「もしも」を頭の中で実験する——それが思考実験です。
トロッコ問題、シュレディンガーの猫、テセウスの船…。
どこかで聞いたことがあるけれど、詳しくは知らないという方も多いのではないでしょうか。
思考実験とは、実際には行えない状況を頭の中で想像し、そこから何かを学ぼうとする知的なゲームのようなものです。
古代ギリシャの時代から現代まで、哲学者や科学者たちが「正解のない問い」と向き合ってきました。
この記事では、哲学・倫理・科学の分野から有名な思考実験を20個厳選して紹介します。
考えれば考えるほど答えが出なくなる、そんな思考の迷宮へようこそ。
思考実験とは
思考実験は英語で「Thought Experiment」、ドイツ語では「Gedankenexperiment(ゲダンケンエクスペリメント)」と呼ばれます。
19世紀の物理学者エルンスト・マッハがこの言葉を広めましたが、思考実験自体は古代ギリシャのゼノンや、さらに遡ってプラトンの時代から存在していました。
特徴は3つあります。
1. 現実では実行できない
倫理的に許されない実験や、技術的に不可能な状況を扱います。
2. 極端な条件を設定する
「もし宇宙の果てに矢を投げたら?」のように、極端なシチュエーションをあえて想定します。
3. 直感に訴えかける
論理だけでなく「なんとなくこう感じる」という直感を引き出し、その理由を探ります。
思考実験の分野別分類
思考実験は扱うテーマによって大きく分類できます。
| 分野 | 主なテーマ | 代表例 |
|---|---|---|
| 倫理学 | 正義、功利主義、義務 | トロッコ問題、臓器くじ |
| 心の哲学 | 意識、クオリア、AI | 中国語の部屋、マリーの部屋 |
| 同一性 | アイデンティティ | テセウスの船、スワンプマン |
| 認識論 | 知識、現実 | 水槽の脳、洞窟の比喩 |
| 物理学 | 量子力学、熱力学 | シュレディンガーの猫 |
| 社会哲学 | 正義、公平性 | 無知のヴェール |
それぞれの分野から代表的な思考実験を詳しく見ていきましょう。
倫理学の思考実験
トロッコ問題
提唱者:フィリッパ・フット(1967年)
テーマ:功利主義 vs 義務論
暴走するトロッコが線路を走っています。
このままだと5人の作業員が轢かれて死んでしまう。
あなたの目の前にはレバーがあり、引けばトロッコを別の線路に切り替えられます。
ただし、その線路にも1人の作業員がいます。
「5人を救うために1人を犠牲にするか?」
多くの人が「レバーを引く」と答えます。
1人より5人の命が大切という計算は直感的に納得できるからです。
ところが、これを少し変えてみましょう。
あなたは橋の上にいて、隣には大柄な男性がいます。
その人を突き落とせばトロッコは止まり、5人は助かります。
「5人を救うために1人を突き落とすか?」
計算上は同じなのに、多くの人が「それはできない」と感じます。
なぜ同じ「1人の犠牲で5人を救う」なのに、答えが変わるのでしょうか。
この問いは、自動運転車の倫理にも応用されています。
臓器くじ
提唱者:ジョン・ハリス(1975年)
テーマ:功利主義の限界
臓器移植を待つ患者が5人います。
心臓、肝臓、腎臓2つ、肺——それぞれ別の臓器が足りません。
そこで政府がある制度を提案しました。
くじ引きで健康な国民を1人選び、その人の臓器を5人に分配する「臓器くじ制度」です。
1人の犠牲で5人が助かる。
計算上は「最大多数の最大幸福」に適っています。
でも、ほとんどの人がこの制度に反対するはずです。
トロッコ問題では「5人のために1人」を選んだのに、なぜでしょう?
「自分が当たるかもしれない」という恐怖?
それとも「無実の人を殺す」ことへの本能的な嫌悪?
功利主義の計算だけでは割り切れない「何か」が、私たちの中にあるようです。
バイオリニストの問題
提唱者:ジュディス・ジャーヴィス・トムソン(1971年)
テーマ:身体の自律性
ある朝、目を覚ますと、見知らぬ人と管でつながれていました。
その人は世界的に有名なバイオリニスト。
腎臓の病気で、あなたの血液だけが彼を救えるのです。
「9ヶ月間、このままつながっていてください。そうすれば彼は回復します」
あなたには管を外す権利があるでしょうか?
