行は欠損しています。
この失われた部分には、人類と動物の創造に関する記述があったと推測されています。

ウル出土の断片

2つ目の断片は、古代都市ウル(Ur)から発見されました。
こちらもシュメール語で書かれており、ニップール出土の粘土板と同時代のものです。
この断片は、ニップール版で失われた部分の内容を補完する手がかりを提供しています。

アッシュールバニパルの図書館からの断片

3つ目は、紀元前7世紀のアッシリア王アッシュールバニパルの図書館から発見されたシュメール語とアッカド語のバイリンガル版断片です。
紀元前600年頃のもので、シュメール語とアッカド語が併記されており、後世における神話の伝承と翻訳の様子を示しています。

新たな断片の発見

2018年には、エリドゥ創世記の新たな断片が学術的に出版されました。
この発見により、物語のさらなる復元が進んでいます。

文献の構成

エリドゥ創世記は、大部分が欠損した断片的な資料です。
現存する粘土板の状態から、以下のような構成であったと推測されています。

失われた冒頭部(第1行〜第36行)

粘土板の上部が失われているため、最初の36行は現存しません。
この部分には、人類と動物の創造に関する記述があったと考えられています。
ウル出土の断片から、文明以前の人類の原始的な生活についても語られていた可能性が示唆されています。

都市の建設と王権の起源(第37行以降)

現存する部分は、創造女神ニントゥル(Nintur)が人類に文明をもたらそうと決意する場面から始まります。
神々は最初の都市を建設し、それぞれの都市に守護神を配置しました。

大洪水の到来(欠損部分を含む)

約34行の欠損部分があり、ここにはシュメール王名表と一致する洪水以前の王たちの名前が記されていたと推測されています。

その後、人類の騒音が神々を悩ませ、最高神エンリル(Enlil)が人類を滅ぼす決断を下す場面が続きます。

ジウスドラの方舟と洪水の記述

知恵の神エンキ(Enki)が、シュルッパク(Shuruppak)の王ジウスドラ(Ziusudra)に洪水を警告します。
欠損部分には方舟の建造指示があったと考えられ、その後7日7晩にわたる大洪水の描写が続きます。

洪水後と永遠の命

洪水が収まった後、ジウスドラが太陽神ウトゥ(Utu)に犠牲を捧げる場面があります。
最終的に、天神アン(An)と最高神エンリルがジウスドラに「永遠の命」を授け、神話の国ディルムン(Dilmun)に住まわせることが記されています。

残りの部分は失われています。

物語の内容

エリドゥ創世記の物語は、世界の創造から大洪水、そして人類の再生までを描いています。

人類と動物の創造

物語の冒頭(現在は失われています)では、神々による人類と動物の創造が語られていたと推測されています。

現存する部分では、天神アン(An)、最高神エンリル(Enlil)、知恵の神エンキ(Enki)、母なる女神ニンフルサグ(Ninhursaga)の4柱の神々が「黒髪の人々」(シュメール人の自称)を創造したことが記されています。
神々はまた、地上に動物を繁栄させ、平原に四足獣が暮らすようにしました。

最初の都市の建設

創造女神ニントゥルは、人類に都市生活をもたらすことを決意しました。
王権が天から降り、最初の5つの都市が建設されました。

これらの都市は、それぞれ守護神に割り当てられました。

最初の5都市:

  • エリドゥ(Eridu): 知恵の神ヌディンムド(Nudimmud、エンキの別名)
  • バッド・ティビラ(Bad-Tibira): 王子と聖なる者(ドゥムジとイナンナ)
  • ララク(Larak): パビルサグ(Pabilsag)
  • シッパル(Sippar): 太陽神ウトゥ(Utu)
  • シュルッパク(Shuruppak): アンスド(Ansud、穀物の女神ニンリルとも)

これらの都市は、シュメール王名表にも同じ順序で記載されている洪水以前の都市です。

都市が建設されると、人々は灌漑用水路を整備し、農業を発展させました。
分配経済システム(貨幣ではなく、測定容器による物々交換)が確立され、人類は繁栄しました。

神々の決断

ここで約34行の欠損部分があります。
シュメール王名表や後世のアッシュールバニパル版断片から、この部分には洪水以前の王たちの名前と、彼らの治世が記されていたと推測されています。

