ロムルス|狼に育てられたローマ建国の王と弟殺しの真相

神話・歴史・文化

「永遠の都」と呼ばれるローマ。この偉大な都市を築いたのは、狼に育てられた双子の兄弟のうちの一人、ロムルスだったと伝えられています。

弟レムスを自らの手で殺し、ローマを建国したロムルス。彼は英雄なのか、それとも罪深き弟殺しなのか。古代ローマ人を悩ませ続けたこの問いは、現代でも多くの人々の関心を集めています。

この記事では、古代の一次資料であるリウィウス『ローマ建国史』やプルタルコス『対比列伝』をもとに、ロムルスの神話を詳しく解説していきます。


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  1. ロムルスとは
    1. 基本情報
  2. ロムルスの誕生と幼少期
    1. アルバ・ロンガの王位継承争い
    2. 軍神マルスとの間に生まれた双子
    3. ティベリス川に流される
    4. 狼に育てられる
    5. 羊飼いファウストゥルスに育てられる
  3. 祖父ヌミトルとの再会と復讐
    1. 出生の秘密が明かされる
    2. アムリウスの打倒
  4. ローマ建国と弟レムスの死
    1. 新しい都市の建設を決意
    2. 鳥占いによる争い
    3. レムスの死
    4. 紀元前753年4月21日のローマ建国
  5. ローマ王としての治世
    1. 国家制度の整備
    2. 人口増加策としてのアシュルム
    3. サビニの女たちの略奪
    4. サビニ戦争と和平
  6. ロムルスの最期と神格化
    1. 突然の失踪
    2. 暗殺説と昇天説
    3. プロクルス・ユリウスの証言
    4. クィリヌス神との同一視
  7. ロムルス神話の一次資料
    1. リウィウス『ローマ建国史』(Ab Urbe Condita)
    2. プルタルコス『対比列伝』(ロムルス伝)
    3. ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代誌』
    4. その他の資料
  8. 考古学的な発見
    1. パラティヌスの丘の鉄器時代遺跡
    2. 「ロムルスの小屋」(Casa Romuli)
    3. ルペルカルの洞窟
    4. 歴史的評価
  9. ロムルス神話が持つ意味
    1. ローマ人の自己認識
    2. 弟殺しという問題
    3. 政治的利用
  10. 美術作品に見るロムルス
    1. カピトリーノの狼
    2. ルーベンス『ロムルスとレムスの発見』
    3. カラッチ兄弟のフレスコ画
  11. まとめ
  12. 参考情報
    1. 一次資料(原典)
    2. 百科事典・学術資料
    3. 考古学関連
    4. 書籍

ロムルスとは

ロムルス(ラテン語: Romulus)は、ローマの建国神話に登場する伝説上の人物で、ローマの建設者にして初代王とされています。双子の弟レムスとともに軍神マルスとウェスタの巫女レア・シルウィアの子として生まれ、数奇な運命をたどってローマを建国したと伝えられています。

基本情報

項目内容
ラテン語表記Romulus
生没年(伝承)紀元前771年 – 紀元前717年頃
軍神マルス
レア・シルウィア(ウェスタの巫女)
双子の弟レムス(Remus)
ヘルシリア(Hersilia)
在位期間伝承上37年間
死後の神格化クィリヌス神と同一視

ロムルスという名前は、古代ローマ人は「ローマ」という都市名の由来だと考えていました。しかし現代の学者の多くは、逆に「ローマ」という地名から「ロムルス」という名前が作られた(逆形成)と考えています。


ロムルスの誕生と幼少期

アルバ・ロンガの王位継承争い

ロムルスとレムスの物語は、ラティウム地方の都市アルバ・ロンガから始まります。

アルバ・ロンガの王位は、本来ヌミトルが継ぐはずでした。しかし弟のアムリウスが兄を追放して王位を奪い、ヌミトルの息子たちを殺害します。さらにアムリウスは、ヌミトルの娘レア・シルウィアを強制的にウェスタの巫女にしました。ウェスタの巫女は生涯処女を守らなければならないため、これによってヌミトルの血統から王位継承者が生まれることを防ごうとしたのです。

