平安時代末期、源平合戦のさなかに奇跡の一矢を放った武士がいました。
その名は那須与一。
波に揺れる小舟の上に掲げられた扇の的を、見事に射抜いたという伝説は、『平家物語』の中でも最も印象的な場面の一つとして語り継がれています。
しかし、この英雄的なエピソードの主人公について、私たちはどれだけのことを知っているのでしょうか。
今回は、謎に包まれた那須与一の生涯と、彼が残した伝説について詳しく見ていきます。
那須与一とは何者か
那須与一は、源平合戦において源氏方として戦った武士です。
本名は那須宗隆(むねたか)、または資隆(すけたか)と伝えられていますが、「与一」という名前の方がよく知られています。
「与一」とは「十余る一」、つまり「十一男」を意味する通称なんです。
父・那須資隆(すけたか)の十一番目の息子として生まれた彼は、幼い頃から弓の才能に恵まれていたと言われています。
那須氏は現在の栃木県那須郡を本拠地とする武士の一族で、与一もこの地で育ちました。
生まれた時期については諸説あり、1166年から1169年頃と考えられていますが、確実な記録は残っていません。
興味深いことに、与一の名前や事跡は『平家物語』や『源平盛衰記』といった軍記物には登場するものの、同時代の正式な歴史書である『吾妻鏡』には記載がないのです。
このため、歴史学者の間では実在の人物かどうかについて議論があります。
ただし、鎌倉時代中期には那須氏の一族が各地を支配していたという記録があり、与一にまつわる伝承が完全な作り話とも言い切れません。
屋島の戦いと「扇の的」伝説
那須与一の名を後世に残すことになったのが、1185年(元暦2年)2月に讃岐国屋島(現在の香川県高松市)で起きた「屋島の戦い」でのエピソードです。
この戦いは、源平合戦の中でも重要な転換点となった戦いでした。
一ノ谷の戦いで敗れた平氏は、屋島を拠点として瀬戸内海の制海権を握り、再起を図っていました。
これに対し、源義経が率いる源氏軍が背後から急襲をかけたのです。
扇の的が掲げられた理由
戦いが一段落した夕暮れ時のこと。
平氏側から豪華に飾られた小舟が一艘、源氏の陣営に近づいてきました。
船の舳先には、真紅の地に金色の日の丸が描かれた扇が竿の先に立てられていました。
美しく着飾った女性が手招きをしながら、「この扇を射てみよ」と挑発してきたのです。
これは平氏側の余興であると同時に、占いの意味も込められていたとされています。
もし源氏が扇を射落とせなければ、「勝ち運は我にあり」という証になる――そんな思惑があったわけですね。
義経の命令と与一の苦悩
これを見た源義経は、配下の武士たちの中から弓の名手を探しました。
そして、白羽の矢が立ったのが那須与一だったのです。
義経から命令を受けた与一でしたが、すぐには引き受けませんでした。
なぜなら、この挑戦があまりにも困難だったからです。
扇までの距離は約77メートル(7段)。
しかも、的となる扇は波に揺れる船の上で風にあおられています。
敵味方が注目する中で失敗すれば、源氏武士の恥となってしまいます。
『平家物語』によれば、与一は「私は上手くできるかわかりません。失敗したら鎌倉武士として後世までの恥となりましょう。確実に成功する方に命じてください」と謙虚に辞退しようとしました。
しかし、義経は激怒して「はぁ? オレに逆らうの? オレ大将だよ? オレの言う事にあれこれ言うならさっさと帰れば?」と厳しく言い放ちます。
現代の感覚で言えば、かなりのパワハラですね。
与一は引き下がれなくなり、「それでは、やってみます」と覚悟を決めました。
奇跡の一射
与一は馬に乗って波打ち際まで進みました。
沖には平氏の船が並び、陸には源氏の武士たちが見守っています。
失敗すれば自害する覚悟を決めた与一は、まず目を閉じて心を静めました。
そして、故郷下野国の神仏に祈りを捧げたのです。
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させてくださいませ」
祈りを終えて目を開けると、不思議なことに風が少し弱まり、扇も狙いやすくなっていました。
与一は鏑矢(かぶらや)を番え、力いっぱい引き絞って放ちました。
矢は見事に扇の要(かなめ)の近くを射抜き、扇は空高く舞い上がります。
春風に揉まれながら、やがて扇は海面へと落ちていきました。
夕日を浴びて輝く赤い扇が白波の間を漂う光景は、まさに絵のようだったと伝えられています。
敵も味方も称賛
この神業のような一射を目の当たりにして、沖の平氏軍は船べりを叩いて感嘆し、陸の源氏軍は箙(えびら)を叩いてどよめきました。
敵も味方も関係なく、与一の腕前を褒め称えたのです。
しかし、この美しい場面の後には、もう一つのエピソードが続きます。
平氏側の年配の武士が一人、興に乗って扇のあった場所で舞い始めました。
これを見た義経は、与一にその武士を射るよう命じます。
与一は命令に従い、舞っていた武士も射抜いて倒してしまいました。
敵ながらアッパレと称賛してくれた相手を討つという行為に、源氏側からも「よく射った」という声と「心無いことを」という声の両方が上がったと伝えられています。
戦場の厳しい現実を示すエピソードですね。
その後の人生と功績
屋島の戦いでの功績により、那須与一は源頼朝から大きな恩賞を受けたとされています。
具体的には、武蔵国(現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部)、丹波国(現在の京都府中部・兵庫県北東部)、信濃国(現在の長野県)、若狭国(現在の福井県西部)、備中国(現在の岡山県西部)の5ヶ国に荘園を賜ったと伝えられています。
与一には10人の兄がいましたが、そのうち9人は平氏側に味方していました。
しかし与一は、扇の的を射た功績を称えられて那須氏の家督を継ぐことになり、兄たちを赦免して領地を分け与えたとされています。