その後、人類の繁栄がもたらした騒音が、最高神エンリルを苦しめました。
睡眠を妨げられたエンリルは、他の神々を説得し、大洪水によって人類を滅ぼす決定を下しました。

エンキの警告

知恵の神エンキは、この決定に反対でした。
エンキは、シュルッパクの敬虔な王ジウスドラに洪水を警告します。

エンキは壁越しに語りかけ、ジウスドラに大きな船を建造するよう指示しました。
方舟の建造に関する具体的な指示は、粘土板の欠損部分にあったと考えられています。

7日7晩の大洪水

「あらゆる悪しき風、あらゆる嵐の風が一つに集まり、それらとともに洪水が都市を襲った」

大洪水は7日7晩続きました。
巨大な船は大いなる水の上で揺れ動きましたが、耐え抜きました。

洪水の終わりと犠牲

洪水が収まると、太陽神ウトゥが姿を現し、光を天と地に広げました。

ジウスドラは大きな船に開口部を開け、ウトゥの光が船内に差し込みました。
王として、ジウスドラはウトゥの前に進み出て、地に口づけし、牛や羊を犠牲として捧げました。

永遠の命の授与

ここで再び欠損部分があり、おそらくエンリルが生存者を発見して怒る場面と、エンキがそれを説明する場面があったと推測されています。

物語の最後で、天神アンと最高神エンリルは、ジウスドラに「永遠の命」を授けました。
「動物と人類の種を保存した」功績を称え、ジウスドラは神話の国ディルムン(「太陽が昇る場所」)に住むことを許されました。

残りの部分は失われています。

主要な登場人物

エリドゥ創世記には、シュメール神話の主要な神々と伝説的な王が登場します。

アン(An)

天神アンは、シュメール神話における天空の神です。
エンリルと並ぶ最高神格で、人類創造に関わった4柱の神の一人です。
洪水後、ジウスドラに永遠の命を授ける決定に関与しました。

エンリル(Enlil)

最高神エンリルは、「風の主」として知られ、シュメール・パンテオンの支配者です。
人類の騒音に悩まされ、大洪水を引き起こす決定を下しました。
後に、ジウスドラの功績を認めて永遠の命を授けています。

エンキ(Enki)

知恵の神エンキは、地下淡水アプスー(Apsû)を司る神です。
後のアッカド神話では、エア(Ea)に相当します。
人類を滅ぼす決定に反対し、ジウスドラに洪水を警告して人類と動物を救いました。

エンキはエリドゥの守護神でもあり、この都市はエンキによって建設されたとされています。

ニントゥル/ニンフルサグ(Nintur/Ninhursaga)

創造女神ニントゥルは、ニンフルサグとも呼ばれます。
「石の地の女主人」を意味し、野生動物の母とされています。
人類に都市生活をもたらすことを決意した女神です。

ウトゥ(Utu)

太陽神ウトゥは、後のアッカド神話ではシャマシュ(Shamash)に相当します。
洪水後に姿を現し、光をもたらしました。
シッパルの守護神でもあります。

ジウスドラ(Ziusudra)

シュルッパクの王ジウスドラは、洪水伝説の主人公です。
敬虔で謙虚な人物として知られ、エンキの警告に従って方舟を建造しました。

ジウスドラは、後の『ギルガメシュ叙事詩』のウトナピシュティム(Utnapishtim)、『アトラハシス叙事詩』のアトラハシス、聖書のノアに相当する人物と考えられています。

名前の意味は「長き日々を見出した者」とされ、永遠の命を授かったことを象徴しています。

他の洪水伝説との関係

エリドゥ創世記は、後世の多くの洪水伝説の原型となりました。

アトラハシス叙事詩との関係

『アトラハシス叙事詩』(Atra-Hasis)は、紀元前17世紀頃にアッカド語で記された洪水物語です。
エリドゥ創世記とほぼ同時代の作品で、神々が人類を創造する動機や洪水の理由について、より詳細に語っています。

アトラハシスでは、神々が労働の苦しみから解放されるために人類を創造したこと、人口増加による騒音がエンリルを悩ませたことが明確に記されています。

ギルガメシュ叙事詩との関係

『ギルガメシュ叙事詩』は、シュメール語の詩として紀元前2100年頃に成立し、古バビロニア版は紀元前1800年頃、標準バビロニア版は紀元前1300-1000年頃に編纂されました。
標準バビロニア版の第11書板には、洪水物語が含まれています。
ここでは、ウトナピシュティムが主人公として登場し、ギルガメシュに不死の秘密を語る形式になっています。

