アンドレアス・ヴェサリウスとは?近代解剖学の父と呼ばれた男の革命的な偉業

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アンドレアス・ヴェサリウスとは

墓地で死体を盗み、絞首台から遺体を引きずり降ろす——そんな恐ろしい行為を繰り返した男がいました。
彼の名はアンドレアス・ヴェサリウス。16世紀に活躍した解剖学者です。

ヴェサリウスは1514年にブリュッセル(現在のベルギー)で生まれ、1564年にギリシャのザキントス島で49歳の若さで亡くなりました。
わずか半世紀の人生でしたが、彼が残した功績は医学の歴史を根本から変えたと言っても過言ではありません。

「近代解剖学の父」と呼ばれるヴェサリウス。
彼は一体何をしたのでしょうか?

この記事では、ヴェサリウスの生涯と、彼がもたらした医学革命についてわかりやすく解説します。

医師の家系に生まれた好奇心の塊

ヴェサリウスは代々医師や薬剤師の家系に生まれました。
祖父は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の侍医、父はその薬剤師という名門です。

幼い頃から人体の構造に強い関心を持っていたヴェサリウス。
小動物を解剖したり、処刑場に足を運んで遺体を観察したりと、少年時代から只者ではない片鱗を見せていました。

1528年、14歳でルーヴァン大学に入学。
1533年には医学を学ぶためパリ大学へ移りました。

しかし、そこでヴェサリウスは大きな失望を味わいます。

ガレノスの解剖学への疑問

当時の医学界では、古代ローマの医師ガレノス(129年頃〜200年頃)の著作が絶対的な権威でした。
ガレノスの解剖学は1300年以上にわたって医学教育の基礎とされ、誰もその内容を疑うことはありませんでした。

ところが、パリ大学の解剖学の講義は期待外れでした。
教授は壇上から古い教科書を読み上げるだけ。実際の解剖は床屋や外科手術技能者が形式的に行うのみ。
しかも、人体解剖の実習はわずか年に2〜3回しか行われませんでした。

「これじゃ何もわからない!」

不満を募らせたヴェサリウスは、自ら積極的に解剖に関わるようになります。
パリの墓地で遺体から骨を採取し、触っただけで骨の種類を識別できるまで研究を重ねました。

遺体を求めて墓地と絞首台を駆け巡る

1536年、神聖ローマ帝国とフランスの戦争が勃発。
ヴェサリウスはパリを離れ、翌1537年にイタリアのパドヴァ大学で博士号を取得しました。

驚くべきことに、ヴェサリウスは博士号取得の翌日、22歳という若さでパドヴァ大学の外科学・解剖学教授に任命されます。
当時、外科や解剖学は医学の中でも低い地位にあり、給料も安かったため、若手でも教授になれたのです。

教授となったヴェサリウスは、従来の解剖教育を根本から変えました。
これまでは教授が壇上から指示し、別の人間が解剖を行うのが常識でしたが、ヴェサリウスは自らメスを握り、学生たちの目の前で解剖を実演したのです。

実物を見せながら説明するこの斬新な教授法は大人気となり、ヴェサリウスの講義には多くの学生が詰めかけました。

しかし、問題がありました。
解剖に使う遺体が圧倒的に不足していたのです。

ヴェサリウスはあらゆる手段を使って遺体を入手しました。
墓地から埋葬されたばかりの遺体を掘り起こしたり、絞首台から処刑された犯罪者の遺体を引きずり降ろしたり。
時には処刑場の役人と結託して遺体を盗み出すこともあったと言われています。

幸いなことに、1539年にパドヴァの裁判官がヴェサリウスの研究に興味を持ち、処刑された犯罪者の遺体を正式に提供してくれるようになりました。

28歳の大著『ファブリカ』の衝撃

遺体の解剖を重ねるうち、ヴェサリウスはあることに気づきました。
ガレノスの解剖学の記述と、実際の人体の構造が一致しないのです。

調べてみると、その理由が判明しました。
ガレノスは人体を解剖していなかったのです!

古代ローマでは宗教的な理由から人体解剖が禁止されていたため、ガレノスは犬や猿などの動物を解剖し、それを人体に当てはめて記述していたのでした。

「これは正さなければならない」

ヴェサリウスは決意を固めました。

1543年、ヴェサリウスはわずか28歳で大著『人体の構造に関する七つの書』(通称『ファブリカ』)を出版します。
この本は全7巻、700ページ以上、200葉以上の精緻な解剖図を収録した豪華本でした。

『ファブリカ』の出版には、ヴェサリウスの並々ならぬこだわりがありました。
彼は当時最高の技術を持つ印刷業者を求めて、木版をロバの背中にくくりつけてアルプス山脈を越え、スイスのバーゼルまで運びました。
そして出版が完成するまでバーゼルに滞在し、細部まで指示を出したのです。