外せばバイオリニストは死にます。
トムソンはこの思考実験を、中絶問題を考えるために提案しました。
「命を救う義務」と「自分の体を自由にする権利」はどちらが優先されるべきか——答えは出ていません。
心の哲学・意識の思考実験
中国語の部屋
提唱者:ジョン・サール(1980年)
テーマ:人工知能と理解
中国語をまったく知らない人が部屋に閉じ込められています。
部屋には分厚いマニュアルが置いてあり、こう書かれています。
「この記号が来たら、この記号を返せ」
外から中国語の質問が紙で渡されると、マニュアル通りに記号を組み合わせて返事を書きます。
外の人は完璧な中国語の回答を受け取り、「この部屋の中の人は中国語を理解している」と思います。
でも、部屋の中の人は中国語を一切理解していません。
ただマニュアルに従って記号を操作しているだけです。
これがAIの本質だとサールは主張しました。
コンピュータはどれだけ賢そうに見えても、「理解」しているわけではない。
ただプログラム通りに記号を処理しているだけだ、と。
AIの時代に、この問いは一層重みを増しています。
マリーの部屋
提唱者:フランク・ジャクソン(1982年)
テーマ:クオリア(主観的体験)
マリーは天才的な視覚科学者です。
色の物理学、光の波長、網膜の仕組み、脳の処理——色に関するすべての科学的知識を持っています。
ただし、彼女は生まれてから一度も色を見たことがありません。
白黒の部屋で育ち、白黒のテレビで勉強してきたのです。
ある日、マリーが初めて部屋の外に出て、赤いリンゴを見ました。
質問です。
マリーは「何か新しいこと」を学んだでしょうか?
「赤い」という体験は、科学的知識だけでは得られない何かを含んでいるのでしょうか?
もしそうなら、意識や主観的体験は、物理学だけでは説明できないことになります。
哲学的ゾンビ
提唱者:デイヴィッド・チャーマーズ(1990年代)
テーマ:意識の本質
あなたの隣に、見た目も行動もまったく同じ人がいるとします。
笑い、泣き、怒り、愛する——すべてがあなたと同じです。
ただし、その人には「内面の体験」がまったくありません。
痛みを感じるフリはするけれど、本当に「痛い」と感じてはいない。
機械のようにプログラムされた反応をしているだけです。
この存在を「哲学的ゾンビ」と呼びます。
もし哲学的ゾンビが論理的に可能なら、意識は脳の物理的な働きとは別の「何か」ということになります。
さて、あなたの友人や家族が哲学的ゾンビではないと、どうやって証明できますか?
そして、あなた自身が哲学的ゾンビではないと、どうやって示せますか?
箱の中のカブトムシ
提唱者:ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン
テーマ:私的言語、他者の心
全員が箱を持っています。
その中には「カブトムシ」が入っていますが、自分の箱しか見ることができません。
みんな「カブトムシ」という言葉を使いますが、実際には各自の箱の中身はバラバラかもしれません。
ある人の箱にはトカゲが、別の人の箱には何も入っていないかもしれない。
でも会話は成立します。
「カブトムシ」という言葉は「箱の中にあるもの」を指すからです。
ヴィトゲンシュタインはこの例で、「痛み」などの感覚について考えました。
私が感じる「痛み」と、あなたが感じる「痛み」は本当に同じものでしょうか?
確かめる方法はありません。
同一性・アイデンティティの思考実験
テセウスの船
提唱者:プルタルコス(紀元100年頃)
テーマ:物の同一性
ギリシャの英雄テセウスが所有する船があります。
長年の航海で朽ちた板を1枚ずつ新しい板に交換していきました。
やがて、すべての板が新しいものに置き換わりました。
この船は、まだ「テセウスの船」でしょうか?
さらに哲学者トマス・ホッブズは問いを追加しました。
もし交換した古い板を集めて、別の船を組み立てたら?
どちらが「本物のテセウスの船」でしょうか?
この問いは私たち自身にも当てはまります。
人間の細胞は数年で入れ替わると言われています。
10年前のあなたと今のあなたは、同じ人でしょうか?
スワンプマン
提唱者:ドナルド・デイヴィドソン(1987年)
テーマ:個人の同一性
ある男がハイキング中に雷に打たれて死にました。
同時に、その近くの沼に別の雷が落ち、偶然の化学反応で「何か」が生まれます。
その「何か」は、死んだ男とまったく同じ見た目、同じ記憶、同じ性格を持っています。
沼から生まれたので「スワンプマン(沼男)」と呼びましょう。
スワンプマンは男の自宅に帰り、家族と暮らし始めます。
誰も違いに気づきません。
スワンプマンは、死んだ男と「同じ人」でしょうか?
