ママ・コチャ(Mama Cocha)とは?インカ神話の海の女神を徹底解説

神話・歴史・文化

南米アンデス山脈に栄えたインカ帝国。

その人々が崇めた神々の中に、海と水を司る偉大な女神がいました。

ママ・コチャ(Mama Cocha)は、海の恵みをもたらし、沿岸の民を守護する母なる存在として、今なおペルー沿岸部で信仰が続いています。

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概要

ママ・コチャは、インカ神話における海と水の女神です。

ケチュア語で「母なる海」を意味するこの女神は、海、川、湖、泉など、あらゆる水域を司り、漁師や船乗りに恵みを与え、彼らを危険から守る存在として崇拝されました。

創造神ビラコチャ(Viracocha)の妻であり、太陽神インティ(Inti)と月の女神ママ・キリャ(Mama Quilla)の母とされています。

名前の意味と表記

ケチュア語の意味

「ママ・コチャ」という名前は、ケチュア語の2つの言葉から成り立っています。

ママ(Mama)は「母」を意味し、インカ神話の女神の名前に広く使われる称号です。

コチャ(Qucha)は「海」「湖」「水域」を意味します。

したがって、ママ・コチャは直訳すると「母なる海」「海の母」という意味になります。

表記のバリエーション

文献によって、いくつかの表記が見られます。

  • ママ・コチャ(Mama Cocha)
  • ママ・クチャ(Mama Qucha) – ケチュア語に近い表記
  • ママコチャ(Mamacocha) – 一語で表記
  • ママ・コタ(Mama Cota) – アイマラ族の表記

アイマラ族は、現在のボリビアやペルー南部に住む先住民族で、彼らの言語ではママ・コタ(Mama Cota)と呼ばれていたことが、スペイン植民地時代の記録者ポロ・デ・オンデガルドによって記録されています。

ママ・コチャの役割と性質

水域の支配者

ママ・コチャは、海だけでなく、川、湖、泉、さらには人工の水路まで、あらゆる水域を司る女神とされました。

帝国の地域によっては、すべての水源がママ・コチャの支配下にあると信じられていました。

泉や湧き水は、ママ・コチャの「子ども」として崇められました。

漁師と船乗りの守護神

沿岸部の人々にとって、ママ・コチャは最も重要な神の一柱でした。

漁師たちは出航前にママ・コチャに祈りを捧げ、豊漁と安全な航海を願いました。

荒れ狂う海を鎮め、嵐を防ぎ、十分な魚をもたらすのがママ・コチャの役割とされています。

16世紀のスペイン人年代記作者グアマン・ポマ・デ・アヤラは、その著作『新年代記と善政』の中で次のように記録しています。

「帝国全土において、インカ(皇帝)は南の海を崇拝し、供物を捧げるよう定めた。海はママ・コチャと呼ばれた。ママは母を意味し、コチャは海を意味する。沿岸のユンガ(低地の民)は、海の近くに偶像を置いて崇拝した。ワチミ(漁師)もまた崇拝した」

水循環と農業の恩恵

ママ・コチャは、海から蒸発した水が雨となって地上に降り注ぐ、水循環の仕組みとも関連づけられました。

雨を降らせ、作物を育てる力を持つことから、内陸部の農民にとっても重要な神でした。

インカの人々が水循環の基本的な知識を持っていたことを示す証拠として、ママ・コチャ信仰が挙げられています。

女性性と調和の象徴

ママ・コチャは、すべての女性的なものを象徴する存在でもありました。

彼女は世界に調和とバランスをもたらす力を持つと考えられ、男性原理との均衡を保つ役割を担っていたとされます。

神話における家族関係

最も一般的な系譜

インカ神話の最も広く伝わる伝承では、ママ・コチャは以下のような家族関係を持ちます。

夫: ビラコチャ(Viracocha) – 創造神、文明をもたらした神
子: インティ(Inti) – 太陽神、インカ帝国の守護神
子: ママ・キリャ(Mama Quilla) – 月の女神、女性と時間の守護者