リウィウスの『ローマ建国史』によれば、アムリウスはヌミトルの一族から後継者が生まれることを恐れていたとされています。

軍神マルスとの間に生まれた双子

ところがレア・シルウィアは懐妊してしまいます。古代の伝承では、軍神マルスが彼女のもとに現れ、双子の父となったとされています。

リウィウスはこの点について「レア・シルウィアは暴力をふるわれたのか、それとも神を父とする方が恥を覆い隠せると考えたのかは不明だが、マルスが双子の父であると主張した」と記しています。古代の歴史家でさえ、この神話的要素には懐疑的な目を向けていたことがわかります。

双子の誕生を知ったアムリウスは激怒し、レア・シルウィアを投獄。生まれた双子を殺すよう命じました。

ティベリス川に流される

アムリウスの家臣たちは、双子を籠に入れてティベリス川(現在のテヴェレ川)に流しました。しかし籠はイチジクの木に引っかかり、川岸に打ち上げられます。

リウィウスは「当時、川が氾濫していたため、穏やかな浅瀬に籠を置くしかなかった」と記しており、家臣たちが積極的に双子を殺そうとはしなかった可能性を示唆しています。

狼に育てられる

川岸にたどり着いた双子のもとに、一匹の雌狼がやってきました。狼は双子を殺すどころか、乳を与えて育てたのです。この出来事はルペルカルの洞窟(Lupercal)で起きたとされています。

プルタルコスの『対比列伝』では、狼だけでなくキツツキも双子に食べ物を運んだと記されています。狼とキツツキはどちらも軍神マルスの聖なる動物であり、マルスが自らの子どもたちを守ったという解釈がなされていました。

ただし、古代から別の解釈も存在します。リウィウスは「牝狼を意味するラテン語”lupa”は娼婦の隠語でもあり、双子を育てたのは実際には羊飼いの妻アッカ・ラレンティアだったのではないか」という説を紹介しています。

羊飼いファウストゥルスに育てられる

やがて双子は、王の羊飼いであるファウストゥルスに発見されます。ファウストゥルスは妻アッカ・ラレンティアとともに双子を引き取り、ロムルス・レムスと名づけて育てました。

双子は羊飼いとして成長しましたが、その間も並外れた体格と勇気を示していました。プルタルコスによれば、特にロムルスは判断力に優れ、周囲から指導者として認められていたとされています。


祖父ヌミトルとの再会と復讐

出生の秘密が明かされる

成長したロムルスとレムスは、あるとき羊飼い仲間との争いに巻き込まれ、レムスが捕らえられてしまいます。レムスはヌミトルのもとに連行されました。

ヌミトルはレムスと対面し、その風貌や年齢から、この若者が自分の孫ではないかと疑い始めます。同じ頃、ファウストゥルスはロムルスに出生の秘密を打ち明けました。

プルタルコスによれば、ファウストゥルスは双子が流されてきたときの籠を大切に保管しており、この籠がヌミトルに提示されたことで、双子の身元が確認されたとされています。

アムリウスの打倒

真実を知ったロムルスとレムスは、大叔父アムリウスへの復讐を決意します。

ロムルスが外から攻撃を仕掛け、レムスが内部で反乱を煽動。アムリウスは不意を突かれ、殺害されました。こうして双子は祖父ヌミトルをアルバ・ロンガの王座に復帰させたのです。


ローマ建国と弟レムスの死

新しい都市の建設を決意

祖父を王座に復帰させた後、ロムルスとレムスはアルバ・ロンガに留まることを望みませんでした。祖父が存命中に共同統治することも望まず、自分たちが幼いころ育った場所に新しい都市を建設することを決意します。