これにより、下野国における那須氏発展の基礎が築かれたと言われているんです。
与一の晩年については諸説あり、はっきりしたことは分かっていません。
山城国伏見で病没したという説が有力ですが、没年も1189年から1232年頃まで幅があり、確実なことは言えません。
複数ある墓所と伝承
那須与一の墓所は日本各地に複数存在します。
これも彼の存在が伝説化している証拠の一つですね。
最も有力とされているのは、京都府京都市の即成院です。
ここが本墓とされています。
栃木県大田原市福原の玄性寺には、兄・那須資之が即成院から分骨して建立した墓があります。
那須氏の菩提寺であるこの玄性寺では、毎年9月に与一の墓前祭と弓道大会が開催されており、地元の人々から今も親しまれています。
その他にも、兵庫県神戸市須磨区の碧雲寺宗照院、岡山県井原市の西江原町など、各地に与一ゆかりの墓や供養塔が残されています。
岡山の墓は、与一が賜った荏原荘の子孫たちが建てた供養墓で、「扇の的」の故事にあやかって願い事がかなうとされ、特に受験生のお参りが多いそうです。
「公に一(志望校)を与える」という語呂合わせから、合格祈願のパワースポットとして知られているんですね。
史実と伝説の境界
ここまで那須与一のエピソードを紹介してきましたが、実はこれらの多くは伝説の域を出ません。
前述の通り、同時代の正式な歴史書『吾妻鏡』には与一の名前が登場しないのです。
屋島の戦いで実際に「扇の的」のエピソードがあったかどうかも、歴史学者の間では疑問視されています。
『平家物語』は軍記物語であり、史実を脚色して劇的に描いている部分が多いからです。
ただし、完全な創作とも言い切れません。
なぜなら、鎌倉時代中期には那須氏の一族が実際に各地を支配していた記録が残っているからです。
また、栃木県の那須地方には与一にまつわる伝承が数多く残されており、地元では古くから実在の人物として語り継がれてきました。
真実がどこまでなのかは分かりませんが、人々の心に深く刻まれた物語であることは間違いありません。
後世への影響と文化
那須与一の「扇の的」エピソードは、日本文化に大きな影響を与えてきました。
能楽では『屋島』という演目で与一の物語が演じられ、歌舞伎でも「那須与一」として舞台化されています。
浮世絵の題材としても人気があり、多くの絵師が扇を射る場面を描いてきました。
現代でも、与一は様々な作品に登場しています。
漫画『ドリフターズ』ではメインキャラクターとして、NHK大河ドラマ『義経』(2005年)では今井翼さんが演じるなど、幅広いメディアで取り上げられています。
また、ゲーム「ファイナルファンタジー」シリーズには「与一の弓」という強力な武器が登場することでも知られています。
2021年の東京オリンピック・パラリンピックでは、Googleの特別Doodleゲームに車いすアーチェリーの選手として登場し、国際的にも紹介されました。
弓道の世界でも、与一は理想的な射手の象徴として語り継がれています。
精神を集中し、神仏に祈り、そして完璧な一射を放つ――この姿勢は、弓道における「射法八節」の精神にも通じるものがあるのです。
栃木県那須地方では、与一を地域の誇りとして様々な取り組みが行われています。
大田原市には「那須与一伝承館」があり、与一の生涯や那須氏の歴史について学ぶことができます。
毎年開催される弓道大会には全国から多くの参加者が集まり、与一の技を偲んでいます。
まとめ
那須与一は、史実と伝説の境界線上に立つ、謎多き英雄です。
実在したかどうかさえ確実ではありませんが、『平家物語』に描かれた「扇の的」の物語は、800年以上経った今も人々の心を魅了し続けています。
波に揺れる船の上の小さな的を、一発で射抜くという奇跡。
そこには、技術だけでなく、精神の集中、神への祈り、そして武士としての誇りが込められていました。
歴史の真実は闇の中ですが、与一の物語が伝えるメッセージ――困難な挑戦に立ち向かう勇気、極限の集中力、そして謙虚さ――は、時代を超えて私たちに語りかけてくるものがあります。
もし栃木県を訪れる機会があれば、玄性寺や那須与一伝承館を訪ねてみてはいかがでしょうか。
そこには、伝説の弓の名手が残した足跡と、彼を慕い続ける人々の思いが、今も息づいています。
参考情報
この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました。
Web資料
- Wikipedia「那須与一」 – 基本情報と伝承の確認
- Wikipedia「屋島の戦い」 – 戦いの経緯と背景
- 国立公文書館「平家物語 – 那須与一」 – 平家物語諸本の比較
- 和樂web「源義経が激怒?屋島の戦いを描いた『那須与一』を解説」 – 『平家物語』の詳細な解説
- 刀剣ワールド「那須与一の歴史」 – 那須与一の事跡と伝承
- 大田原市公式サイト「玄性寺・与一の墓」 – 墓所の情報
- Wikipedia「玄性寺」 – 那須氏の菩提寺について
- 井原市観光協会「那須与一の墓」 – 備中荏原荘の供養墓
- 栃木県教育委員会「那須与一 – とちぎふるさと学習」 – 地元での伝承
英語資料
- Wikipedia (English) “Nasu no Yoichi” – 英語圏での評価と情報
古典文献
- 『平家物語』 – 扇の的の場面の原典
- 『源平盛衰記』 – 与一の事跡に関する記述
さらに詳しく知りたい方へ
- 那須与一公式サイト – 那須与一の詳細な伝記
- 戦国ヒストリー「屋島の戦い」 – 戦いの背景と経緯
- 刀剣ワールド「屋島の戦い古戦場」 – 古戦場の詳細情報


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