近年、AI(人工知能)や機械学習の発展により、大量の行列演算を高速に処理する必要性が高まっています。
その中で注目されているのが「シストリックアレイ」という技術です。
GoogleのTPU(Tensor Processing Unit)やその他のAI専用チップに採用されているこの技術は、従来のCPUやGPUとはまったく異なる仕組みで、行列演算を驚異的なスピードと低消費電力で実行します。
この記事では、シストリックアレイとは何か、どのような仕組みで動作するのか、なぜAI分野で注目されているのかを、初心者にもわかりやすく解説します。
シストリックアレイとは
シストリックアレイ(Systolic Array)は、行列演算を効率的に行うための並列コンピュータアーキテクチャです。
名前の由来:
「シストリック(Systolic)」という名前は、医学用語の「収縮期(systole)」から来ています。
心臓が収縮して血液を体中に送り出すように、データが計算ユニット(PE:Processing Element)の間を波のように流れていく様子が、心臓の拍動に似ていることから名付けられました。
基本的な特徴:
- 単純な計算ユニット(PE)を規則正しく配置する(通常は格子状)
- 各PEはデータを受け取り、計算を行い、結果を隣のPEに渡す
- すべてのPEが同期して動作する
- データは一方向に流れるように設計されている
シストリックアレイの歴史
シストリックアレイは、1970年代後半にカーネギーメロン大学のH. T. Kung(カン)とCharles Leiserson(レイサーソン)によって提案されました。
当時は、行列演算や信号処理などの特定の計算を高速化するための専用ハードウェアとして研究されました。
歴史的な経緯:
- 1970年代後半:Kungらがシストリックアレイの概念を提案
- 1980年代:大学や研究機関で活発に研究されるも、商用製品化は限定的
- 1990年代:IntelがCMU(カーネギーメロン大学)のiWarpプロセッサを製造
- 2010年代後半:ディープラーニングブームで再注目
- 2016年:GoogleがTPU(Tensor Processing Unit)を発表し、256×256のシストリックアレイを採用
- 現在:多くのAIチップやNPU(Neural Processing Unit)で使用されている
かつては「汎用性に乏しい」という理由であまり実用化されませんでしたが、ディープラーニングの台頭により、行列演算に特化したチップの需要が急増したことで、再び脚光を浴びるようになりました。
従来のCPU・GPUとの違い
シストリックアレイを理解するには、従来のCPU・GPUとの違いを知ることが重要です。
フォン・ノイマンアーキテクチャ(従来のCPU)
従来のコンピュータは、フォン・ノイマンアーキテクチャに基づいています。
動作の流れ:
- メモリから命令を読み込む
- メモリからデータを読み込む
- CPUで計算を実行
- 結果をメモリに書き込む
- 次の命令を読み込む
このサイクルを繰り返すため、メモリとCPUの間で大量のデータのやり取りが発生します。
この「メモリアクセス」が処理速度のボトルネックになることが多いです。
例え話:
図書館で勉強する場合を考えてみましょう。
参考書を本棚から取ってきて、机で読んで、また本棚に返すという作業を繰り返すと、歩く時間が無駄になります。
これがフォン・ノイマンアーキテクチャのメモリアクセス問題です。
GPU(Graphics Processing Unit)
GPUは、多数の演算ユニットを並列に動作させることで、大量の計算を同時に処理します。
しかし、GPUも基本的にはメモリからデータを読み込み、計算して、結果を書き戻すという動作を繰り返します。
並列処理により高速化されますが、メモリアクセスのボトルネックは依然として存在します。
シストリックアレイの違い
シストリックアレイは、従来のアーキテクチャとは根本的に異なるアプローチを取ります。
最大の違い:
計算結果を毎回メモリに書き戻さず、次の計算ユニットに直接渡す。
これにより、メモリアクセスの回数を劇的に削減できます。
図書館の例で言うと:
必要な本を机の上に全部並べておき、終わったら隣の人に手渡しするイメージです。
本棚に戻す手間がないため、効率的に作業できます。
シストリックアレイの仕組み
シストリックアレイがどのように動作するのか、具体的に見ていきましょう。
基本構造
シストリックアレイは、以下の要素で構成されています。
PE(Processing Element:処理要素):
