「鬼武蔵」——戦国時代、この異名で恐れられた武将がいました。
織田信長の小姓として有名な森蘭丸の兄であり、戦場では敵味方問わず恐れられた猛将。
その名は森長可(もり ながよし)。
初陣で27人の首を討ち取り、返り血で全身を真っ赤に染めながら「大丈夫ですよ」と笑顔で答えた男。
しかしその遺言状には、家族への深い愛情が刻まれていたのです。
この記事では、わずか27年の生涯を駆け抜けた「戦国最強の鬼」の実像に迫ります。
森長可の基本情報
森長可は永禄元年(1558年)、織田信長の重臣・森可成(もり よしなり)の次男として生まれました。
父の可成は「攻めの三左」と呼ばれた槍の名手で、信長から厚い信頼を受けていた人物です。
しかし元亀元年(1570年)、父と長兄の可隆が相次いで戦死。
わずか13歳の長可は、突然森家の当主となり、美濃国の金山城(現在の岐阜県可児市)を任されることになりました。
弟には、のちに信長の側近として有名になる森蘭丸(成利)がいます。
同じ兄弟でありながら、気配りの達人だった蘭丸とは対照的に、長可は激しい気性の持ち主でした。
「鬼武蔵」の異名はなぜついた?
瀬田の橋での事件
森長可が「鬼武蔵」と呼ばれるようになったきっかけには、こんなエピソードがあります。
天正5年(1577年)、長可が急ぎの用事で京都へ向かっていたときのこと。
琵琶湖にかかる瀬田の橋で、関所の役人に止められました。
当時、織田信長は「関所を通るときは馬から降りて名を名乗れ」と通達を出していました。
しかし急いでいた長可は、それを無視して通り抜けようとします。
役人が「下馬せよ」と命じると、長可は激怒。
なんとその場で役人を斬り殺し、「止めようとしたら町ごと焼き払う」と叫んで強行突破してしまったのです。
普通なら厳罰を受けるはずの暴挙。
ところが信長はこの話を聞いて笑い、「武蔵坊弁慶が五条大橋で人を斬った故事にならって、今後は『鬼武蔵』と名乗れ」と言ったとか。
信長のお気に入りだった長可は、こうした問題行動を起こしても重い処分を受けることはほとんどありませんでした。
初陣での規格外の戦いぶり
長可の「鬼」っぷりは、15歳の初陣からすでに発揮されていました。
元亀4年(1573年)、伊勢長島の一向一揆攻めに参加した長可は、味方の武将に何も告げず、単独で敵陣に乗り込みます。
そして愛槍を振るい、なんと27人もの首級を挙げたのです。
初陣で、しかも単独行動で27人。
これだけでも十分に規格外ですが、長可の破天荒さはここからさらにエスカレートしていきます。
愛槍「人間無骨」の恐ろしい意味
森長可が愛用していたのは、「人間無骨(にんげんむこつ)」という銘の十文字槍です。
この名前の意味は、「この槍の前では人間の骨など無いも同然」。
つまり、骨があろうがなかろうが関係なく、人体を貫けるほど鋭いということを表しています。
実際、長可が討ち取った首を槍に刺して立てたところ、首が刃を滑り落ちて鎌刃の部分を突き抜けたという逸話も残っています。
頭蓋骨を貫通するほどの切れ味だったわけです。
この槍は、美濃国関の名工・2代目和泉守兼定によって作られたもの。
父の可成も十文字槍の使い手で、長可はその技と槍を受け継いだことになります。
甲州征伐での大活躍
天正10年(1582年)、織田信長は武田家を滅ぼすため、甲州征伐を開始しました。
長可は織田信忠(信長の嫡男)の軍に加わり、先鋒として信濃国へ侵攻します。
高遠城攻めでの凄まじい戦いぶり
武田家臣・仁科盛信が守る高遠城を攻めた際、長可は驚くべき行動に出ました。
まず城の三の丸の屋根に登り、天井板を引き剥がして城内に鉄砲の一斉射撃を加えます。
さらに本丸に突入すると、自ら槍を手に取って奮戦。
戦いが終わって織田信忠のもとに戻ってきた長可は、下半身が真っ赤に染まっていました。
驚いた信忠が「怪我をしたのか?」と心配すると、長可はケロリとして答えました。
「返り血ですよ」と。
大怪我だと思われるほどの返り血を浴びながら、本人は平然としている。
この時の凄まじい戦いぶりが、「鬼武蔵」の名をさらに轟かせることになりました。
武田滅亡後の大出世
甲州征伐の功績により、長可は信濃川中島四郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城を与えられます。
石高は約20万石。13歳で家督を継いだ少年は、25歳にして大名の仲間入りを果たしたのです。
