真弓広有とは?怪鳥退治で名を賜った弓の名手

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「いつまで、いつまで」と鳴く不気味な怪鳥を、たった一本の矢で射落とした武将——それが真弓広有(まゆみ ひろあり)です。

後醍醐天皇の時代、疫病に苦しむ京都に現れた怪物を退治し、その功績で「真弓」の姓を賜ったという伝説の持ち主なんです。
元阪神タイガースの真弓明信さんの先祖としても知られています。

この記事では、真弓広有の生涯と、彼が成し遂げた怪鳥退治の逸話をわかりやすく解説します。

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真弓広有とは

真弓広有は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将です。
生没年は嘉元3年(1305年)から正平24年/応安2年3月19日(1369年4月25日)で、享年65歳でした。

元の名は隠岐次郎左衛門広有。
父は隠岐広能(ひろよし)、兄に広家がいたと伝わります。

弓の名手として知られ、後に南朝方について九州で活躍しました。
官位は従五位、晩年の法名は弘寂(こうじゃく)です。

怪鳥退治の伝説

真弓広有の名を歴史に刻んだのが、建武元年(1334年)の怪鳥退治です。
この逸話は『太平記』巻12の「広有射怪鳥事(ひろありけちょうをいること)」に詳しく記されています。

疫病と怪鳥の出現

建武元年の秋、鎌倉幕府が倒れて建武の新政が始まったばかりの頃。
京都では疫病が猛威を振るい、夥しい数の人々が命を落としていました。

そんな中、夜になると紫宸殿(ししんでん、朝廷の正殿)の屋根の上に、不気味な怪鳥が現れるようになったんです。
怪鳥は「いつまで、いつまで」と鳴きながら飛び回り、人々を恐怖に陥れました。

この鳴き声、実は「いつまで(死者を)放置するのか」という意味だったとも言われています。
疫病で亡くなった人々の遺体が適切に弔われず、その怨念が怪鳥となって現れたという説もあるんですね。

白羽の矢が立つ

毎晩現れる怪鳥に恐れおののいた公卿たち。
平安時代に源頼政が鵺(ぬえ)という怪物を退治した故事にあやかり、弓の名手に退治させようと考えました。

そこで名前が挙がったのが、隠岐次郎左衛門広有。
関白左大臣の二条師基(もろもと)に仕えていた広有は、弓の腕前で名を馳せていたんです。

広有自身は、肉眼でやっと確認できるほど高く飛ぶ怪鳥を射落とせるか不安だったと伝わります。
しかし朝廷の命令を断るわけにはいきません。

見事、一矢で射落とす

広有は二人張りの弓(二人がかりでないと引けないほど強力な弓)に、十二束二伏(じゅうにそくにぶせ、握りこぶし12個分+指2本分の長さ)という長い鏑矢(かぶらや)を用意しました。

そして怪鳥が紫宸殿の上空、高さ二十丈(約60メートル)のところで鳴いた瞬間——。
広有は矢を一閃!

轟音とともに矢が空を突き抜け、怪鳥は仁寿殿の軒の上をゴロゴロと転がり落ちました。
見物人たちから一斉に歓声が上がり、あたりは騒然となったそうです。

怪鳥の正体

射落とされた怪鳥の姿は、まさに化け物そのものでした。

『太平記』によると、その特徴は以下の通りです:

  • 頭部は人間のよう
  • 曲がった嘴に鋸(のこぎり)のような歯が並ぶ
  • 体は蛇のような形
  • 両足には剣のように鋭い爪
  • 翼を広げると1丈6尺(約4.8メートル)もの長さ

なお、この怪鳥には『太平記』の時点では名前がついていませんでした。
「以津真天(いつまで)」という名前は、江戸時代の画家・鳥山石燕(とりやませきえん)が妖怪画集『今昔画図続百鬼』で、怪鳥の鳴き声「いつまで、いつまで」から命名したものなんです。

恩賞として「真弓」の姓を賜る

見事怪鳥を退治した広有。
後醍醐天皇はその功績を称え、「真弓(まゆみ)」の姓を授けました。

「真弓」は弓そのものを意味する言葉。
まさに弓の名手にふさわしい名前ですよね。

さらに広有は従五位に叙爵され、因幡国(現在の鳥取県)にある荘園を恩賞として与えられました。
この時点で、広有は出家していたようで、法名は弘寂と伝わります。

南北朝の動乱へ

怪鳥退治の後、日本は南北朝時代の動乱期に突入します。

真弓広有は南朝方につき、征西将軍宮と呼ばれた懐良親王(かねよししんのう)に従って九州へ下りました。
各地を転戦し、南朝方の九州での全盛期を支えたんです。

広有は肥後国(現在の熊本県)と筑後国(現在の福岡県南部)の境にあった「大津山の関(松風の関)」という関所の守備を任されました。
この関所は、南朝方にとって重要な防衛拠点だったんですね。

晩年と最期

晩年、広有は関所付近の山里に隠棲しました。
現在の福岡県みやま市山川町真弓付近と言われています。

この地名「真弓」は、広有が住んだことに由来すると考えられているんです。

正平24年/応安2年(1369年)3月19日、真弓広有は65歳でその生涯を閉じました。

真弓広有の系譜

真弓広有のルーツは、藤原北家長良流です。

『尊卑分脈』によると、藤原長良の次男である遠経(とおつね)の子・良範(よしのり)の六男・純素(すみもと)を祖としています。
ちなみに承平天慶の乱で有名な藤原純友は、良範の三男なんです。

つまり広有と藤原純友は遠い親戚関係にあるわけですね。
広有は純素から数えて13代目の末裔とされています。

現代への影響

真弓広有の子孫は現在も続いています。
最も有名なのが、元阪神タイガースの真弓明信さんです。

真弓明信さんは福岡県大牟田市出身で、阪神タイガースの1番打者として活躍し首位打者も獲得。
後に阪神の監督も務めました。

大牟田市付近には現在も「真弓」姓が多く、広有の子孫が代々この地に住み続けていることがわかります。

また、怪鳥退治の逸話は後世の創作作品にも影響を与えています。
東方Projectシリーズでは「広有射怪鳥事 ~ Till When?」という楽曲として登場し、ゲームやアニメなどでも以津真天が妖怪として取り上げられているんです。

まとめ

真弓広有は、南北朝時代を生きた弓の名手です。

主なポイントをまとめると:

  • 建武元年(1334年)、疫病に苦しむ京都に現れた怪鳥を一矢で射落とした
  • その功績により後醍醐天皇から「真弓」の姓を賜った
  • 南朝方として九州で活躍し、大津山の関の守備を担当
  • 晩年は福岡県みやま市付近に隠棲し、65歳で生涯を閉じた
  • 元阪神タイガースの真弓明信は子孫にあたる

『太平記』に記された怪鳥退治の逸話は、600年以上経った現在も語り継がれています。
疫病という災厄と、それを退治した英雄——時代を超えて人々の心に残る物語なんですね。

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