ギルガメシュ叙事詩の洪水物語は、アトラハシスからほぼそのまま借用された部分もあり、エリドゥ創世記の伝統を継承しています。

聖書の創世記との関係

聖書の『創世記』は、学術的なコンセンサスでは紀元前5世紀頃の成立とされていますが、原始史(1-11章)については紀元前3世紀まで後代に追加された可能性も指摘されています。
ここに記されたノアの方舟の物語は、エリドゥ創世記と顕著な類似点を持っています。

共通点:

  • 神々/神が人類を滅ぼす決定を下す
  • 敬虔な一人の人物が選ばれて警告を受ける
  • 大きな方舟を建造する
  • 動物を乗せる
  • 鳥を放つ
  • 洪水後に犠牲を捧げる
  • 神々/神が後悔する

相違点:

  • エリドゥ創世記では、洪水の理由は人類の「騒音」
  • 聖書では、人類の「邪悪さ」が理由
  • エリドゥ創世記の洪水は7日7晩
  • 聖書では雨が40日40夜降り、洪水全体は150日続いた(2つの資料源の統合による記述)
  • ジウスドラの方舟はユーフラテス川を下ってペルシャ湾へ
  • ノアの方舟はアララト山に漂着

これらの類似性から、聖書の洪水物語がメソポタミアの伝承に影響を受けた可能性が指摘されています。

考古学的証拠

シュメールの複数の都市(シュルッパク、キシュなど)で、紀元前2900年頃の洪水堆積層が発見されています。
これは、局地的な大洪水が実際に発生し、それが神話の基になった可能性を示唆しています。

ただし、これが「世界規模の大洪水」であったかどうかについては、学術的な議論が続いています。

歴史的・文化的意義

エリドゥ創世記は、古代メソポタミア文明を理解する上で極めて重要な資料です。

最古の洪水伝説

エリドゥ創世記は、現存する最古のメソポタミア洪水伝説として、後世の神話文学に多大な影響を与えました。
口承伝統としては紀元前2800年頃まで遡る可能性も指摘されており、人類最古の創世神話の一つと考えられています。

都市国家体制の起源

物語に登場する5つの都市は、シュメール王名表と一致しており、歴史的な都市国家体制の記憶を反映しています。
各都市に守護神が配置されるという概念は、後のメソポタミア文明全体に継承されました。

王権の神聖性

「王権が天から降った」という表現は、王権の神授説を示しています。
この概念は、古代メソポタミアにおける政治的正統性の根拠となりました。

文明と野蛮の対比

エリドゥ創世記は、都市生活と文明の価値を強調しています。
創造女神ニントゥルが人類に都市を建設させ、灌漑農業を発展させる場面は、シュメール人の文明観を反映しています。

神話の文学的影響

エリドゥ創世記の物語構造は、後のアトラハシス叙事詩、ギルガメシュ叙事詩、さらには聖書の創世記にまで影響を与えました。
「敬虔な一人を救う」というモチーフは、世界各地の洪水神話に共通して見られます。

宗教思想の発展

エリドゥ創世記における神々の性格描写は、シュメール宗教思想を示しています。
エンキは人類に味方する知恵の神、エンリルは厳格な支配者、アンは最高権威という役割分担が明確です。

後のバビロニア神話では、エンキ(エア)の役割がさらに強調され、マルドゥク神の台頭とともに神話体系が再構築されていきます。

参考情報

この記事で参照した情報源

一次資料(原典)

学術資料・研究論文

  • Jacobsen, Thorkild. “The Eridu Genesis.” Journal of Biblical Literature 100, no. 4 (December 1981): 513–529
  • 「エリドゥ創世記」という名称を命名した重要論文
  • Jacobsen, Thorkild. The Harps that Once…: Sumerian Poetry in Translation. Yale University Press, 1987
  • シュメール詩の翻訳と解説
  • Poebel, Arno. Historical Texts. The University of Pennsylvania: The University Museum Publications of the Babylonian Section, Vol. IV. Philadelphia: The University Museum, 1914
  • 粘土板B10673の最初の学術的出版
  • Kramer, Samuel Noah. “The Sumerian Deluge Myth. Reviewed and Revised.” Anatolian Studies 33 (1983): 115-121
  • シュメール洪水神話の詳細な分析

参考になる外部サイト

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