なお、長可が去った美濃金山城は、弟の森蘭丸が引き継ぐことになりました。
本能寺の変と命がけの脱出劇
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起こります。
織田信長と嫡男・信忠が明智光秀に討たれ、長可の弟たちである蘭丸・坊丸・力丸も信長とともに命を落としました。
このとき長可は、柴田勝家の援軍として越後方面に出陣していました。
信長の死を知った信濃の国人衆は次々と反旗を翻し、領内では一揆が勃発。
長可は完全に四面楚歌の状態に陥りました。
人質を盾にした決死の撤退
普通なら降伏か玉砕しかない状況。
しかし長可は、驚くべき方法で切り抜けます。
長可は統治の安定のため、信濃国人衆の妻子を人質として海津城に住まわせていました。
彼はこの人質を盾にして、反乱勢力を牽制しながら脱出を図ったのです。
途中、裏切りや一揆の襲撃に遭いながらも、木曽路を経由して旧領の美濃金山城への帰還に成功。
この時の冷酷かつ大胆な行動も、「鬼武蔵」の名にふさわしいものでした。
意外な一面——内政と文化への造詣
「鬼」と呼ばれた森長可ですが、実は戦だけの男ではありませんでした。
領地経営の手腕
金山城主時代、長可は領内の発展に力を注いでいます。
木曽川を利用した川港の整備や城下町の区画整理を行い、商業の振興に努めました。
特に注目されるのは、内陸部で入手困難だった魚や塩の専売制を敷いたこと。
地元商人に専売特権を与える代わりに税収を得るという、経済感覚に優れた政策を実施していたのです。
能筆家としての顔
長可は書を好み、能筆であったと伝えられています。
戦場にも常に矢立(携帯用の筆記用具)と紙を持参し、報告事項は自ら筆を取って書いたとか。
「鬼武蔵」の異名からは想像できない、教養人としての一面がうかがえます。
茶道の嗜み
天正9年(1581年)には、堺の豪商・津田宗及の茶会に招かれた記録も残っています。
豊臣秀吉にお金を借りてまで茶道具を集めていたという話もあり、当時の武将に求められた文化的素養もしっかり身につけていたようです。
家族と家臣への意外な優しさ
戦場では容赦なく敵を斬り倒した長可ですが、身内や家臣に対しては別の顔を見せています。
負傷した家臣への毎日の見舞い
長可の家臣に、各務元正(かがみ もとまさ)という「鬼兵庫」の異名を持つ猛将がいました。
三木城の戦いで各務が負傷したとき、長可は彼を心配して毎日見舞いに通ったといいます。
鬼と呼ばれながらも、信頼する者には深い情を見せる——そんな人間味のある一面がありました。
小牧・長久手の戦いと最期
天正12年(1584年)、豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康の連合軍との間で、小牧・長久手の戦いが勃発しました。
長可は義父の池田恒興とともに秀吉方につき、参戦します。
羽黒の戦いでの敗北
3月17日、長可は小牧山の占拠を狙って兵を進めましたが、徳川軍の酒井忠次らに奇襲を受け、大敗を喫します。
この敗北は長可にとって屈辱的なもので、名誉挽回への焦りが生まれたと考えられています。
白装束をまとった決死の出陣
4月9日、長可は中入り作戦(敵の背後を突く別働隊)の第2陣大将として出陣します。
このとき長可は、鎧の上に白装束を羽織っていました。
白装束は死を覚悟した者が身につけるもの。
不退転の覚悟で戦いに臨んだのです。
眉間を撃ち抜かれた最期
長久手の戦場で、長可は井伊直政の軍と激戦を繰り広げました。
白地金襴の陣羽織、鹿の角の前立の兜という目立つ装いで、馬をおどらせながら突撃を繰り返します。
しかし、水野勝成の配下である鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃により、眉間を撃ち抜かれ即死。
享年27歳でした。
長可の首を敵に取られまいと、家臣たちは遺体を担いで逃げたと伝えられています。
遺言状に込められた家族への思い
長可は、この戦いに臨む前に遺言状を書き残していました。
その内容は、「鬼武蔵」の異名からは想像できないほど、家族への愛情に満ちたものでした。
遺言状の主な内容
遺言状には、おおよそ次のようなことが記されていました。
- 母は秀吉様から生活費をいただいて京都で暮らすように
- 弟の仙千代(のちの森忠政)は秀吉様のもとで奉公するように
- 跡継ぎは要らない
- 金山城は信頼できる武将に任せるように
- 妻は大垣で暮らすように
