マリナは、イヌイット民族の神話に登場する太陽の女神なんです。
特にグリーンランドのイヌイット伝承で広く知られていて、兄である月の神との永遠の追いかけっこが太陽と月の動きを説明する物語として語り継がれています。
この記事では、マリナの神話、名前のバリエーション、地域による物語の違い、そして現代まで続く文化的な影響について詳しく解説します。
マリナとは
マリナは、北極圏に暮らすイヌイット民族の神話における太陽の女神です。
イヌイットは、アラスカ、カナダ北部、グリーンランドなどの極北地域に住む先住民族で、「イヌイット」という言葉自体が「人々」を意味します。マリナの物語は、特にグリーンランドのイヌイット伝承で詳しく語られています。
マリナは情熱、勇気、美の象徴とされ、太陽として世界に光と温かさをもたらす存在なんです。
イヌイット神話における位置づけ
イヌイット神話は、他の多くの神話体系とは異なる特徴を持っています。
イヌイットの世界観はアニミズム(自然界のあらゆるものに霊が宿るという考え)に基づいていて、神々は「崇拝する対象」というより「畏怖し、なだめるべき強力な霊」として捉えられています。
マリナもまた、恐れ敬うべき存在として扱われ、彼女を怒らせると病気をもたらすと信じられていました。
名前のバリエーション
マリナという名前は、地域や方言によってさまざまな呼び方があります。
主な呼称
| 名称 | 言語/地域 | 意味 |
|---|---|---|
| Malina(マリナ) | グリーンランド語 | – |
| Siqiniq(シキニク) | イヌクティトゥット語 | 太陽 |
| Seqineq(セキネク) | グリーンランド語 | 太陽 |
| Heqineq(ヘキネク) | ナトシリングミウトゥット語 | 太陽 |
| Ajut(アユット) | グリーンランド | – |
多くの地域では、彼女は単に「太陽」または「アニンガートの妹」と呼ばれることもあります。
「マリナ」という固有名詞は、18世紀のグリーンランド宣教師ハンス・エゲーデによる記録で確認できます。
兄イガルクとの神話
マリナの物語の中心は、兄である月の神との悲劇的な争いです。
兄の名前
兄の名前も地域によって異なります。
| 名称 | 言語/地域 | 意味 |
|---|---|---|
| Aningaat(アニンガート) | 最も一般的 | 「お気に入りの兄」 |
| Anningan(アニンガン) | グリーンランド | – |
| Igaluk(イガルク) | カナダのイヌイット | – |
| Taqqiq(タキク) | イヌクティトゥット語 | 月 |
物語の概要
マリナとアニンガートの物語は、イヌイットの口承伝統で何世紀にもわたって語り継がれてきました。
物語の基本的な筋書きは以下の通りです。
幼少期:
マリナとアニンガートは、幼い頃は同じ家で暮らしていました。
しかし成長すると、イヌイットの慣習に従って、男性用と女性用の別々の住居で生活するようになります。
事件:
ある夜の祭りの最中、明かりが消された闇の中で、何者かがマリナを襲いました。
マリナは犯人が誰か分からなかったため、次の夜、ランプのすすで手を黒くして待ち構えます。再び襲ってきた相手の顔にすすを塗りつけ、その正体を暴こうとしました。
明かりがともると、村人たちが笑っている声が聞こえてきます。祭りの会場に行くと、マリナはすすで顔が真っ黒になったアニンガートを見つけます。犯人は実の兄だったのです。
怒りと逃走:
真実を知ったマリナは怒りと恥辱で燃え上がりました。
多くの語り手の記録によれば、マリナは自分の乳房を切り落とし、「私の体がそんなに好きなら、これを食べなさい!」と兄に投げつけたと伝えられています。(ただし、この描写は物語のバージョンによって異なり、一部では乳房をさらしただけとされています)
マリナは松明を手に空へ駆け上がり、太陽となりました。アニンガートも妹を追って空へ駆け上がりますが、彼の松明は途中で消えかかり、くすぶった状態になります。こうして彼は月となりました。
永遠の追跡:
それ以来、アニンガートは妹マリナを永遠に追いかけ続けています。
この追いかけっこが、太陽と月が空を移動する理由とされているんです。
月の満ち欠けの説明
この神話は、月の満ち欠けも説明します。
アニンガートは妹を追うことに夢中で、食事をするのを忘れてしまいます。そのため、月が進むにつれて彼はどんどん痩せ細っていきます。
ついには力尽きて、地上に降りて狩りをして食事をしなければならなくなるんです。この間、月は空から姿を消します。
満腹になると、アニンガートは再び妹を追って空に戻ります。これが、月が毎月3日間ほど見えなくなる理由とされています。
日食の説明
時折、アニンガートはマリナに追いつきます。
この時、日食が起きるとされています。一部の伝承では、この時再び彼女を襲うとも語られています。
物語のバリエーション
マリナとアニンガートの物語は、地域によってさまざまなバリエーションがあります。
盲目の少年の物語
一部の地域では、この神話に「盲目の少年」の前段が加わります。
アニンガートは幼い頃、目が見えませんでした。ある日、ホッキョクグマが村にやってきて、アニンガートは窓越しに矢を放ちます。しかし祖母は「窓枠に当たっただけだ」と嘘をつき、クマの肉を独り占めします。
妹だけがこっそり兄に肉を分け与えました。
その後、湖に住むアビという水鳥(red-throated loon)が、アニンガートを湖に連れて行き、何度も水に潜らせます。その都度、鳥は少年の目を舐め、視力が回復していくか尋ねます。最終的に、アニンガートは視力を取り戻しました。