- 単純な計算を行う小さな演算ユニット
- 通常は「乗算」と「加算」を組み合わせた積和演算(MAC:Multiply-Accumulate)を実行
- 入力データを受け取り、計算し、結果を次のPEに渡す
- レジスタ(一時的なデータ保存場所)を最小限しか持たない
配置:
- PEを格子状(2次元配列)に規則正しく配置
- 各PEは隣接するPEとのみ接続されている
- GoogleのTPUでは256×256=65,536個のPEが配置されている
データフロー:
- 行列Aのデータは横方向(水平)に流れる
- 行列Bのデータは縦方向(垂直)に流れる
- 計算結果(行列C)は各PEで蓄積される
行列乗算の例
2×3行列と3×2行列の乗算を例に、シストリックアレイの動作を見てみましょう。
行列A(2×3):
[ a11 a12 a13 ]
[ a21 a22 a23 ]
行列B(3×2):
[ b11 b12 ]
[ b21 b22 ]
[ b31 b32 ]
シストリックアレイの動作:
- 行列Aのデータは左から右へ流れる
- 行列Bのデータは上から下へ流れる
- 各PEでは、受け取ったデータ同士を掛け算し、前回の結果に加算する
- データは波のように(ウェーブフロントのように)アレイ内を進んでいく
- すべてのデータが流れ終わると、各PEに結果が蓄積されている
重要なポイント:
- 入力データはメモリから1回だけ読み込まれる
- 出力データはメモリに1回だけ書き込まれる
- 計算の途中結果をメモリに書き戻さない
- データは隣のPEに直接渡される
この仕組みにより、メモリアクセスの回数が最小限に抑えられます。
データの再利用
シストリックアレイのもう一つの重要な特徴は、データの再利用です。
データ局所性の向上:
同じデータを何度も使う場合、一度読み込んだデータをPE間で共有することで、メモリアクセスを削減します。
例:
行列Aの1行目のデータは、行列Cの1行目のすべての要素を計算するために使われます。
このデータを横方向に流すことで、複数のPEで再利用できます。
これは「データ局所性」と呼ばれる概念で、よく使うデータを近くに置いておくことで、遠くのメモリにアクセスする回数を減らします。
シストリックアレイのメリット
シストリックアレイが注目される理由は、以下のような優れた特性があるためです。
メリット1:高速な行列演算
大量のPEが並列に動作するため、行列演算を非常に高速に実行できます。
具体例:
GoogleのTPU(第1世代)は、256×256=65,536個のPEを搭載しており、1クロックサイクルで65,536回の積和演算を実行できます。
動作周波数が700MHzの場合、1秒間に約92兆回(92 TOPS:Tera Operations Per Second)の演算が可能です。
メリット2:低消費電力
メモリアクセスは、演算自体よりも多くの電力を消費します。
シストリックアレイは、メモリアクセスを最小限に抑えることで、大幅に消費電力を削減できます。
Google TPUの例:
- CPUと比較して83倍の電力効率
- GPUと比較して29倍の電力効率
この優れた電力効率により、データセンターでの電力コストを大幅に削減できます。
メリット3:スケーラビリティ(拡張性)
PEを追加することで、性能を簡単にスケールアップできます。
例えば、4×4のシストリックアレイを8×8に拡張すれば、単純計算でPEの数は4倍(16個→64個)になり、並列処理能力も4倍になります。
メリット4:規則的な構造
すべてのPEが同じ構造と動作をするため、設計が簡単で、チップ上に実装しやすいです。
また、規則的な配置により、チップ内の配線も効率的に行えます。
メリット5:パイプライン処理と並列処理の両立
シストリックアレイは、パイプライン処理(流れ作業)と並列処理を組み合わせた構造です。
パイプライン処理:
データが次々と流れてくるため、各PEは常に何かしらの計算を行っている状態になります。
これにより、PEの稼働率が高く保たれます。
並列処理:
複数のPEが同時に異なるデータを処理しています。
この2つを組み合わせることで、非常に高いスループット(単位時間あたりの処理量)を実現します。
シストリックアレイのデメリット
シストリックアレイは優れた技術ですが、欠点もあります。
デメリット1:汎用性がない
シストリックアレイは、特定の種類の計算(主に行列演算)に特化した構造です。
できること:
- 行列乗算
- 畳み込み演算(ニューラルネットワークで使用)
- 相関演算
- データソート
できないこと:
- 一般的なプログラムの実行
- 条件分岐が多い処理
- 不規則なメモリアクセスが必要な処理
このため、CPUやGPUの完全な置き換えにはなりません。
通常は、汎用プロセッサ(CPUやGPU)と組み合わせて使用されます。
デメリット2:プログラミングが難しい
シストリックアレイに計算をマッピング(割り当て)するのは、通常のプログラミングよりも難しいです。
データの流れ方やタイミングを細かく考慮する必要があるため、専門的な知識が必要になります。
デメリット3:初期コストが高い
専用のハードウェアを設計・製造する必要があるため、開発コストが高くなります。
ただし、大量生産すればコストは下がり、また省電力性により運用コストは削減できるため、大規模なAI処理を行う企業(Googleなど)にとっては投資する価値があります。
デメリット4:柔軟性の欠如
一度ハードウェアを作ってしまうと、構造を変更することができません。
アルゴリズムが変わったり、新しい計算方法が必要になった場合、ハードウェアを作り直す必要があります。
シストリックアレイの実用例
シストリックアレイは、現在どのような製品で使用されているのでしょうか。
Google TPU(Tensor Processing Unit)
最も有名な例が、GoogleのTPUです。
第1世代TPU(2016年発表):
- 256×256のシストリックアレイを搭載
- 8ビット整数演算に特化
- ディープラーニングの推論(学習済みモデルを使った予測)に最適化
- CPUと比較して83倍の電力効率
用途:
- Google検索のランキング
- Google翻訳
- Google Photosの画像認識
- YouTubeの動画推薦
Googleは、自社のデータセンターでTPUを大量に使用しており、AI処理の効率化とコスト削減を実現しています。
他のAIチップ
多くの企業がシストリックアレイを採用したAIチップを開発しています。
富士通DLU(Deep Learning Unit):
- ディープラーニングに特化
- シストリックアレイベースの演算器を搭載
Apple Neural Engine:
- iPhoneやMacに搭載されているAIチップ
- シストリックアレイ的な構造を採用
NVIDIA Tensor Core:
- GPUに組み込まれたAI演算専用ユニット
- シストリックアレイの原理を応用
FPGA実装
研究や教育の分野では、FPGA(Field-Programmable Gate Array:プログラム可能な集積回路)を使ってシストリックアレイを実装する例が多くあります。
FPGAを使うことで、設計を柔軟に変更でき、実験やプロトタイピングに適しています。
AIにおけるシストリックアレイの重要性
なぜシストリックアレイはAI分野で特に注目されているのでしょうか。
ディープラーニングと行列演算
ディープラーニング(深層学習)は、大量の行列演算を必要とします。
ニューラルネットワークの計算:
- 入力データ(行列)
- 重み(パラメータ)の行列
- 入力×重みの行列乗算
- 活性化関数の適用
- 次の層へ
この計算を何十層、何百層と繰り返すため、行列乗算の効率が処理速度に直結します。
畳み込み演算
画像認識などで使われる畳み込みニューラルネットワーク(CNN)では、畳み込み演算が大量に発生します。
畳み込み演算も、行列演算に変換できるため、シストリックアレイで効率的に実行できます。
リアルタイム推論の需要
自動運転車、スマートフォンのAI機能、リアルタイム翻訳など、低遅延でAI処理を行う需要が増えています。
シストリックアレイは、高速かつ低消費電力でAI推論を実行できるため、これらの用途に最適です。
データセンターのコスト削減
GoogleやAmazonなどの大手IT企業は、膨大な数のサーバーを運用しています。
AI処理の電力効率を向上させることで、電力コストを大幅に削減でき、また冷却コストも下がります。
具体例:
GoogleはTPUを導入することで、同じAI処理を行うのに必要なサーバー台数を大幅に削減し、年間数億ドル規模のコスト削減を実現したと報告されています。
シストリックアレイの設計上の工夫
シストリックアレイを実際に設計する際には、さまざまな工夫が必要です。
データフローの最適化
行列演算には、いくつかの異なるデータフローパターンがあります。
Weight Stationary(重み固定):
- 重み(パラメータ)を各PEに固定して配置
- 入力データを流す
- Google TPUで採用
Input Stationary(入力固定):