リウィウスによれば、当時アルバ・ロンガの人口は過剰になっており、新しい植民都市を建設する必要があったとも記されています。

鳥占いによる争い

しかしここで問題が生じました。どちらが新都市の支配者になるかで、兄弟は対立したのです。

二人は鳥占い(アウグリウム)で決着をつけることにしました。レムスはアウェンティヌスの丘に、ロムルスはパラティヌスの丘にそれぞれ陣取り、鳥の飛来を待ちます。

リウィウスの記述によれば、最初にレムスのもとに6羽のハゲワシが現れました。しかしこれが報告された直後、ロムルスのもとには12羽のハゲワシが飛来したのです。

レムス側は「先に鳥を見た自分が勝者だ」と主張し、ロムルス側は「数が多い方が勝者だ」と主張。双方の支持者が自分たちの候補者を王として称え、争いが始まりました。

レムスの死

その後の展開については、古代の文献でも複数の説が伝えられています。

リウィウスは「より一般的な説」として、ロムルスが建設中の城壁をレムスが嘲笑しながら飛び越えたため、激怒したロムルスがレムスを殺害し「今後、私の城壁を越える者は誰であれこうなる」と宣言したと記しています。

一方、別の伝承では、争いの最中にレムスが殺されたとも、ケレルというロムルスの部下が城壁を守るために殺したとも伝えられています。

紀元前753年4月21日のローマ建国

レムスの死後、ロムルスは単独でローマを建国しました。

リウィウスとプルタルコスによれば、ローマの建国日は紀元前753年4月21日とされています。この日は牧神パレスの祭日(パリリア祭)にあたり、現在でもローマでは「ナターレ・ディ・ローマ(ローマの誕生日)」として祝われています。

ロムルスはパラティヌスの丘に深い穴を掘り、果物や土を投げ入れて埋めました。その上に神殿を建て、ユピテル神に祈りを捧げます。その後、二頭の牛に犁(すき)を引かせ、ローマの境界となる聖なる溝(ポメリウム)を掘りました。

プルタルコスは、この儀式がエトルリア人から伝わったものだと記しています。


ローマ王としての治世

国家制度の整備

ロムルスは王として、古代ローマの根幹となる多くの制度を整備したとされています。

リウィウスによれば、ロムルスはまず3,000人の歩兵と300人の騎兵からなる軍団(レギオー)を組織しました。また100人の大貴族からなる元老院を設置し、彼らを「パテル(父)」と呼びました。この呼称が後の貴族階級「パトリキイ」の語源になったとされています。

さらにロムルスは、パトローヌス(庇護者)とクリエンテス(被庇護者)という、ローマ社会の基本的な主従関係も確立したと伝えられています。

人口増加策としてのアシュルム

建国当初、ローマには住民が不足していました。ロムルスは人口を増やすため、パラティヌスの丘とカピトリヌスの丘の間にアシュルム(聖域・避難所)を設けました。

リウィウスは「そこには周辺地域から、自由人も奴隷も区別なく、新天地を求める雑多な人々が逃げ込んできた」と記しています。犯罪者や逃亡奴隷も受け入れるこの政策により、ローマの人口は急速に増加しました。

サビニの女たちの略奪

しかし新たな問題が生じます。ローマには女性がほとんどいなかったのです。

ロムルスは近隣のラテン人やサビニ人の都市に使者を送り、婚姻の権利を求めましたが、新興都市ローマを警戒した彼らはこれを拒否しました。

そこでロムルスは策略を用いました。ネプトゥヌス神(海神ネプチューン)の祭典「コンスアリア」を盛大に開催し、近隣の人々を招待したのです。サビニ人たちは妻子を連れて祭りにやってきました。

祭りの最中、ロムルスの合図とともに、ローマの若者たちはサビニの未婚女性たちを力ずくで連れ去りました。これが「サビニの女たちの略奪(Raptio Sabinarum)」と呼ばれる有名なエピソードです。