- 大事な茶道具は秀吉様に進上し、粗末なものは仙千代に譲るように
- 娘のおこうは武士ではなく、京都の町人に嫁がせたい。できれば医者が良い
武士の妻にはするな
最も印象的なのは、娘を「武士の妻にするな」という一節です。
長可は、父と4人の兄弟を戦で失っていました。
戦場で命を落とす苦しみ、愛する者を失う悲しみを、誰よりも知っていたのです。
残された家族には、その悲しみを味わわせたくない。
「鬼」と呼ばれた猛将の、切なる願いがそこにはありました。
森長可の基本データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 森長可(もり ながよし) |
| 通称 | 勝蔵(かつぞう) |
| 異名 | 鬼武蔵 |
| 官位 | 武蔵守 |
| 生年 | 永禄元年(1558年) |
| 没年 | 天正12年4月9日(1584年5月18日) |
| 享年 | 27歳 |
| 出身 | 尾張国(現在の愛知県西部) |
| 父 | 森可成(攻めの三左) |
| 母 | 妙向尼(林通安の娘) |
| 正室 | 池田せん(池田恒興の娘) |
| 弟 | 森蘭丸(成利)、森坊丸、森力丸、森忠政 |
| 主君 | 織田信長 → 織田信忠 → 豊臣秀吉 |
| 居城 | 美濃金山城 → 信濃海津城 → 美濃金山城 |
| 愛槍 | 人間無骨(十文字槍) |
| 死因 | 長久手の戦いで銃撃により戦死 |
森長可の年表
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1558年 | 森可成の次男として誕生 |
| 1570年 | 父・可成と長兄・可隆が戦死、13歳で家督を継ぎ金山城主に |
| 1573年 | 長島一向一揆攻めで初陣、27人の首を討ち取る |
| 1574年 | 第三次長島一向一揆攻めに参加 |
| 1575年 | 長篠の戦いに参加 |
| 1577年 | 瀬田の橋で関所役人を斬殺、「鬼武蔵」の異名を得る |
| 1582年 | 甲州征伐で先鋒として活躍、高遠城攻めで武功を挙げる |
| 1582年 | 武田氏滅亡後、信濃川中島四郡と海津城を拝領(約20万石) |
| 1582年 | 本能寺の変、弟の蘭丸・坊丸・力丸が信長とともに死去 |
| 1582年 | 信濃から決死の脱出、美濃金山城に帰還 |
| 1583年 | 清洲会議後、池田恒興とともに豊臣秀吉に臣従 |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦いに参戦 |
| 1584年 | 長久手の戦いで眉間を撃たれ戦死(享年27) |
森長可ゆかりの地
武蔵塚(愛知県長久手市)
森長可が戦死した場所に建てられた塚です。
長久手古戦場公園の西側にあり、国指定史跡となっています。
明和年間に建てられた碑と、明治31年に森家の子孫が建てた碑の2つが残っています。
可成寺(岐阜県可児市)
森家の菩提寺で、森長可の墓があります。
父の可成や弟の蘭丸の供養塔も並んでいます。
金山城跡(岐阜県可児市)
長可が城主を務めた山城の跡です。
標高約277mの古城山山頂に築かれ、現在は城跡として整備されています。
続日本100名城にも選定されています。
創作作品での森長可
森長可は、その強烈なキャラクターから、現代の創作作品でも人気があります。
大河ドラマ
- 『真田丸』(2016年、NHK):谷田歩
- 『どうする家康』(2023年、NHK):城田優
ゲーム
- 『信長の野望』シリーズ:武勇に優れた武将として登場
- 『Fate/Grand Order』:バーサーカークラスのサーヴァントとして実装
まとめ
森長可は、戦国時代を代表する猛将のひとりです。
- 13歳で家督を継ぎ、15歳の初陣で27人を討ち取る
- 「人間無骨」の槍を振るい、「鬼武蔵」と恐れられた
- 甲州征伐で大功を挙げ、20万石の大名に出世
- 本能寺の変後、人質を盾に決死の脱出に成功
- 小牧・長久手の戦いで、わずか27歳の生涯を閉じた
- 遺言状には「娘を武士の妻にするな」という家族への深い愛情が
戦場では鬼のように戦いながら、家族や家臣には深い情を見せた森長可。
その短くも激烈な生涯は、戦国時代という時代の厳しさと、そこに生きた人間の姿を今に伝えています。


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