- 入力データを固定
- 重みを流す
Output Stationary(出力固定):
- 出力(部分結果)を固定
- 入力と重みを流す
行列のサイズや用途に応じて、最適なデータフローを選択することで、エネルギー効率を向上させることができます。
メモリアーキテクチャ
シストリックアレイの性能を最大限に引き出すには、メモリシステムも重要です。
Unified Buffer(統合バッファ):
シストリックアレイの周辺に大容量のSRAMを配置し、外部メモリ(DRAM)からのデータ転送を効率化します。
DMA(Direct Memory Access):
シストリックアレイがデータを処理している間に、バックグラウンドで次のデータをバッファに読み込んでおくことで、待ち時間を隠蔽します。
クロック分配
65,536個ものPEに対して、正確に同期したクロック信号を供給するのは技術的な挑戦です。
チップ設計において、クロック信号の遅延やスキュー(ズレ)を最小限に抑える工夫が必要です。
今後の展望
シストリックアレイは今後どのように発展していくのでしょうか。
より柔軟なシストリックアレイ
従来のシストリックアレイは、特定の計算に特化していましたが、より柔軟に構成を変更できるシストリックアレイの研究が進んでいます。
リコンフィギュラブル(再構成可能)シストリックアレイ:
- 実行時にPEの接続や動作を変更できる
- 異なる種類のニューラルネットワークに対応
スパース(疎)行列への対応
多くのニューラルネットワークでは、行列の要素の多くがゼロです(これを「疎行列」と言います)。
ゼロの演算をスキップすることで、さらなる高速化と省電力化が可能になります。
エッジAIへの応用
スマートフォン、IoTデバイス、自動運転車など、エッジデバイスでのAI処理が増えています。
小型で低消費電力のシストリックアレイが、これらのデバイスに組み込まれることが期待されています。
新しいアルゴリズムとの統合
Transformerなどの新しいニューラルネットワークアーキテクチャに最適化されたシストリックアレイの研究も進んでいます。
まとめ
シストリックアレイについて、重要なポイントをまとめます。
シストリックアレイとは:
- 行列演算を効率的に行うための並列コンピュータアーキテクチャ
- 単純な計算ユニット(PE)を規則的に配置し、データを流す
- 名前の由来は心臓の拍動(systole)
従来のCPU・GPUとの違い:
- 計算結果を毎回メモリに書き戻さない
- データは隣のPEに直接渡される
- メモリアクセスの回数を劇的に削減
メリット:
- 高速な行列演算
- 低消費電力(CPUの83倍、GPUの29倍の電力効率)
- スケーラビリティ(拡張性)
- 規則的な構造で設計・実装が容易
- パイプライン処理と並列処理の両立
デメリット:
- 汎用性がない(行列演算に特化)
- プログラミングが難しい
- 初期コストが高い
- 柔軟性の欠如
実用例:
- Google TPU(Tensor Processing Unit)
- 多くのAIチップやNPU
- FPGA実装(研究・教育用途)
重要性:
- ディープラーニングには大量の行列演算が必要
- リアルタイムAI推論の需要が増加
- データセンターのコスト削減に貢献
シストリックアレイは、1970年代に提案された古い技術ですが、AIブームによって再び注目され、現代のAIチップの中核技術となっています。
汎用性を犠牲にして行列演算に特化することで、驚異的な性能と電力効率を実現しており、今後もAI分野での重要性は増していくでしょう。
ただし、CPUやGPUを完全に置き換えるものではなく、それぞれの長所を活かして組み合わせて使用することが重要です。
参考情報
この記事は、以下の学術論文、技術文書、および信頼できる技術情報を参考にしています。
- H. T. Kung, “Why Systolic Architectures?”, IEEE Computer, 1982
- Google TPU論文 – “In-Datacenter Performance Analysis of a Tensor Processing Unit”
- Systolic Arrays – Wikipedia
- 東京エレクトロン – AIチップを巡って競い合う巨人たち
- ACRi Blog – 高位合成で加速するアクセラレータ開発(4)
※この記事は2025年2月時点の情報に基づいています。

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