リウィウスによれば、ロムルスは連れ去られた女性たちのもとを自ら訪れ、「これは隣人たちの傲慢さのせいだ。あなたたちは正式な妻として迎えられ、財産も市民権も共有する。何より、自由人の母となるのだ」と説得したとされています。

サビニ戦争と和平

娘たちを奪われたサビニ人やラテン人の諸都市は、ローマに宣戦布告しました。カエニナ、アンテムナエ、クルストゥメリウムの三都市が挙兵し、ローマ最初の大規模な戦争が始まります。

ロムルスはこれらの都市を次々と撃破。特にカエニナの王アクロンを一騎打ちで倒し、その武具を「スポリア・オピマ(最高の戦利品)」としてユピテル・フェレトリウス神殿に奉納しました。これはローマ史上、最高の武勲とされる儀式の最初の例となりました。

最後にサビニ人の本隊との決戦が行われました。戦いが激しさを増す中、驚くべき出来事が起こります。

リウィウスによれば、略奪されたサビニの女性たち自身が、髪を振り乱し服を裂きながら戦場に飛び込んできたのです。彼女たちは両軍に向かって叫びました。「父上、夫よ、私たちに親殺しや夫殺しの汚名を着せないでください。私たちのために争うのなら、私たちを殺してください。私たちこそがこの戦争の原因なのですから」

この訴えによって両軍は停戦し、和平が成立。ローマ人とサビニ人は一つの国家として統合されました。サビニの王ティトゥス・タティウスとロムルスは共同統治を行い、首都はローマに置かれました。この統合を記念して、ローマ市民は「クィリテス」と呼ばれるようになったとされています。


ロムルスの最期と神格化

突然の失踪

リウィウスとプルタルコスによれば、ロムルスは37年間の治世の後、紀元前717年頃に突然姿を消しました。

その日、ロムルスはカンプス・マルティウス(マルスの野)で軍の閲兵を行っていました。すると突然、激しい暴風雨が起こり、稲妻と轟音とともに濃い雲がロムルスを包み込みました。嵐が去った後、ロムルスの姿はどこにもありませんでした。

暗殺説と昇天説

ロムルスの失踪については、古代から複数の説が伝えられています。

リウィウスは、多くの人々がロムルスは天に召されたと信じた一方で、元老院議員たちが嫉妬からロムルスを殺害し、遺体を切り分けて持ち去ったのではないかという疑惑もあったと記しています。ロムルスの治世後半は専制的になり、元老院との対立が深まっていたとされています。

プロクルス・ユリウスの証言

リウィウスによれば、この危機的状況を収拾したのは、ローマの名士プロクルス・ユリウスでした。

プロクルスは民会で証言しました。「今朝、夜明けに、この都市の父ロムルスが突然天から降りてきて私の前に現れた。私が畏敬の念に打たれて立ち尽くしていると、ロムルスは言った。『ローマ人たちに告げよ。天の意志により、私のローマは世界の首都となる。彼らに武芸を磨かせよ。そして人間の力では決してローマの武力に抗えないことを、子孫に伝えさせよ』」

この証言によって民衆は安心し、ロムルスは神として崇められるようになったとされています。

クィリヌス神との同一視

ロムルスは死後、クィリヌス(Quirinus)という神と同一視されるようになりました。

クィリヌスはもともとサビニ人が崇拝していた古い神で、ローマの三柱神(ユピテル、マルス、クィリヌス)の一角を占めていました。ロムルスがクィリヌスと同一視されたことで、ローマの建国者は神々の仲間入りを果たしたことになります。

オウィディウスの『変身物語』では、父マルスがユピテルに願い出てロムルスを天に迎え入れる様子が描かれています。ロムルスの妻ヘルシリアも後に天に召され、「ホラ」という名の女神としてクィリヌスの傍らに迎えられたとされています。

