ナポレオンとは?天才軍人にしてフランス皇帝の波乱の生涯をわかりやすく解説

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自ら皇帝の冠を手に取り、自分の頭に載せた男——。

1804年12月2日、パリのノートルダム大聖堂。
ローマ教皇が見守る中、ナポレオン・ボナパルトはそんな前代未聞のパフォーマンスをやってのけました。
「俺の権威は自分自身の力で勝ち取ったものだ」という強烈なメッセージだったわけです。

コルシカ島出身の貧乏貴族の息子が、わずか35歳でヨーロッパ最大の国の皇帝になる。
しかもその後、ヨーロッパ大陸のほぼ全域を支配下に置いてしまう。
こんなとんでもない人生を歩んだ人物は、世界史を見渡してもそうそういません。

この記事では、ナポレオン・ボナパルトの生涯を、偉業や意外なエピソードとともにわかりやすく解説していきます。


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ナポレオン・ボナパルトの概要

ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、1769年8月15日にコルシカ島のアジャクシオで生まれたフランスの軍人・政治家です。

フランス革命後の混乱を収拾して権力を握り、1804年にフランス皇帝(ナポレオン1世)に即位しました。
在位は1804年〜1814年、そして1815年の「百日天下」の期間です。

軍事面では「アウステルリッツの戦い」をはじめとする数々の勝利でヨーロッパ大陸のほぼ全域を制覇しました。
一方で政治面では、近代市民法の模範となった「ナポレオン法典」を制定するなど、現代にまで続く制度改革を行っています。

しかし1812年のロシア遠征で壊滅的な敗北を喫し、その後は坂道を転がるように転落。
最終的にはイギリスに投降し、南大西洋の孤島セントヘレナ島に流刑となりました。
1821年5月5日、51歳でこの世を去っています。

項目内容
本名ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)
生年月日1769年8月15日
出生地コルシカ島アジャクシオ(フランス領)
死没1821年5月5日(51歳)
死没地セントヘレナ島(イギリス領)
在位1804年〜1814年、1815年(百日天下)
配偶者ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ(1796年結婚、1809年離婚)、マリ・ルイーズ(1810年結婚)
ナポレオン2世(マリ・ルイーズとの間の息子)
埋葬地パリ・アンヴァリッド(廃兵院)

ナポレオンの偉業——戦場だけでは終わらない男

軍事的天才:アウステルリッツの「三帝会戦」

ナポレオンが軍事的天才として名を刻んだ戦いは数多くありますが、中でも最高傑作と呼ばれるのが1805年12月2日のアウステルリッツの戦いです。

この戦いでは、オーストリア皇帝フランツ1世とロシア皇帝アレクサンドル1世の軍を相手にしました。
三人の皇帝が同じ戦場にいたことから「三帝会戦」とも呼ばれています。

ナポレオンはあえて自軍の右翼を弱く見せて敵を誘い込み、中央突破で敵軍を分断するという見事な戦術を展開。
数で劣るフランス軍が、オーストリア・ロシアの連合軍を完膚なきまでに叩きのめしたのです。

この勝利により神聖ローマ帝国は事実上崩壊し、ナポレオンのヨーロッパ支配は確固たるものになりました。

ナポレオンの軍事的成功の秘密は、彼が導入した軍団(コール)制度にもあります。
大軍を複数の自律的な軍団に分け、それぞれが独立して行動しながら戦場で合流するというシステムです。
これにより軍の移動速度と柔軟性が飛躍的に向上し、従来の戦い方をしていた敵軍は翻弄されることになりました。

ナポレオン法典:200年以上生き続ける「遺産」

ナポレオンの偉業で、軍事的勝利よりもはるかに長く影響を与え続けているのがナポレオン法典(フランス民法典)です。

1804年3月21日に公布されたこの法典は、全文2281条から成る民法典でした。
ナポレオン自身が4人の法律専門家による編纂委員会を設置し、102回の審議会議のうち59回に自ら出席して議長を務めたというのだから驚きです。
皇帝になる直前の超多忙な時期に、法律の条文について専門家とガチで議論していたわけですから。

この法典の基本原則は以下のとおりです。

  • 法の前の平等:身分に関係なく、すべての市民に同じ法律を適用する
  • 私的所有権の絶対:個人の財産は国家によって侵害されない
  • 契約の自由:個人間の契約は法的に尊重される
  • 信仰の自由:特定の宗教を強制しない

フランス革命で市民が勝ち取った権利を、法律として明文化したのです。
つまりナポレオン法典は、革命の理念を「形」にした法律だったんですね。

この法典はフランスだけにとどまらず、ベルギー、オランダ、イタリア、スペイン、さらにはエジプトやアメリカのルイジアナ州にまで影響を与えました。
改正を重ねながらも、フランスでは現在もこの法典が現行民法典として存続しています。