この系譜によれば、ママ・コチャは創造神の妻として、宇宙の秩序を維持する重要な役割を果たしていたことになります。

16世紀の年代記作者インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガは、その著作『インカ皇統記』の中で、ママ・コチャを「母なる海」と呼び、人々に魚や海の幸を与える母なる存在として描いています。

もうひとつの伝承

別の地域の伝承では、異なる家族関係も伝えられています。

ある神話によれば、ママ・コチャは太陽と月の娘であり、「インカ」(太陽の子)の姉妹だったとされます。

この伝承では、ママ・コチャは天上から弟とともに地上に降り立ち、人々に平和と労働の技術を教えたとされています。

人々は彼女を保護者として認め、彼女と弟の指導の下で家や道路、神殿や要塞を建設し、土地を耕したと伝えられています。

このような複数の伝承が存在するのは、インカ帝国が広大な地域を支配し、各地の伝承が統合される過程で異なるバリエーションが生まれたためと考えられます。

インカの世界観における位置

3つの世界(パチャ)

インカの宇宙観では、世界は3つの層から成り立っていると考えられていました。

ハナン・パチャ(Hanan Pacha) – 天上界。正しい人々と神々が住む世界
カイ・パチャ(Kay Pacha) – 現世。人間が生きる世界
ウク・パチャ(Uku Pacha) – 地下界。死者や地下の存在が住む世界

ママ・コチャがどの世界に住んでいたかについては、文献によって記述が異なります。

一部の伝承では、ママ・コチャはハナン・パチャ(天上界)に住み、ビラコチャ、インティ、ママ・キリャとともに世界を見守っていたとされています。

別の伝承では、ウク・パチャ(地下界)に住んでいたとも言われます。

スペイン語版のWikipediaによれば、ママ・コチャはウク・パチャに住み、死神スパイ(Supay)や地震の神パチャカマック(Pachacamac)とともにいたとされています。

この相違は、海や水が地下から湧き出るという観念と、天から雨が降るという観念の両方が存在したことを反映しているのかもしれません。

4つの元素の母(Elemental Mothers)

トリデーヴィーとの類似

インカ神話には、宇宙を構成する4つの基本要素を司る「4柱の元素の母」という概念があります。

パチャママ(Pachamama) – 大地の女神、豊穣と収穫の母
ママ・ニナ(Mama Nina) – 火の女神
ママ・ワイラ(Mama Wayra) – 風の女神
ママ・コチャ(Mama Cocha) – 水の女神

これら4柱の女神は、自然界の根本的な力を体現する存在として、生命の源と考えられていました。

すべての川、湖、山、動物、植物、気象現象には霊(ワカ)が宿ると信じられており、これら4柱の女神はその霊的な力の根源とされました。

月の三位一体

別の信仰体系では、ママ・コチャは「月の三位一体」の一柱とされています。

ママ・キリャ(Mama Quilla) – 月そのもの。夜の律動、日食、潮汐を司る。銀は彼女の「涙」とされる
パチャママ(Pachamama) – 大地。月のエネルギーを受け取り、収穫と生命に変換する
ママ・コチャ(Mama Cocha) – 水と女性性。月の影響を受けて潮汐を生み出し、海洋生物を育む