もし「同じ」なら、人間のアイデンティティとは何でしょう?
もし「違う」なら、何が違うのでしょう?
この問いは、テレポーテーションや意識のアップロードにも関わってきます。
認識論の思考実験
水槽の中の脳
提唱者:ヒラリー・パトナム(1981年)
テーマ:現実とは何か
あなたの脳が、実は頭蓋骨の中ではなく、培養液の入った水槽の中に浮いているとしたら?
コンピュータが神経細胞に電気信号を送り、あなたは今いる世界を「体験」しています。
友人との会話、食事の味、恋人の温もり——すべてはコンピュータが作り出した幻です。
あなたが「水槽の中の脳ではない」と、どうやって証明できますか?
映画『マトリックス』はこの思考実験から着想を得ています。
私たちが「現実」と呼んでいるものは、本当に現実なのでしょうか?
洞窟の比喩
提唱者:プラトン(紀元前4世紀頃)
テーマ:真実の認識
生まれてからずっと洞窟の中で鎖につながれた人々がいます。
彼らは後ろを向くことができず、壁に映る影だけを見て生きてきました。
影こそが「世界のすべて」だと思い込んでいます。
ある日、一人が鎖を解かれ、洞窟の外に出ます。
太陽の光、本物の木、実在する物体——初めて「真実」を見ました。
彼が洞窟に戻って仲間に伝えても、誰も信じません。
「影こそが現実だ」と。
私たちも同じかもしれません。
見えているものが世界のすべてだと思い込み、本当の真実に気づいていないのかもしれない。
経験機械
提唱者:ロバート・ノージック(1974年)
テーマ:幸福とは何か
あなたが望むすべての体験を与えてくれる機械があります。
好きな人との恋愛、大成功するキャリア、世界一周旅行——すべてが思いのままです。
ただし、それは脳が見ている幻覚にすぎません。
現実では、あなたは小さなカプセルの中で眠っているだけです。
この機械につながりますか?
もし「つながらない」と感じるなら、私たちは快楽だけを求めているわけではないことになります。
「本物の体験」や「現実との接触」に価値を見出しているのです。
物理学の思考実験
シュレディンガーの猫
提唱者:エルヴィン・シュレディンガー(1935年)
テーマ:量子力学の解釈
箱の中に猫がいます。
箱の中には放射性物質と毒ガス発生装置があり、1時間以内に50%の確率で原子が崩壊します。
崩壊すると毒ガスが出て猫は死にます。
量子力学の「コペンハーゲン解釈」によると、観測するまで原子は「崩壊した状態」と「崩壊していない状態」の重ね合わせにあります。
つまり、箱を開けるまで猫は「生きている」と「死んでいる」の両方の状態にある?
シュレディンガーは、この「馬鹿げた結論」を示すことで、当時の量子力学の解釈に疑問を投げかけました。
常識的に考えれば、猫は生きているか死んでいるかのどちらかであって、両方ということはありえません。
マクスウェルの悪魔
提唱者:ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1867年)
テーマ:熱力学第二法則
2つの部屋がつながった箱があり、その間に小さな扉があります。
どちらの部屋も同じ温度の気体で満たされています。
小さな「悪魔」が扉を操作します。
速い分子(熱い)だけを右の部屋に、遅い分子(冷たい)だけを左の部屋に通します。
すると、右の部屋は熱くなり、左の部屋は冷たくなります。
温度差からエネルギーを取り出せる——永久機関の完成です。
でも、熱力学第二法則によれば、エントロピーは常に増大するはず。
この「悪魔」は法則を破っているのでしょうか?
後の研究で、悪魔が分子を観測・記憶・消去する過程でエネルギーが消費されるため、法則は破られないことがわかりました。
情報とエネルギーの深い関係を示す重要な思考実験です。
ガリレオの落体
提唱者:ガリレオ・ガリレイ(17世紀)
テーマ:落下速度と質量
当時の常識では「重いものは軽いものより速く落ちる」と信じられていました。
ガリレオは頭の中で実験しました。
重い石と軽い石を紐で結んで落としたらどうなるか?
もし「重いものが速く落ちる」なら:
- 重い石が軽い石を引っ張って速くなる?