ブリタニカ百科事典によれば、共和政末期まで、クィリヌスとの同一化はローマで公式に認められた唯一の神格化(アポテオシス)の例でした。後にユリウス・カエサルやアウグストゥスが神格化される際、ロムルスの先例は重要なモデルとなりました。


ロムルス神話の一次資料

ロムルスの伝説は、複数の古代の文献に記録されています。主要な一次資料を紹介します。

リウィウス『ローマ建国史』(Ab Urbe Condita)

ティトゥス・リウィウス(紀元前59年頃 – 紀元後17年頃)による歴史書で、紀元前27年から紀元前9年頃にかけて執筆されました。全142巻のうち、第1巻がロムルスの伝説を詳しく扱っています。ローマ建国神話の最も重要な資料の一つです。

リウィウス自身は「建国以前や建国当時の伝承は、歴史家の厳密な記録というより詩人の作品にふさわしいものだ」と述べており、神話的要素には懐疑的な姿勢を示しています。

プルタルコス『対比列伝』(ロムルス伝)

ギリシャ人の著述家プルタルコス(46年頃 – 120年頃)による伝記集で、紀元後75年頃に執筆されました。ロムルスはギリシャの英雄テセウスと対比されています。

プルタルコスはローマの伝承だけでなく、様々な異説も紹介しており、ロムルス神話の多様な側面を知ることができます。

ハリカルナッソスのディオニュシオス『ローマ古代誌』

ギリシャ人歴史家ディオニュシオス(紀元前60年頃 – 紀元前7年以降)による歴史書です。リウィウスとは異なる細部を伝えており、比較研究に重要な資料です。

その他の資料

オウィディウスの『祭暦』(Fasti)と『変身物語』(Metamorphoses)、ウェルギリウスの『アエネーイス』なども、ロムルス神話に関する重要な文献です。

これらの一次資料はいずれも、伝説が成立してから数百年後に書かれたものです。したがって、どこまでが古い伝承で、どこからが後世の創作なのかを判断することは困難です。


考古学的な発見

パラティヌスの丘の鉄器時代遺跡

伝説では紀元前753年にローマが建国されたとされていますが、考古学的発掘により、パラティヌスの丘には伝統的な建国年代以前から人々が住んでいたことが明らかになっています。

1948年、考古学者サルヴァトーレ・マリア・プリーシによってパラティヌスの丘の南西斜面で鉄器時代の小屋の跡が発見されました。これらは紀元前9世紀から8世紀にさかのぼるとされています。

「ロムルスの小屋」(Casa Romuli)

古代ローマ人は、パラティヌスの丘の南西角に「ロムルスの小屋」(Casa Romuli)と呼ばれる建造物を維持していました。

プルタルコスとハリカルナッソスのディオニュシオスによれば、この小屋は何世紀にもわたって原型のまま保存・修復され続けました。藁葺き屋根と編み枝の壁からなる素朴な農民の小屋で、リウィウスの時代にも残っていたとされています。

紀元前38年と紀元前12年に火災で焼失した記録がありますが、その都度復元されました。考古学者たちはこの小屋の正確な位置を特定できていませんが、発掘された鉄器時代の小屋跡がこれに関連する可能性があります。

ルペルカルの洞窟

2007年、考古学者たちはパラティヌスの丘で、リウィア邸の下に装飾された洞窟を発見したと発表しました。一部の研究者はこれがロムルスとレムスを狼が育てたとされるルペルカルの洞窟だと主張しましたが、この同定については学界で議論が続いています。

歴史的評価

現代のほとんどの歴史家は、ロムルスを実在の人物とは考えていません。しかし考古学的発見は、紀元前8世紀頃にパラティヌスの丘に集落があったことを示しており、伝説の背景にある程度の歴史的事実があった可能性は認められています。

考古学者アンドレア・カランディーニは、パラティヌスの丘北斜面で発見された紀元前8世紀半ばの城壁を「ムルス・ロムリ(ロムルスの壁)」と命名し、ロムルスの実在を主張する数少ない現代学者の一人です。ただしこの見解は学界の主流ではありません。


