織田信長とは?戦国の革命児が成し遂げた偉業と本能寺の変の真実

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「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
この有名な句で表現される武将、織田信長。

戦国時代という乱世で「天下布武」を掲げ、日本統一の礎を築いた人物です。
若い頃は「尾張の大うつけ」と呼ばれ、周囲から変人扱いされていた信長。
そんな彼がなぜ、天下統一目前まで駆け上がることができたのでしょうか?

この記事では、織田信長の生涯と功績、そして今なお謎に包まれた本能寺の変について、わかりやすく解説していきます。

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織田信長の基本情報

織田信長は1534年(天文3年)、尾張国(現在の愛知県西部)で生まれました。
父は尾張の有力な戦国大名・織田信秀。幼名は「吉法師(きっぽうし)」といいます。

信長は徳川家康、豊臣秀吉とともに「戦国三英傑」と称されています。
実はこの三人、信長を起点としてつながっているんです。
家康は信長の同盟者、秀吉は信長の家臣。
三人の関係は、こんな言葉で表現されています。

「信長が餅をつき、秀吉がこね、家康が座って食う」

つまり、信長が天下統一の土台を作り、秀吉が形を整え、最終的に家康が完成させたというわけです。

項目内容
生年月日1534年(天文3年)6月23日
没年月日1582年(天正10年)6月21日(享年48歳)
出身地尾張国(現・愛知県西部)
幼名吉法師(きっぽうし)
織田信秀
土田御前(どたごぜん)
正室濃姫(帰蝶)/斎藤道三の娘
戒名総見院殿贈大相国一品泰巌大居士

「尾張の大うつけ」と呼ばれた若き日

信長の若い頃は、とにかく「変人」でした。
当時の武家社会の常識を完全に無視した行動が目立ちます。

町人風の派手な服装で城下を練り歩き、悪友たちと悪ふざけに興じる毎日。
髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)という奇抜なスタイル。
腰には瓢箪や袋をぶら下げ、柿や餅を歩きながら食べていたとか。

『信長公記』には、こうした「見苦しい振る舞い」が記録されています。
周囲からは「尾張の大うつけ(大バカ者)」と呼ばれ、家臣たちも呆れ果てていました。

しかし、これは単なる奇行ではありませんでした。
「形式よりも中身を重視する」という信長の哲学の表れだったとも考えられています。
実際、信長の教育係であった平手政秀は、信長の奇行を戒めるために自害。
信長は深く悲しみ、政秀を弔うため政秀寺を建立しています。

信長を天下人に押し上げた主な戦い

桶狭間の戦い(1560年)

信長の名を全国に轟かせた伝説の戦いです。

当時、「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元が、25,000もの大軍で尾張に侵攻してきました。
対する信長の軍勢は、わずか2,000〜4,000程度。
兵力差は圧倒的でした。

出陣前、信長は「敦盛(あつもり)」を舞ったとされています。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」

人生など儚いもの、死を恐れずに全力で戦おう——そんな決意を込めた舞でした。

信長は奇襲作戦を決行。
豪雨の中、今川本陣を急襲し、義元の首を討ち取ることに成功します。
これが「桶狭間の戦い」です。

圧倒的不利な状況をひっくり返したこの勝利で、信長は一躍、天下取りの有力候補となりました。

長篠の戦い(1575年)

武田騎馬軍団を壊滅させた歴史的な戦いです。

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が、15,000の軍で三河国の長篠城を包囲。
信長は徳川家康と連合し、約38,000の軍勢で救援に向かいます。

この戦いで信長は、革新的な戦術を採用しました。
約2kmにも及ぶ馬防柵を築き、大量の鉄砲隊を配置したのです。
鉄砲の数は約3,000挺ともいわれています。

かつては「三段撃ち」という戦法が有名でしたが、近年の研究では、一次史料である『信長公記』に三段撃ちの記述がないことから、この戦法の存在自体が疑問視されています。
ただし、大量の鉄砲を効果的に使用したことは確かで、この戦いは日本の戦争史における転換点となりました。

