「府中三人衆」って聞いたことありますか?
戦国時代、織田信長が越前国(現在の福井県)の支配を任せた3人の武将のことなんです。
実はこの3人、後に日本の歴史を大きく動かすことになる重要人物ばかり。
加賀百万石の祖となった前田利家もその一人なんですよ。
この記事では、府中三人衆の正体と彼らが果たした役割について、わかりやすく解説していきます。
府中三人衆とは?
府中三人衆(ふちゅうさんにんしゅう)は、不破光治(ふわ みつはる)、佐々成政(さっさ なりまさ)、前田利家(まえだ としいえ)の3人を指す呼び方です。
天正3年(1575年)、織田信長が越前国を平定した後、柴田勝家の与力(補佐役)として府中周辺の2郡を治めることになりました。
総石高は約10万石で、3人で収入を分け合う「相給」という形式だったんです。
面白いのは、「府中三人衆」という呼び方が後世の創作だと長い間考えられていたこと。
でも実際には、天正4年(1576年)の書状に「府中三人衆」という記述が見つかって、当時から使われていた呼称だったことがわかったんですね。
なぜ3人が選ばれたのか?
越前国は一向一揆の勢力が強く、非常に治めにくい地域でした。
信長はこの地を安定させるため、信頼できる武将を送り込む必要があったんです。
選ばれたのは柴田勝家の「目付役」(監督役)として、3人で協力して統治にあたる方式。
実は信長、勝家に全権を任せるのではなく、3人衆に監視させることで権力の集中を防いでいたとも言われています。
賢いですよね。
一人に任せると裏切られるリスクがあるけど、3人で相互に監視させれば安心ってわけです。
府中三人衆のメンバー紹介
不破光治(ふわ みつはる)
居城は龍門寺城。
もともとは美濃国の斎藤氏に仕えていた武将で、「西美濃四人衆」の一人としても知られています。
他の3人(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)が早々に織田信長に寝返ったのに対し、光治は最後まで斎藤氏への忠義を貫いたと言われているんです。
その後、斎藤氏滅亡後に織田家に仕え、主に外交面で活躍しました。
天正8年(1580年)に死去。
3人の中では最も早く亡くなったため、その後の活躍を見ることはできませんでした。
佐々成政(さっさ なりまさ)
居城は小丸城。
織田信長の親衛隊である「黒母衣衆」(くろほろしゅう)のリーダーを務めていた猛将です。
府中三人衆の後、天正8年(1580年)に越中国(現在の富山県)の平定を任され、翌年には越中一国を支配する大名に出世しました。
ただし、本能寺の変の後は柴田勝家側に付いたため、豊臣秀吉との対立が決定的に。
最終的には秀吉に降伏し、肥後国(現在の熊本県)に転封されますが、一揆の鎮圧に失敗して切腹を命じられることになります。
前田利家(まえだ としいえ)
居城は府中城(越府城)。
「槍の又左」(やりのまたざ)の異名で知られる槍の名手です。
3人の中で最も大出世したのが利家。
天正9年(1581年)に能登国23万石を与えられ、その後加賀国も手に入れて、最終的には加賀百万石の礎を築きました。
本能寺の変後、当初は柴田勝家側でしたが、賤ヶ岳の戦いで豊臣秀吉に寝返ったことで生き延びることに成功。
秀吉の死後は豊臣政権の五大老の一人として、秀頼の後見人を務めた重鎮です。
府中三人衆の活動
共同統治の実態
府中三人衆は当初、所領を分けずに収入だけを分配する「相給知行」という形式を取っていました。
発給文書も3人の連署(連名)で行われていたんです。
つまり、何をするにも3人で相談して決めていたってこと。
単独では勝手なことができない仕組みになっていたわけですね。
各地への出陣
府中三人衆は越前の統治だけでなく、織田軍の遊撃部隊としても活躍しました。
上杉氏との戦いはもちろん、石山合戦、播磨国平定、荒木村重征伐など、畿内の戦いにも何度も呼び出されています。
北陸と京都を行ったり来たりの忙しい日々だったみたいですね。
所領割りと独立
天正4年(1576年)5月から7月の間に、ついに所領割りが行われました。
これにより3人はそれぞれ独自の所領と家臣団を持つようになり、連署の文書も見られなくなります。
前田利家の所領:丹生郡大井村、今立郡真柄村、南条郡杣山など
佐々成政の所領:丹生郡織田平等村、今立郡大滝村・岩本村など
不破光治の所領:詳細不明
この所領割りが、3人がそれぞれ別の道を歩み始めるターニングポイントだったんです。
その後の展開