実は日本も無関係ではありません。
明治時代、フランスの法学者ボアソナードが来日し、ナポレオン法典をモデルとした旧民法を起草しています。
現行の日本民法にも、その影響が残っているとされています。

ナポレオン自身もこの法典に特別な思い入れがあったようで、セントヘレナ島での晩年にこう語ったと伝えられています。
「私の真の栄光は40回の戦勝ではない。ワーテルローがそのすべてを消し去った。永遠に消えないもの、永遠に生き続けるもの、それは私の民法典だ」

その他の改革:フランスを「近代国家」にした男

ナポレオンの功績は法典だけにとどまりません。
彼が行った改革は多岐にわたり、その多くが現代のフランスに受け継がれています。

フランス銀行の設立(1800年) では、国家の財政と通貨を安定させる中央銀行を創設しました。

教育制度の整備 では、リセ(高等学校)制度やバカロレア(大学入学資格試験)制度を確立しています。
フランスの学生が今も受けるバカロレア試験は、実はナポレオンの時代に始まったものなのです。

レジオンドヌール勲章(1802年創設) は、身分や出自に関係なく功績に基づいて授与される勲章制度です。
これもナポレオンが「能力主義」を重視していたことの表れでしょう。
この制度はフランスで現在も運用されており、最も権威ある勲章として知られています。

さらにメートル法の普及促進にも力を入れました。
フランス革命期に制定されたメートル法を、ナポレオンは征服地にも広めていきました。

軍人としてのイメージが強いナポレオンですが、実は政治家・行政官としての手腕も相当なものだったのです。


ナポレオンの系譜——コルシカ島の「よそ者」

生まれはイタリア系の貧乏貴族

ナポレオンが生まれたコルシカ島は、彼が誕生するわずか1年前にジェノヴァ共和国(イタリア)からフランスに割譲された島です。
つまりナポレオンは、生まれた時点ではほぼ「イタリア人」だったわけです。

本名も「ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ」というイタリア式でした。
25歳のころ、フランスでのキャリアを本格化させるために「ナポレオン・ボナパルト」とフランス風に改名しています。

父カルロ・マリアは地元の小貴族で弁護士でしたが、裕福とは言えない家庭でした。
ナポレオンは12人兄弟の4番目(うち4人は幼くして亡くなっている)として生まれています。

差別とコンプレックスの少年時代

9歳でフランス本土のブリエンヌ陸軍幼年学校に入学したナポレオンですが、コルシカ訛りのフランス語のせいでクラスメイトからからかわれ続けました。
「あの島の田舎者」という目で見られていたのです。

しかし、その屈辱が猛烈な向上心に火をつけたようです。
特に数学の才能は突出しており、パリの陸軍士官学校を通常4年のところ、わずか1年で卒業しています。
1785年、16歳で砲兵少尉に任官。ここからナポレオンの軍人人生が始まりました。

ジョゼフィーヌとの運命的な出会い

ナポレオンの私生活で欠かせないのが、最初の妻ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネとの関係です。

きっかけは1795年、革命の混乱で夫を処刑されたジョゼフィーヌの息子ウジェーヌが、亡き父の形見の剣を返してもらうために軍司令部を訪ねたこと。
対応したのがナポレオンで、そのお礼にジョゼフィーヌが訪問。この出会いが恋に発展しました。

1796年に結婚しますが、ジョゼフィーヌはナポレオンより6歳年上。
ナポレオンはイタリア遠征中も熱烈なラブレターを送り続けましたが、ジョゼフィーヌの方はそれほど熱心ではなかったようです。

結局、世継ぎを産めないことを理由に1809年に離婚することになりましたが、ナポレオンはセントヘレナ島での最期の言葉で「ジョゼフィーヌ」の名を呼んだと伝えられています。


ナポレオンの「姿」——実はチビじゃなかった?

世界一有名な「身長の誤解」

「ナポレオンは背が低かった」というのは、おそらく世界で最も有名な歴史的誤解のひとつでしょう。

死亡時の記録には「5フィート2インチ」と書かれていますが、これはフランスの旧尺度での数字です。
当時のフランスの1インチ(pouce)は約2.71cmで、イギリスの1インチ(約2.54cm)より長かったのです。

つまりフランスの「5フィート2インチ」をイギリス式に換算すると、約5フィート6〜7インチ(168〜170cm) になります。

当時のフランス人男性の平均身長は165cm前後でしたから、ナポレオンはむしろ平均よりやや高い部類でした。

なぜ「チビ」のイメージが定着したのか

この誤解が広まった原因は、大きく分けて3つあります。

①イギリスのプロパガンダ(宣伝工作)
ナポレオン戦争中、イギリスの風刺画家ジェームズ・ギルレイらが、ナポレオンを小さくて滑稽な人物として描き続けました。
これは敵のリーダーを矮小化する戦時プロパガンダの常套手段です。