戦国最強と謳われた武田騎馬隊は壊滅。
多くの名将が討ち死にし、武田氏はこの敗北をきっかけに衰退へと向かいます。

信長が行った革新的な政策

楽市楽座

信長の経済政策として最も有名なのが「楽市楽座」です。

当時の商売には、「座」という同業者組合への加入が必須でした。
座に属さないと商売ができず、さらに税金も取られる。
新規参入のハードルが非常に高かったんです。

信長はこの制約を撤廃しました。

1577年、安土城下に発布した「安土山下町中掟書」では、誰でも自由に商売できる「楽市」を宣言。
座の特権を廃止する「楽座」も実施しました。

ただし、楽市楽座は信長が最初に始めたわけではありません。
最も古い事例は、近江の六角定頼が1549年に出した楽市令とされています。
信長は先人の政策を参考にしつつ、より大規模かつ徹底的に実施したのです。

この政策により、安土の城下町は大いに賑わい、人口6,000人を誇る大都市に成長しました。

関所の撤廃

信長は領国内の関所をすべて廃止しました。

当時、各地の関所では通行税が徴収されており、物流の大きな妨げになっていました。
関所の収入は寺社や貴族の重要な財源でもあったのです。

信長は既得権益者の反発を承知の上で、関所を撤廃。
人や物の流れを活発化させ、経済の発展を促しました。
同時に、迅速な軍事行動も可能になるという軍事的メリットもありました。

安土城の築城

1576年、信長は琵琶湖畔に安土城の築城を開始。
1579年に完成したこの城は、日本の城郭建築を革命的に変えました。

それまでの城は、戦闘や領国支配のための軍事施設という意味合いが強かったんです。
しかし安土城は、「権力の象徴」としての城でした。

特筆すべきは「天主(天守)」の存在。
私たちが「お城」と聞いてイメージする、あの立派な天守閣の原型がここで生まれたのです。
高さ約32メートル、5層7階建ての壮大な建築物で、内部には金箔や極彩色の障壁画が施されていました。

残念ながら安土城は、本能寺の変の後に焼失。
現存していませんが、日本の城郭史において画期的な存在であったことは間違いありません。

本能寺の変——天下統一目前の悲劇

事件の経緯

1582年(天正10年)6月2日早朝、歴史を変える大事件が起こります。

当時、信長は天下統一目前でした。
3月には宿敵・武田勝頼を滅ぼし、68ヵ国中30ヵ国を支配下に置いていました。
残るは中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の諸大名、そして越後の上杉氏のみ。

5月29日、信長は小姓衆わずか30〜100人ほどを連れて京都に上洛。
本能寺に宿泊します。
中国地方で毛利氏と戦っている羽柴秀吉の援軍に向かう途中でした。

ところが、援軍の先陣を命じられていた明智光秀が、突如として謀反を起こします。
光秀は13,000の軍勢を率いて本能寺を包囲。

包囲されたことを悟った信長は、自ら弓や槍を取って戦いましたが、多勢に無勢。
最期は寺に火を放ち、自害して果てました。享年48歳。

近くの妙覚寺に宿泊していた嫡男・織田信忠も、同日中に討たれています。

光秀はなぜ謀反を起こしたのか?

本能寺の変の最大の謎は、光秀の動機です。

明智光秀は、織田家随一の重臣でした。
丹波平定の功績で信長から「天下に面目をほどこした」と絶賛され、34万石の大領主となっていた人物です。
なぜ、そんな光秀が主君を裏切ったのか?

これについては定説がなく、現在も様々な説が議論されています。

主な動機説:

内容
怨恨説信長からの暴言・暴力、面目を潰されたことへの恨み
野望説天下取りへの野心
黒幕説朝廷、足利義昭、羽柴秀吉などが背後で糸を引いていた
四国政策説長宗我部氏との取次役としての面目を潰された
突発説千載一遇のチャンスに衝動的に行動した

2017年には、光秀が本能寺の変後に書いた書状が発見され、足利義昭の入京を期待していたことが読み取れる可能性も指摘されています。
しかし、決定的な証拠は見つかっておらず、本能寺の変は今なお日本史最大のミステリーのひとつです。

その後の展開

光秀の「天下」は、わずか11日で終わりました。

中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉は、信長の死を知るとすぐに和睦。
「中国大返し」と呼ばれる驚異的なスピードで京都へ引き返し、6月13日の山崎の戦いで光秀を破りました。

光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖(おぐるす)で落武者狩りに遭い、命を落としたとされています。

