インカ神話に登場する死の神スパイは、地下世界ウク・パチャを支配する強大な神です。
「影」を意味するケチュア語に由来し、スペイン征服後は悪魔と同一視されましたが、本来は善悪のバランスを保つ両義的な存在でした。
この記事では、スパイの起源、役割、外見、そして現代まで続く信仰について詳しく解説します。
概要

スパイは、ケチュア族やアイマラ族の土着信仰、およびインカ神話における死霊、精霊、神です。
元来はインカの地下世界(ウク・パチャ)すなわち死者の世界の住人であり、生者の世界に紛れ込んだ「影」つまり魂や亡霊(特に先祖の霊)を指しました。
きまって悪霊というわけではなく、生者を死後の世界に導く存在で、生前にどのようなおこないをすればよいか、などの指導もします。
スパイの名前と語源
スパイ(Supay)という名前は、ケチュア語の「supa」に由来し、「影」を意味します。
1586年刊行の辞典では「影(sombra)」と定義されており、1608年のディエゴ・ゴンサレス・オルギン司祭の辞典でも同様の意味とされています。
ケチュア語では「Supay」、アイマラ語では「Supaya」と呼ばれ、いずれも「影」という意味を持ちます。
早期のケチュア=スペイン語の文献では、この「影」はおおよそ「魂」や「アニマ」の概念の意味で使われていました。
辞書によっては、スパイという語は「影、病気、死、憑依された、狂った」といった複数の意味を持つとされています。
スパイの役割と性質
死者の世界の支配者
スパイは、ウク・パチャ(Uku Pacha)と呼ばれる地下世界、すなわち死者の世界の支配者です。
インカの宇宙観では、世界は3つの階層に分かれています。
- ハナン・パチャ(Hanan Pacha): 天上界、神々の世界
- カイ・パチャ(Kay Pacha): 現世、人間の世界
- ウク・パチャ(Uku Pacha): 地下世界、死者の世界
スパイはこのウク・パチャを統治し、死者の魂を迎え入れ、死後の世界へと導く役割を担っていました。
善悪のバランスを保つ神
スパイは単なる邪悪な神ではなく、善悪のバランスを保つ両義的な存在として理解されていました。
創造神ビラコチャ(Viracocha)によって創造されたとされ、その目的は「世界には常に悪が存在するが、十分ではない」ことを人類に示すためでした。
インカの人々は、スパイが善と悪の超自然的な力のバランスを維持する神であると信じていました。
尊厳ある死を遂げた者や、スパイに気に入られた生者には優しく接しましたが、それ以外の者には地下世界でも現世でも恐ろしく邪悪な存在となりました。
死後の世界への案内者
古代の伝説によれば、スパイは単に悪を体現するだけの存在ではなく、死者が辿る道を守護する存在でもありました。
インカの人々は、死後、魂は別の次元へと移行すると信じており、この次元はインカの神々とともに新たな始まりを意味していました。
スパイは生前にどのようなおこないをすればよいかといった指導もする存在とされ、決まって悪霊というわけではありませんでした。
スパイの外見と特徴
スパイは、悪魔のような恐ろしい外見で描かれることが一般的です。
- ジャガーの頭
- 長い角
- プーマの身体
- 鋭い牙と歯
- 長い耳
- ガラスのような、星のような目
他のアンデスの神々と同様に、スパイは多形の神であり、どのような姿でも現れることができました。
美しいインカ人の男性や女性、あるいは任意の動物に変身する能力を持っていたとされています。
この変身能力と、予測不可能で対立的な性格のため、スパイはトリックスターとして分類されることもあります。
人類を死後の世界への旅で保護することもできれば、人類を欺いたり、その最も歪んだ側面を引き出すよう促すこともできたのです。
スパイと他の神々との関係
創造神ビラコチャによって創造されたスパイは、太陽神インティ(Inti)、雷神イリャパ(Illapa)、月の女神ママ・キラ(Mama Quilla)の兄弟とされています。
また、一部の伝承では、大地の女神パチャママ(Pachamama)の配偶者として描かれることもあり、地球のサイクルとの結びつきを示しています。
スパイと鉱業の関係
スパイは鉱夫や地中を掘る者たちと深い関わりを持つ神でもありました。
地下世界の支配者として、スパイは地下に眠る豊富な鉱物資源を支配していると信じられていました。
鉱夫たちはスパイの加護を求め、採掘作業の安全と成功を祈願しました。
ボリビアの鉱山地帯では、スパイは「エル・ティオ(El Tío)」と呼ばれる鉱脈や地下の神と習合しています。
「エル・ティオ」は「おじさん」という意味で、スパイと呼び捨てにするのは抵抗があるため「スパイおじさん」と呼ぶようになったという俗説もあります。
現代でも、アンデス地方の鉱夫や掘削作業者の間でスパイ崇拝は生き続けています。
スペイン征服とキリスト教の影響
1532年から1533年にかけて、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人の侵攻により、インカ帝国は崩壊しました。
スペインによる植民地化に伴い、カトリック教会の宣教師たちは「スパイ」という名前をキリスト教の「悪魔(el Diablo)」を指す言葉として使用しました。
スパイの角、爪、悪魔の軍団といった特徴は、キリスト教におけるサタンのイメージと似ていたため、両者は混同されやすくなりました。
スパイの地下世界ウク・パチャは、キリスト教の「地獄」の概念と重ね合わされました。
しかし、ヨーロッパ人がキリスト教の悪魔に対して行ったのとは異なり、先住民の人々はスパイを拒絶しませんでした。
彼らはスパイを恐れていましたが、同時にスパイを呼び起こし、害を加えないよう懇願しました。
現代におけるスパイ信仰
スペイン征服と文化の同化にもかかわらず、スパイは先住ペルー人の日常生活の中で生き続けました。
カトリック教会がペルーの支配的な宗教機関となったにもかかわらず、スパイの信仰は消えることなく続いています。
アンデスのカーニバル
スパイは、ボリビア、チリ、ペルーなどのアンデス地方のカーニバルで特に重要な役割を果たしています。
ペルーのプーノで開催される「ラ・カンデラリア祭(La Candelaria)」では、スパイを表すキャラクターが登場する活気あるダンス「ディアブラーダ(diabladas、悪魔の踊り)」が披露されます。
これらの祭りでは、2週間にわたってダンスと祝祭が続き、スパイは現代のアンデス文化における永続的な存在感を示しています。
現代文化への影響
スパイの影響は、現代のアンデス文化に浸透しており、さまざまなメディアで芸術家、作家、音楽家にインスピレーションを与えています。
絵画、彫刻、演劇などでのスパイの描写は、そのキャラクターに内在する二面性を反映しています。
現在でも、「Supay」という言葉は南米のほとんどの国で「diablo(悪魔)」とおおよそ翻訳されています。
例えばアルゼンチン北部では、スパイが支配する地下世界は「サラマンカ(Salamanca)」と呼ばれています。
まとめ
スパイ(Supay)は、インカ神話における死の神であり、地下世界ウク・パチャの支配者です。
ケチュア語で「影」を意味するこの神は、単なる邪悪な存在ではなく、善悪のバランスを保つ両義的な神として理解されていました。
スペイン征服後、カトリックの宣教師によって「悪魔」と同一視されましたが、先住民の人々はスパイを恐れつつも崇拝し続けました。
現代でも、アンデス地方のカーニバルや鉱夫の儀式において、スパイは重要な存在であり続けています。
スパイの物語は、異なる文化が出会い、混ざり合う中で、伝統的な信仰がどのように変容し、そして持続するかを示す興味深い例となっています。