『ファブリカ』の挿絵は芸術的な美しさと科学的な正確性を兼ね備えていました。
これらの挿絵はティツィアーノの弟子と言われる画家ヤン・ヴァン・カルカールが描いたとされています。
ルネサンス期の芸術家たちは人体の写実的な表現のために解剖学を学んでおり、レオナルド・ダ・ヴィンチも数多くの解剖図を残していました。

興味深いことに、『ファブリカ』が出版された1543年は、コペルニクスが『天球の回転について』を出版して地動説を発表した年でもあります。
まさに科学がキリスト教の権威から解放され始めた記念すべき年だったのです。

ガレノスの誤りを200箇所以上も訂正

『ファブリカ』でヴェサリウスが指摘したガレノスの誤りは約200〜300箇所にも及びました。

例えば:

  • 胸骨:ガレノスは7つの骨からなるとしたが、実際は3つ
  • 肝臓:ガレノスは5葉に分かれているとしたが、実際は1塊(厳密には2葉だが動物ほど明確ではない)
  • 下顎骨:ガレノスは2つの骨が結合しているとしたが、実際は1つの骨
  • 肋骨の数:「男性は女性より肋骨が1本少ない」という聖書に基づく説を否定し、男女で同じであることを証明
  • 血管の起源:ガレノスは肝臓としたが、実際は心臓であることを示した

これらの指摘は医学界に激震をもたらしました。
1300年以上信じられてきたガレノスの権威が揺らいだのですから。

ヴェサリウスの師であったパリ大学のシルヴィウス(ヤコブ・デュボワ)は激怒し、ヴェサリウスを「狂気のヴェサリウス」と罵倒する書物まで出版しました。
また、「男性の肋骨の数が女性と同じ」という指摘は聖書の記述に反するとして、教会からも反発を受けました。

しかし、時間が経つにつれ、ヴェサリウスの解剖学が正しいことが明らかになっていきました。
『ファブリカ』は発売直後から好評を博し、品切れが続出。海賊版まで登場する人気ぶりでした。

皇帝の侍医、そして謎の死

『ファブリカ』出版の翌年、1544年にヴェサリウスは大学を辞し、神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷侍医となりました。
わずか29歳でした。

その後、カール5世の息子であるスペイン王フェリペ2世にも仕えました。
宮廷侍医としてヴェサリウスは臨床医療にも貢献し、1559年にはフランス王アンリ2世の治療にも立ち会っています。

1564年、ヴェサリウスはエルサレムへの巡礼の旅に出ました。
その帰路、ギリシャのザキントス島で病に倒れ、同年10月15日に49歳で亡くなりました。

彼の死については謎が多く、一説には異端審問を逃れるための巡礼だったとも言われていますが、真相は明らかになっていません。

現代医学への影響

ヴェサリウスがもたらした最大の革命は、「自分の目で確かめる」という科学的な姿勢を医学に持ち込んだことでした。

それまでの医学は、古典的な文献の権威に頼るだけのものでした。
しかしヴェサリウスは、「書物よりも実物」という姿勢を貫き、観察と実験に基づく近代科学の基礎を築いたのです。

『ファブリカ』の精緻な解剖図は、その後の医学書や芸術に大きな影響を与えました。
現代でも医学生が学ぶ解剖学の教科書には、ヴェサリウスの図が引用されることがあります。

また、ヴェサリウスの研究は比較解剖学の発展にもつながりました。
彼は人間と動物の解剖学的な違いを明確にし、それが後に進化論の基礎となる知識の蓄積に貢献したのです。

かつてベルギーで発行されていた5000フラン紙幣には、ヴェサリウスの肖像が使用されていました。
母国ベルギーが彼を誇りに思っていることの証です。

まとめ

アンドレアス・ヴェサリウスは16世紀の解剖学者で、近代解剖学の父と呼ばれています。
主なポイントをまとめると:

  • 1514年ブリュッセル生まれ、1564年ザキントス島で死去(享年49歳)
  • パドヴァ大学で22歳という若さで外科学・解剖学の教授となる
  • 自ら解剖を実演する革新的な教育方法を導入
  • 遺体を入手するため墓地や絞首台から遺体を調達
  • 1543年、28歳で大著『ファブリカ』を出版
  • ガレノスの解剖学の誤りを約200〜300箇所も訂正
  • 観察と実験に基づく近代科学の姿勢を医学に持ち込んだ
  • 神聖ローマ皇帝カール5世とスペイン王フェリペ2世の侍医を務めた

ヴェサリウスの功績は、単に解剖学の知識を更新しただけではありません。
「権威を盲信せず、自分の目で確かめる」という科学的な姿勢そのものが、彼の最大の遺産なのです。

墓地で死体を盗み、絞首台から遺体を引きずり降ろすという過激な行動も、すべては真実を追求するためでした。
ヴェサリウスの情熱と勇気が、現代医学の礎を築いたと言えるでしょう。

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