このことから、光秀は「三日天下」という言葉の由来となりました。
その後、信長の遺志は秀吉に引き継がれ、1590年に天下統一が達成されることになります。

織田信長の人物像

革新的な思考

信長の最大の特徴は、その革新性です。

鉄砲の大量導入、楽市楽座、関所の撤廃、天守閣を持つ城の建築——。
これらはすべて、当時の常識を覆すものでした。

また、キリスト教にも寛容で、宣教師ルイス・フロイスとも交流がありました。
西洋文化への関心も高く、ヨーロッパからの武器や美術品を収集していたとされています。

残虐な一面

一方で、信長には残虐な一面もありました。

1571年の比叡山焼き討ちでは、数千人の僧侶や一般人を殺害したとされています。
長島一向一揆の鎮圧では、男女1,000人以上を捕らえて処刑したという記録もあります。

「身内といえども、逆らう者は容赦しない」
弟の信行を謀殺したエピソードは、その非情さを象徴しています。

ただし、こうした行為は当時の戦国大名としては珍しくないものでした。
信長が特に残虐だったというよりも、その規模の大きさゆえに目立っている側面もあります。

ルイス・フロイスが見た信長

イエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、信長と直接会見した数少ない外国人のひとりです。
彼の記録によると、信長は以下のような人物だったといいます。

「中くらいの背丈で、痩せており、髭は少なかった」
「声は甲高く、武芸を好んだ」
「正義と慈悲を好み、傲慢で、名誉を重んじた」
「自分を神のように崇拝させようとしていた」

最後の点については疑問視する研究者もいますが、信長が自己の権威を非常に重視していたことは確かでしょう。

織田信長 略年表

年(西暦)年齢出来事
1534年0歳尾張国で誕生。幼名・吉法師
1546年13歳元服し、織田三郎信長と名乗る
1548年15歳斎藤道三の娘・濃姫と結婚
1551年18歳父・信秀の死去により家督を継ぐ
1553年20歳聖徳寺で斎藤道三と会見
1560年27歳桶狭間の戦いで今川義元を討つ
1562年29歳徳川家康と清洲同盟を結ぶ
1567年34歳美濃平定、稲葉山城を岐阜城と改名。「天下布武」を掲げる
1568年35歳足利義昭を奉じて上洛
1571年38歳比叡山延暦寺を焼き討ち
1573年40歳足利義昭を追放、室町幕府滅亡
1575年42歳長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576年43歳安土城の築城を開始
1577年44歳安土城下に楽市楽座令を発布
1580年47歳石山本願寺との10年戦争に勝利
1582年48歳武田氏を滅ぼす。本能寺の変で死去

参考情報

この記事の作成にあたり、以下の情報源を参照しました:

  • 『信長公記』(太田牛一著)— 信長の一代記として最も信頼できる一次史料
  • Wikipedia「織田信長」「本能寺の変」「長篠の戦い」「楽市・楽座」
  • Britannica「Oda Nobunaga」
  • World History Encyclopedia「Oda Nobunaga」
  • 『日本大百科全書』(小学館)
  • 『国史大辞典』(吉川弘文館)

さらに詳しく知りたい方へ:

  • 『織田信長 ——戦国の世をかけぬけた武将——』(学習まんが)
  • 『明智光秀と本能寺の変』(藤田達生著)
  • 滋賀県立安土城考古博物館(信長の安土城に関する展示)

まとめ

織田信長の生涯をまとめると、以下のポイントが挙げられます。

  • 1534年に尾張国で生まれ、「大うつけ」と呼ばれながらも頭角を現した
  • 桶狭間の戦い(1560年)で今川義元を破り、天下取りへの道を歩み始めた
  • 長篠の戦い(1575年)で大量の鉄砲を用いて武田軍を壊滅させた
  • 楽市楽座や関所の撤廃など、革新的な経済政策を実施した
  • 安土城を築き、日本の城郭建築に革命をもたらした
  • 1582年、本能寺の変で明智光秀の謀反により48歳で死去
  • 光秀の謀反の動機は今なお日本史最大のミステリーのひとつ

天下統一目前で倒れた信長ですが、彼が築いた基盤は秀吉、家康へと受け継がれ、最終的に260年以上続く江戸幕府の礎となりました。

革新と残虐、合理性と苛烈さ——。
矛盾する要素を併せ持つ織田信長は、400年以上経った今でも、多くの人々を魅了し続けています。

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