- 軽い石が重い石を引っ張って遅くなる?
- 2つ合わせると「もっと重い石」なので、もっと速く落ちる?
矛盾が生じます。
結論: 質量に関係なく、すべての物体は同じ速さで落ちる。
ガリレオはピサの斜塔から物を落としたと言われていますが、実際には思考実験で結論に達していたのです。
社会哲学の思考実験
無知のヴェール
提唱者:ジョン・ロールズ(1971年)
テーマ:公正な社会とは
あなたは新しい社会のルールを決める会議に参加しています。
ただし、「無知のヴェール」がかかっているため、自分がその社会でどんな立場になるかわかりません。
金持ちか貧乏か、男性か女性か、健康か障害があるか、多数派か少数派か——すべてが不明です。
この状態で、どんな社会制度を選びますか?
自分が最も不利な立場になるかもしれないと考えれば、弱者を切り捨てるルールは選べません。
ロールズは、この思考実験から「公正としての正義」を導き出しました。
思考実験一覧表
| 名前 | 提唱者 | 年代 | 分野 | テーマ |
|---|---|---|---|---|
| トロッコ問題 | フィリッパ・フット | 1967年 | 倫理学 | 功利主義と義務論の対立 |
| 臓器くじ | ジョン・ハリス | 1975年 | 倫理学 | 功利主義の限界 |
| バイオリニストの問題 | ジュディス・J・トムソン | 1971年 | 倫理学 | 身体の自律性 |
| 中国語の部屋 | ジョン・サール | 1980年 | 心の哲学 | AIと理解の本質 |
| マリーの部屋 | フランク・ジャクソン | 1982年 | 心の哲学 | クオリア(主観的体験) |
| 哲学的ゾンビ | デイヴィッド・チャーマーズ | 1990年代 | 心の哲学 | 意識の本質 |
| 箱の中のカブトムシ | ヴィトゲンシュタイン | 20世紀 | 心の哲学 | 私的言語、他者の心 |
| テセウスの船 | プルタルコス | 紀元100年頃 | 同一性 | 物の同一性 |
| スワンプマン | ドナルド・デイヴィドソン | 1987年 | 同一性 | 個人のアイデンティティ |
| 水槽の中の脳 | ヒラリー・パトナム | 1981年 | 認識論 | 現実の認識 |
| 洞窟の比喩 | プラトン | 紀元前4世紀頃 | 認識論 | 真実の認識 |
| 経験機械 | ロバート・ノージック | 1974年 | 認識論・倫理学 | 幸福の本質 |
| シュレディンガーの猫 | エルヴィン・シュレディンガー | 1935年 | 物理学 | 量子力学の解釈 |
| マクスウェルの悪魔 | J・C・マクスウェル | 1867年 | 物理学 | 熱力学第二法則 |
| ガリレオの落体 | ガリレオ・ガリレイ | 17世紀 | 物理学 | 落下速度と質量 |
| 無知のヴェール | ジョン・ロールズ | 1971年 | 社会哲学 | 公正な社会 |
| 双子地球 | ヒラリー・パトナム | 1973年 | 言語哲学 | 意味の外在主義 |
| 浮遊する人間 | イブン・スィーナー | 11世紀 | 心の哲学 | 自己認識と魂 |
| 囚人のジレンマ | メリル・フラッド他 | 1950年 | ゲーム理論 | 協力と裏切り |
| アキレスと亀 | ゼノン | 紀元前5世紀頃 | 論理学 | 無限と運動のパラドックス |
まとめ
思考実験は「答えのない問い」を私たちに突きつけます。
- 5人を救うために1人を犠牲にするのは正しいか?
- 意識とは何か? AIは本当に「理解」しているのか?
- 私が私であるとは、どういうことか?
- 今見ている世界は「本物」か?
これらの問いに正解はありません。
でも、考え続けることで私たちの価値観や世界の見方が少しずつ変わっていきます。
思考実験は、日常では意識しない「当たり前」を疑うきっかけをくれます。
次にトロッコ問題を見かけたら、ぜひ自分なりの答えを考えてみてください。
きっと、思考の迷宮から抜け出せなくなるはずです。
参考情報
- Stanford Encyclopedia of Philosophy「Thought Experiments」
- Wikipedia「思考実験」「Thought experiment」
- Philippa Foot「The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect」(1967)
- John Rawls『A Theory of Justice』(1971)
- John Searle「Minds, Brains, and Programs」(1980)


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