この三位一体は、月が及ぼす3つの領域(天空、大地、水)における力を表現していると考えられます。

信仰と儀式

沿岸部での崇拝

ママ・コチャへの信仰は、特に沿岸部で盛んでした。

現在のペルー、エクアドル、コロンビア南部、チリ北部の沿岸地域では、漁業が生活の基盤であり、ママ・コチャは人々の生存に直結する存在でした。

漁師たちは出航前に海に供物を捧げ、豊漁と安全を祈願しました。

供物には、白いトウモロコシの粉、赤い顔料(アルマグレ)、貝殻などが用いられました。

女性による儀式

ママ・コチャの儀式は、主に女性によって執り行われました。

女神が女性性を象徴する存在であることから、女性が儀式を主導することで、より強い霊的な結びつきが得られると信じられていたためです。

9月8日の祭典

伝統的に、毎年9月8日にママ・コチャを讃える祭典が行われました。

この祭典では、踊り、音楽、食事が供され、女神への感謝と祈りが捧げられました。

ティティカカ湖での儀式

ボリビアとペルーにまたがるティティカカ湖は、インカ神話において特別な聖地とされました。

創造神話によれば、ティティカカ湖の「太陽の島」にある岩から、太陽神と最初の祖先が現れたとされています。

2020年に学術誌『Antiquity』で発表された考古学的研究によれば、ティティカカ湖の水中から、インカ帝国時代の供物が発見されました。

金の薄板を円筒状に丸めたもの、ウミギク(サンゴ色の二枚貝)で作られたリャマの像などが、石箱に収められて湖底に沈められていたのです。

この発見は、インカ帝国がママ・コチャを含む水神への信仰の一環として、湖に供物を捧げる儀式を行っていたことを示しています。

深夜の沐浴

もうひとつの伝統的な信仰として、真夜中に海で沐浴する習慣がありました。

女性たちは真夜中に海に入り、健康、美、力、豊穣を女神に祈願したと伝えられています。

また、湖や川のほとりでも、すべての神々に礼拝し、偉大なママ・コチャを呼び起こす儀式が行われました。

文化的影響と現代への継承

スペイン征服後の変容

1532年から1533年にかけて、フランシスコ・ピサロ率いるスペイン人の侵攻により、インカ帝国は崩壊しました。

征服後、カトリック教会は従来の宗教を弾圧し、多くの神話伝承が失われたと考えられています。

しかし、アンデス各地に根強く伝わっていた信仰は完全には消えませんでした。

パチャママ(大地母神)やワマニ(山の神)への信仰と同様に、ママ・コチャへの信仰も形を変えながら生き続けました。

現代における信仰の継続

21世紀の現在でも、ペルー、エクアドル、コロンビア、チリ北部の沿岸地域では、ママ・コチャへの信仰が残っています。

漁師たちは今も海に供物を捧げ、豊漁と津波からの保護を祈願します。

農民たちもまた、雨をもたらす力を持つママ・コチャに祈りを捧げます。

こうした古代インカの儀式は、現代のアンデス文化に受け継がれ、新たな儀礼の源泉となっています。

文化的シンボルとしての継承

ママ・コチャは、ペルーやアンデス地域のアイデンティティを象徴する存在としても位置づけられています。

現代のペルーでは、環境保護や持続可能な開発のプロジェクト名に「ママ・コチャ」が用いられることもあります。

また、競走馬の名前としても使われており、2019年には「ママコチャ」という名の競走馬が日本で活躍しました。

まとめ

ママ・コチャは、インカ神話における海と水の女神です。

「母なる海」を意味するこの女神は、創造神ビラコチャの妻であり、太陽神インティと月の女神ママ・キリャの母とされています。

海、川、湖、泉などあらゆる水域を司り、漁師や船乗りに恵みを与え、危険から守る存在として崇拝されました。

4つの元素の母の一柱として、また月の三位一体の一柱として、宇宙の調和を保つ重要な役割を担っていました。

スペイン征服後も、アンデス沿岸部では信仰が形を変えながら生き続け、現代でもママ・コチャへの祈りは捧げられています。

参考情報

この記事で参照した情報源

一次資料(スペイン征服直後の年代記)

  • Guamán Poma de Ayala『Nueva corónica y buen gobierno』(1615年頃) – インカ出身の年代記作者による記録。ケチュア語とスペイン語で書かれた貴重な史料
  • Inca Garcilaso de la Vega『Comentarios Reales de los Incas』(1609年) – インカ貴族とスペイン人の混血である著者による、インカ文化の詳細な記録
  • Polo de Ondegardo『Informaciones acerca de la religión y gobierno de los Incas』- スペイン植民地時代の記録者による、インカの宗教と統治に関する報告

学術資料・研究論文

信頼できる二次資料

参考になる外部サイト

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