②単位の混同
フランス式とイギリス式で同じ「フィート」「インチ」という単語を使っていたため、誰もわざわざ換算しなかったのです。
ブリタニカ百科事典でも、この単位の混同が誤解の主因とされています。

③近衛兵との身長差
ナポレオンの精鋭部隊「近衛兵(オールド・ガード)」は、183cm以上の長身が入隊条件でした。
常に大男たちに囲まれていたため、公の場ではナポレオンが相対的に小柄に見えたのです。

ちなみに「ナポレオン・コンプレックス」(背の低い人が攻撃的になる心理)という言葉は、ナポレオンの存命中には存在しませんでした。
20世紀になって心理学者が、この誤った身長イメージをもとに作った造語なのです。


ナポレオンの特徴——超人的な仕事量と独裁者の素顔

1日4時間睡眠の仕事中毒

ナポレオンは驚異的な仕事量で知られています。
1日4時間程度しか眠らず、残りの時間をほぼすべて政務と軍務に費やしていました。

現存する彼の書簡は約7万通にのぼります。
書類を読むスピードは常人離れしており、分厚い報告書も一瞬で要点を掴んだそうです。

フロリダ州立大学の歴史学教授は、ナポレオンを「政治的動物(political animal)」と表現しています。
権力を手にし、それを行使することにとことん情熱を注ぐ人物だったのです。

「妥協」が苦手だった男

ナポレオンの最大の弱点は、皮肉なことにその強さそのものでした。

勝ち続けたがゆえに、敵との妥協や譲歩が極めて苦手だったのです。
1808年の時点で、ヨーロッパの大陸諸国はナポレオンの支配をほぼ認めていましたが、ナポレオンはさらなる拡大を求めて止まりませんでした。

スペインへの介入、そして1812年の致命的なロシア遠征——。
約60万の大軍を率いてロシアに侵攻したものの、ロシア軍の焦土戦術と厳冬により壊滅的な損害を受け、帰還できたのはわずか数万人でした。

この敗北をきっかけに、ヨーロッパ中の国が反ナポレオンで結束。
1813年のライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で敗北し、1814年にエルバ島へ流刑となります。


ナポレオンにまつわる伝承とエピソード

ベートーヴェン「英雄」交響曲のエピソード

ベートーヴェンが交響曲第3番を作曲したとき、当初は「ボナパルト」というタイトルでナポレオンに献呈するつもりでした。
自由と平等を掲げる革命の英雄として、ナポレオンに強いシンパシーを感じていたのです。

ところが1804年、ナポレオンが皇帝に即位したという知らせを聞くと、ベートーヴェンは激怒。
「あいつも結局は自分の野心のために権力を握るただの独裁者だ」と叫び、楽譜の表紙に書いたナポレオンの名前を激しく消した——。

これが広く知られている逸話ですが、実は真偽については研究者の間でも意見が分かれています。
ベートーヴェンは終始ナポレオンを尊敬していたとする説や、献呈を断られた腹いせで改題したという説もあるのです。
いずれにせよ、曲名は「英雄」(エロイカ)に変更され、音楽史に残る傑作として知られることになりました。

エジプト遠征とロゼッタ・ストーン

1798年、ナポレオンはイギリスのインド航路を断つ目的でエジプトに遠征しました。
軍事的には必ずしも成功とは言えない遠征でしたが、実は「もうひとつの軍団」を連れて行っていたのです。

それは約167名の学者や技術者からなる調査団でした。
ナポレオンは軍事遠征でありながら、エジプトの古代文明を本格的に調査するという壮大な計画も同時に進めていたのです。

そして1799年7月15日、フランスの工兵大尉ピエール=フランソワ・ブシャールが、ロゼッタ(ラシード)近郊で古代エジプトの碑文が刻まれた石板を発見します。
これが後に「ロゼッタ・ストーン」と呼ばれることになる、エジプト象形文字解読の鍵となった石です。

ロゼッタ・ストーンは1801年にイギリス軍に接収され、現在は大英博物館に収蔵されています。
軍事的に敗北した遠征が、結果として古代文明研究に革命的な貢献をもたらしたというのは、なんとも皮肉な話です。

百日天下——奇跡の脱出と最後の賭け

1815年2月、エルバ島に流刑されていたナポレオンは、約1000人の兵と共に島を脱出します。

フランスに上陸したナポレオンを迎え撃つために派遣された軍隊は、なんとナポレオンの姿を見るなり次々と寝返り。
彼が差し出した胸に銃を向けられた者はおらず、「皇帝万歳!」の歓声の中、パリまで進軍したのです。
国王ルイ18世はパリから逃亡し、ナポレオンは約3週間で無血復位を果たしました。

