アンデス山脈を旅すると、「アプ」という言葉を耳にすることがあります。
これはインカ神話に登場する山の精霊であり、現代のペルーでも深く信仰され続けている存在です。
この記事では、アプの意味、役割、有名なアプの山々、そして現代まで続く信仰について詳しく解説します。
概要
アプ(Apu)は、インカ神話およびアンデス地域の諸民族に伝わる山の精霊です。
ケチュア語で「主」「首長」を意味し、山そのものが神聖な存在として崇められてきました。
インカ帝国の時代から現代に至るまで、アンデス地域の人々はアプを守護者として敬い、豊穣や安全を祈ってきました。
アプの基本情報
名前の意味
「アプ(Apu)」はケチュア語で「主」「首長」「神」を意味します。
この言葉には権威と尊敬の念が込められており、山そのものが偉大な存在であることを示しています。
役割と信仰の対象
アプは単なる山ではなく、生きた精霊として信じられています。
山の肉体とエネルギーが一体となって、精霊の「ワシ(wasi、家または神殿)」を形成すると考えられました。
アプは以下のような役割を担っています。
地域の守護者として、周辺の住民、家畜、作物を見守ります。
天候を支配し、雨や雪をもたらして農業に影響を与えます。
先祖の霊と結びつき、人々と神々を繋ぐ存在とされます。
アプの性質
アプには人間のような性質が与えられていました。
性別を持ち、多くは男性の精霊とされましたが、女性のアプも存在します。
それぞれの山に固有の名前と個性があります。
高い山ほど重要で強力なアプとされました。
アプの種類
アプは守護する範囲によって3つに分類されていました。
アイリュ・アプ(Ayllu Apu)
村を守護するアプです。
小規模な共同体の守り神として崇められました。
リャクタ・アプ(Llaqta Apu)
地域を守護するアプです。
複数の村を含む広い範囲を見守る存在でした。
スユ・アプ(Suyu Apu)
国を守護するアプです。
最も強力で重要なアプとされ、インカ帝国全体に影響を及ぼすと信じられました。
有名なアプ一覧
アンデス地域には数多くの聖なる山がありますが、特に重要とされるアプを紹介します。
| 日本語名 | 原語 | 標高 | 所在地 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|
| アウサンガテ | Ausangate | 6,384m | クスコ県ヴィルカノタ山脈 | ペルー第5位の高峰。クスコの主要な守護神。水の神として崇拝される |
| サルカンタイ | Salkantay | 6,271m | クスコ県ヴィルカバンバ山脈 | 「荒々しい山」の意味。マチュピチュの守護者 |
| ワスカラン | Huascarán | 6,768m | アンカシュ県コルディレラ・ブランカ | ペルー最高峰。北部地域の主要なアプ |
| マチュピチュ山 | Machu Picchu | 3,082m | クスコ県 | インカ遺跡と同名の聖なる山 |
| ワイナピチュ山 | Huayna Picchu | 2,720m | クスコ県 | マチュピチュ遺跡に隣接する聖山 |
| ベロニカ | Verónica/Wakaywillque | 5,682m | クスコ県ウルバンバ山脈 | 農業の守護者。元の名は「ワイナウィルカ(若き聖なる者)」 |
| アンパト | Ampato | 6,288m | アレキパ県 | 1995年に氷のミイラ「フアニータ」が発見された |
信仰と儀礼
供物と祈り
インカの人々は、アプに様々な供物を捧げました。
チチャ(トウモロコシの酒)を地面に注ぎます。
コカの葉を祭壇に置きます。
リャマの脂肪を燃やして煙を捧げます。
織物や貴重品を奉納します。
カパコチャ(人身御供)
最も重要な儀式として、カパコチャ(Capacocha)と呼ばれる人身御供が行われました。
これは国家的危機や重要な出来事の際に、最も高い山々で執り行われました。
選ばれた子どもや若者が、純粋な供物として捧げられました。
1995年にアンパト山で発見された「氷のミイラ・フアニータ」は、1450年から1480年頃のカパコチャの犠牲者と考えられています。
現代の儀礼
現代でも、アンデス地域の人々はアプへの信仰を守り続けています。
伝統的な「大地への支払い(pago a la tierra)」が行われます。
コカの葉を地面に投げて配置を読み、アプからのメッセージを受け取ると信じられています。
アルトミサヨク(altomisayoc)と呼ばれる祭司が、アプとの対話を仲介します。
インカの宇宙観とアプ
三つの世界
インカの宇宙観では、世界は三つの層に分かれていました。
ハナン・パチャ(Hanan Pacha)は、上界または神々の世界です。
カイ・パチャ(Kay Pacha)は、人間界です。
ウク・パチャ(Uku Pacha)は、下界または地下世界です。
山の役割
山々は、カイ・パチャ(人間界)からハナン・パチャ(上界)へと聳え立ちます。
つまり、アプは人間と神々を繋ぐ橋のような存在だったのです。
山の頂上は天に最も近い場所とされ、神々との対話に最適な場所と考えられました。
そのため、高い山々には神殿や祭祀場が建設されました。
パチャママとの関係
アプは、大地母神パチャママ(Pachamama)と共に働く存在とされています。
アプは高い場所から見守り、導きます。
パチャママは大地から育み、養います。
この二つの存在が協力することで、アンデスの生態系と人々の暮らしが成り立つと信じられてきました。
現代における信仰
継続する伝統
インカ帝国が滅亡してから約500年が経った現在でも、アプへの信仰は消えていません。
特に伝統的なアンデスの共同体では、アプは今も生きた存在として尊重されています。
カトリックとの融合
スペインによる征服後、カトリック教会の影響を受けて、アプ信仰は形を変えました。
一部のアプは、キリストや聖母マリアと結びつけられました。
「テクセ・アプ(Tekse Apu、世界のアプ)」という概念が生まれ、キリスト教の神と融合しました。
しかし、根底にある山への畏敬の念は変わらず受け継がれています。
巡礼と祭り
現代のペルーでは、アプに関連する祭りや巡礼が続いています。
クイリュル・リティ(Qoyllur Rit’i)は、アウサンガテ山麓で毎年行われる大規模な巡礼です。
何千人もの信者が山に登り、アプに祈りを捧げます。
伝統的な舞踊や音楽が奉納されます。
観光と聖性の両立
マチュピチュなどの遺跡は世界的な観光地となっていますが、地元の人々にとっては今も聖なる場所です。
観光客がインティワタナ(Intihuatana、太陽を繋ぎとめる石)などの聖なる場所を訪れることは、複雑な感情を呼び起こすこともあります。
まとめ
この記事では、インカ神話のアプについて解説しました。
アプはケチュア語で「主」「首長」を意味する山の精霊です。
地域の守護者として、人々、家畜、作物を見守る存在とされました。
アウサンガテ、サルカンタイなど、多くの聖なる山が崇拝されてきました。
インカの宇宙観では、山は人間界と神々の世界を繋ぐ橋でした。
現代でもアンデス地域の人々は、アプへの信仰を守り続けています。
アプへの信仰は、単なる古代の迷信ではありません。
それは自然との共生、山岳地域での生存、そして共同体の絆を支えてきた知恵の体系なのです。


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