ロムルス神話が持つ意味

ローマ人の自己認識

ロムルス神話は、ローマ人が自分たちをどのように理解していたかを示しています。

軍神マルスの子であること、狼に育てられたこと、弟殺しという血なまぐさい建国。これらの要素は、ローマが武力によって興り、武力によって支配する都市であることを正当化するものでした。

また、アシュルムの設置によって逃亡者や犯罪者を受け入れたというエピソードは、ローマが様々な出自の人々を統合した多民族国家であるという自己認識を反映しています。

弟殺しという問題

レムスの殺害は、古代ローマ人にとっても問題のある伝承でした。

リウィウスの記述では、複数の異説が並記されており、ローマ人自身がこの伝承に居心地の悪さを感じていたことがうかがえます。一部の伝承では殺害者をケレルという部下にすることで、ロムルスの直接的な責任を薄めようとしています。

歴史家T.P.ワイズマンは、弟殺しのモチーフが紀元前4世紀の身分闘争(貴族と平民の対立)を反映して後から付け加えられた可能性を指摘しています。

政治的利用

共和政末期から帝政期にかけて、ロムルスの伝説は政治的に利用されました。

ユリウス・カエサルやアウグストゥスは、自らの権力を正当化するためにロムルスとの関連を強調しました。特にアウグストゥスは、ロムルスの神格化を皇帝崇拝の先例として活用し、自身の死後の神格化への道を開きました。


美術作品に見るロムルス

カピトリーノの狼

最も有名なロムルス関連の美術作品は、「カピトリーノの狼」と呼ばれるブロンズ像です。狼に乳を吸う双子の姿を表現しており、現在もローマのカピトリーノ美術館に所蔵されています。

狼の像は長らく紀元前5世紀のエトルリア製とされてきましたが、2006年の調査で中世(11世紀から12世紀頃)の製作である可能性が指摘されました。なお、双子の像は15世紀の追加です。

この像はローマ市の象徴として広く知られており、現在でもローマ市の紋章に使用されています。

ルーベンス『ロムルスとレムスの発見』

バロック期の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンスは、1615-16年頃に『ロムルスとレムスの発見』を制作しました。狼に乳を吸われる双子と、それを発見する羊飼いファウストゥルスの場面を描いています。この作品もカピトリーノ美術館に所蔵されています。

カラッチ兄弟のフレスコ画

16世紀末、カラッチ兄弟(ルドヴィーコ、アンニーバレ、アゴスティーノ)は、ボローニャのマニャーニ宮殿にロムルス神話を描いた一連のフレスコ画を制作しました(1589-92年)。狼に育てられる双子、ローマ建国、サビニの女たちの略奪など、ロムルス伝説の主要場面が描かれています。


まとめ

ロムルスは、ローマ建国神話における中心人物であり、軍神マルスの子として生まれ、狼に育てられ、弟を殺して都市を建設し、最後は神となったとされる伝説的な王です。

紀元前753年4月21日のローマ建国、元老院や軍団の創設、サビニの女たちの略奪と和平、そして神格化といった伝説は、古代ローマ人が自らの起源と特性をどのように理解していたかを示しています。

現代の歴史学では、ロムルスは実在の人物ではなく神話的存在と考えられていますが、パラティヌスの丘での考古学的発掘は、紀元前8世紀頃に実際に集落が存在したことを裏付けています。

伝説であれ史実であれ、ロムルスの物語は「永遠の都」ローマの精神的な基盤として、2,700年以上にわたって語り継がれてきました。そしてその物語は、今なお私たちにローマ文明の本質について多くのことを教えてくれるのです。


参考情報

この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。

一次資料(原典)

百科事典・学術資料

考古学関連

書籍

  • 松田治『ローマ建国伝説 ロムルスとレムスの物語』講談社学術文庫、2007年(原著1980年)

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