府中三人衆の終焉
天正8年(1580年)、不破光治が死去。
同じ年、佐々成政は越中国の支配を任されます。
天正9年(1581年)、前田利家は能登国一国を与えられました。
これにより、「府中三人衆」としての活動は実質的に終了。
わずか5〜6年の短い期間でしたが、越前の安定化には大きく貢献したんです。
本能寺の変後の分裂
天正10年(1582年)、本能寺の変が発生。
織田信長の死後、府中三人衆の元メンバーたちは運命が分かれることになります。
清洲会議での対立
柴田勝家 vs 豊臣秀吉の対立が表面化すると、佐々成政は勝家側に、前田利家も当初は勝家側に付きました。
賤ヶ岳の戦い(1583年)
ところが戦いの最中、前田利家が突然戦線を離脱。
結果的に柴田勝家の敗北を招き、秀吉側に寝返りました。
末森城の戦い(1584年)
今度は元同僚同士が敵として激突。
佐々成政が前田利家の末森城を攻めますが、利家の援軍により撃退されます。
かつての仲間が敵味方に分かれて戦う――
戦国時代の非情さを象徴するエピソードですね。
現代への影響
ドラマや小説での描写
府中三人衆、特に前田利家は大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002年)で大きく取り上げられました。
この作品では3人の友情と対立が丁寧に描かれています。
ゲームでの登場
『信長の野望』シリーズでは3人とも必ず登場します。
不破光治の能力値が低いことで子孫からクレームが入った、という都市伝説まであるとか(笑)
加賀百万石の礎
前田利家が築いた加賀藩は、江戸時代を通じて「加賀百万石」として繁栄。
その始まりが府中三人衆時代だったんですね。
現在の金沢市の文化的な豊かさは、前田家の統治の名残と言えるでしょう。
府中三人衆データ一覧
| 名前 | 読み方 | 居城 | その後の所領 | 最期 | 特徴 |
|---|---|---|---|---|---|
| 不破光治 | ふわ みつはる | 龍門寺城 | – | 天正8年(1580年)死去 | 外交に長けた武将。西美濃四人衆の一人 |
| 佐々成政 | さっさ なりまさ | 小丸城 | 越中国一国 | 天正16年(1588年)切腹 | 黒母衣衆のリーダー。猛将として知られる |
| 前田利家 | まえだ としいえ | 府中城 | 能登国→加賀国 | 慶長4年(1599年)病死 | 槍の名手。加賀百万石の祖 |
まとめ
府中三人衆についてのポイントをまとめます。
- 不破光治・佐々成政・前田利家の3人が府中三人衆と呼ばれた
- 天正3年(1575年)に織田信長によって越前府中周辺の統治を任された
- 柴田勝家の目付役として、相互監視しながら共同統治を行った
- 天正4年(1576年)に所領割りが行われ、それぞれ独立した
- 天正8年(1580年)前後に3人がそれぞれ別の道へ進み、府中三人衆は終焉
- 本能寺の変後、前田利家と佐々成政は敵味方に分かれて戦うことに
- 前田利家は最終的に加賀百万石の礎を築き、大大名となった
わずか5〜6年という短い期間でしたが、越前国の安定化に貢献した府中三人衆。
彼らの活躍が、その後の北陸の歴史を大きく形作ることになったんです。
特に前田利家の大出世は、「府中三人衆」という小さな始まりから、いかに大きな飛躍が可能かを示していますね。
参考情報
この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました:
- Wikipedia「府中三人衆」
- Wikipedia「前田利家」
- Wikipedia「佐々成政」
- Wikipedia「不破光治」
- コトバンク「府中三人衆」
- 越前市公式サイト「越前市の歴史」
- 福井河川国道事務所「ふくいの川」
- English Wikipedia: Fuwa Mitsuharu, Sassa Narimasa, Maeda Toshiie
さらに詳しく知りたい方へ:
- 大河ドラマ『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002年)
- 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第二版』吉川弘文館(2010年)
- 太田牛一『信長公記』


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