この後、兄妹は新しい村に移り、成長して後に悲劇的な事件が起こるという流れになります。
地域による違い
物語の詳細は、語り手や地域によって異なります。
カナダの一部地域:
兄妹は恥から逃れるために空へ逃げたとされています。
アラスカの一部地域:
兄妹は関係を続けるために空へ昇ったという解釈もあります。
合意的な関係:
1920年代に極地探検家クヌート・ラスムセンが記録したパアリルミウト(Paallirmiut)の物語では、兄妹の関係は合意に基づくものとされています。ただし、この版でも太陽と月になる結末は同じです。
現代における語り直し
2021年、カナダのイヌイット系アーティスト、ゲイル・ウヤガキ・カブルーナ(Gayle Uyagaqi Kabloona)は、この物語をフェミニスト的に再解釈した作品「Malina」を発表しました。
この作品では、マリナは一人で無傷のまま、オイルランプ(qulliq)に火を灯す姿として描かれています。伝統的な物語の暴力的な要素を排除し、マリナの力強さと独立性を強調した解釈となっているんです。
文化的意味と影響
マリナの神話は、イヌイット社会において単なる物語以上の意味を持っています。
日食と月食のタブー
マリナとアニンガートの憎しみは、性別間の対立にまで及ぶとされています。
太陽(マリナ)は男性を憎み、月(アニンガート)は女性を憎むと信じられています。
このため、イヌイット社会には以下のようなタブーがありました。
日食の時:
- 男性は家から出てはいけない
- 外出すると病気になると信じられていた
月食の時:
- 女性は家から出てはいけない
- 外出すると病気になると信じられていた
これらのタブーは、マリナとアニンガートが怒りを向けてくる可能性があるためです。
病気の説明
マリナとアニンガートは、自分たちを怒らせた者に病気を送ると考えられていました。
このため、イヌイットの人々はこれらの神霊を恐れ、敬意を払う必要があったんです。
月の周りの輪
男性が死んだ時や女の子が生まれた時、月の周りに輪が見えることがあります。
これは月の神アニンガートの悲しみの表れだと信じられていました。
マリナが象徴するもの
マリナは、イヌイット文化において重要な象徴的意味を持っています。
光と生命
太陽の女神として、マリナは光、温かさ、生命をもたらす存在です。
極北の厳しい環境では、太陽の光は特に貴重で、長い冬の闇の後に訪れる太陽は希望と再生の象徴となります。
勇気と抵抗
マリナの物語は、被害者が加害者に立ち向かう勇気の物語でもあります。
彼女は兄の暴力から逃れ、自らの力で太陽となりました。この姿は、困難に立ち向かう強さと決意を象徴しているんです。
近親相姦のタブー
世界の多くの神話には近親相姦の挿話が含まれていますが、それを明確に罪として糾弾する物語は比較的珍しいとされています。
マリナの物語は、近親相姦を明確に否定し、その結果として宇宙的な分離(太陽と月)が起こるという強いメッセージを含んでいます。
自然現象の説明
この神話は、以下のような自然現象を説明します。
- 太陽と月が交互に現れること(昼と夜の交代)
- 月の満ち欠け
- 月の表面の模様(すすで黒くなった顔)
- 日食と月食
こうした自然現象を、人間関係のドラマと結びつけることで、イヌイットの人々は宇宙の秩序を理解してきました。
学術的研究と記録
マリナの物語は、多くの民族誌学者や探検家によって記録されてきました。
初期の記録
最も古い記録の一つは、18世紀のグリーンランド宣教師ハンス・エゲーデによるものです。
エゲーデは1745年に出版した『グリーンランドの記述』(A Description of Greenland)の中で、この神話に言及しています。
20世紀の民族誌学的記録
20世紀には、多くの研究者がイヌイットの語り手から直接物語を記録しました。
主な記録:
- フランツ・ボアズ(1888年)『The Central Eskimo』
- クヌート・ラスムセン(1921-24年)第五次チュール探検隊報告書
- 各地のイヌイット語り手による口述記録(1920年代〜1990年代)
これらの記録により、地域による物語のバリエーションや、イヌイット文化の深い理解が可能になりました。
現代の研究
近年では、ベルナール・サラダン・ダングリュール(Bernard Saladin D’Anglure)などの研究者が、イヌイット神話とジェンダー、シャーマニズムの関係について深い分析を行っています。
2018年の著書『Inuit Stories of Being and Rebirth』では、マリナとアニンガートの物語を文化人類学的な視点から詳しく論じています。
まとめ
マリナは、イヌイット神話における太陽の女神で、以下のような特徴を持っています。
- グリーンランドを中心とするイヌイット伝承で語られる
- 兄である月の神アニンガート(イガルク)との永遠の追いかけっこが、太陽と月の動きを説明する
- 情熱、勇気、美の象徴とされる
- 近親相姦を糾弾する強いメッセージを含む物語
- 日食・月食、月の満ち欠けなどの自然現象を説明する
- イヌイット社会のタブーや信仰と深く結びついている
マリナの物語は、極北の厳しい環境で生きるイヌイットの人々が、自然界の秩序と人間社会の道徳を結びつけて理解してきた知恵の結晶なんです。


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