しかしこの「百日天下」は長く続きませんでした。
1815年6月18日、ベルギーのワーテルローでイギリス・プロイセンの連合軍に敗北。
ナポレオンの支配は、実際にはわずか95日間で幕を閉じたのです。

ナポレオンの死因をめぐるミステリー

ワーテルロー後、ナポレオンは南大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島に流刑となりました。

島での生活は過酷でした。
総督ハドソン・ローはナポレオンを「ボナパルト将軍」と呼んで皇帝の称号を認めず、行動を厳しく監視しました。
高温多湿な気候の中、ナポレオンの体調は次第に悪化していきます。

1821年5月5日、ナポレオンは51歳でこの世を去りました。
公式な死因は胃がんとされています。ナポレオンの父カルロも胃がんで39歳で亡くなっており、遺伝的な要因もあったと考えられます。

しかし1961年、スウェーデンの医師ステン・フォーシュフートがナポレオンの遺髪を分析したところ、通常の数十倍のヒ素が検出されました。
これにより「ヒ素による毒殺説」が浮上し、大きな論争を巻き起こしました。

その後の研究では、さまざまな見解が示されています。

2008年にイタリアの国立核物理学研究所が調査した結果、ナポレオンの妻ジョゼフィーヌや息子の遺髪からも同程度のヒ素が検出されたことがわかっています。
つまり、19世紀初頭のヨーロッパの人々は環境中のヒ素に日常的にさらされており、ナポレオンだけが特別に毒を盛られたわけではなさそうだ、とAFP通信が報じています

また、ナポレオンが暮らしていたロングウッド・ハウスの壁紙には「シェーレグリーン」というヒ素を含む緑色の染料が使われていたことも判明しています。
湿気が多い環境でカビが発生し、壁紙のヒ素が気化して慢性的に吸い込んでいた可能性も指摘されています。

ちなみに1840年、遺体をフランスに返還するために棺を開けたところ、死後19年経っていたにもかかわらず遺体はほとんど腐敗していなかったそうです。
これはヒ素の防腐作用と棺の密閉性によるものと考えられています。

現在、ナポレオンの遺体はパリのアンヴァリッド(廃兵院)に安置されています。


ナポレオンの年表

年齢出来事
1769年0歳コルシカ島アジャクシオに生まれる
1779年9歳フランス本土のブリエンヌ陸軍幼年学校に入学
1785年16歳パリ陸軍士官学校を卒業、砲兵少尉に任官
1793年24歳トゥーロン攻囲戦で活躍、准将に昇進
1796年26歳ジョゼフィーヌと結婚、イタリア遠征で連戦連勝
1798年29歳エジプト遠征。ロゼッタ・ストーンの発見(1799年)
1799年30歳ブリュメール18日のクーデター、第一統領に就任
1804年35歳ナポレオン法典を公布(3月)、皇帝に即位(12月)
1805年36歳アウステルリッツの戦いで勝利。凱旋門の建設を指示
1806年37歳イエナの戦いでプロイセンを撃破
1807年38歳ティルジットの和約でヨーロッパ支配を確立
1812年43歳ロシア遠征で壊滅的敗北
1813年44歳ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で敗北
1814年44歳パリ陥落、退位してエルバ島に流刑
1815年45歳エルバ島を脱出、百日天下。ワーテルローの戦いで敗北
1815年46歳セントヘレナ島に流刑
1821年51歳セントヘレナ島で死去
1840年遺体がフランスに返還、パリのアンヴァリッドに安置

参考情報

この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。

百科事典・学術資料

歴史専門サイト・研究機関

ニュース記事

身長の誤解に関する資料


まとめ

ナポレオン・ボナパルトの生涯を振り返ると、以下のことがわかります。

  • コルシカ島出身の貧乏貴族の息子が、差別やいじめを乗り越えて16歳で軍人となった
  • フランス革命後の混乱を収拾し、35歳でフランス皇帝に即位した
  • 軍事面では「アウステルリッツの戦い」に代表される天才的な戦術でヨーロッパ大陸をほぼ制覇した
  • 政治面では、現在も影響力を持つ「ナポレオン法典」や教育制度、銀行制度など、数多くの改革を実行した
  • 「背が低い」というイメージは、フランスとイギリスの単位の違いとイギリスのプロパガンダによる誤解である
  • ロシア遠征の失敗をきっかけに転落し、最終的にはセントヘレナ島で51歳の生涯を閉じた
  • 死因は胃がんが有力だが、ヒ素中毒説も長年議論されてきた

軍事的天才であると同時に、法律や制度を通じて近代社会の基盤を築いた政治家。
英雄であると同時に、数百万人の命を奪った戦争の張本人。

ナポレオンは、一人の人間が「英雄」と「暴君」の両方の顔を持ちうることを教えてくれる、世界史で最も複雑な人物の一人と言えるでしょう。

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