「黄金の王冠は被らない」——そう言って、エルサレムの王位を辞退した騎士がいました。
キリストが荊の冠をかぶせられた聖地で、自分が黄金の冠を被るのは畏れ多いというのがその理由です。
この記事では、第1回十字軍の英雄であり、中世ヨーロッパで「理想の騎士」として讃えられたゴドフロワ・ド・ブイヨンについて解説します。
ゴドフロワ・ド・ブイヨンとは

ゴドフロワ・ド・ブイヨン(1060年頃〜1100年7月18日)は、第1回十字軍の指導者の一人であり、エルサレム王国の初代統治者となった人物です。
彼の何がすごいかって、まず十字軍に参加するために自分の領地を売り払ってしまうんですね。
リエージュ司教やヴェルダン司教に土地を売却し、その資金で騎士1000人余り、歩兵7000人余りの軍勢を組織しました。
普通なら「領地なくなったらどうするの?」って思いますよね。
でもゴドフロワにとっては、聖地奪還こそが人生をかけるべき使命だったわけです。
十字軍での偉業
コンスタンティノープルからエルサレムへ
1096年、ゴドフロワは兄のブローニュ伯ウスタシュ3世、弟のボードゥアンとともに十字軍に参加しました。
彼の軍勢はライン川を遡り、ドナウ川を下ってバルカン半島を横断。
1096年12月23日にコンスタンティノープルに到着しています。
ここでビザンツ皇帝アレクシオス1世から臣従を求められるという一悶着がありましたが、最終的にはこれを受け入れて遠征を続行しました。
ドリュラエウムの戦いでの救援
1097年のドリュラエウムの戦いでは、ゴドフロワの活躍が光りました。
宿営中のボエモン軍がセルジューク軍の奇襲を受けた際、ゴドフロワは騎馬隊を率いて駆けつけ、窮地に陥った味方を救出したのです。
ちなみにこの遠征中、ゴドフロワは熊に襲われて大怪我を負ったという記録も残っています。
なかなか波乱万丈ですね。
エルサレム一番乗り
そして1099年7月、十字軍はついにエルサレムに到達しました。
イタリア人水兵から提供された木材で攻城塔を建造し、7月14日〜15日にかけて総攻撃を敢行。
このときゴドフロワと彼の騎士たちが最初に城壁を制圧し、エルサレム市街へ突入したとされています。
3年に及ぶ長い遠征の集大成でした。
「王」を拒否した男
聖墳墓守護者
エルサレム陥落後、統治者を決める評議会が開かれました。
最有力候補だったトゥールーズ伯レーモン4世が辞退したため、ゴドフロワに白羽の矢が立ちます。
しかしゴドフロワは「エルサレム王」の称号を拒否しました。
「救い主が荊の冠を被せられた地で、黄金の王冠を被ることはできない」
彼が名乗ったのは「聖墳墓守護者(Advocatus Sancti Sepulchri)」という称号。
王ではなく、聖地を守護する者——そういう立場を選んだわけですね。
これは単なる謙遜ではなく、宗教的な信念の表れだったのでしょう。
アスカロンの戦い
統治者となったゴドフロワは、すぐに新たな敵と対峙することになります。
1099年8月、エジプトのファーティマ朝軍がエルサレム奪還を目指して攻めてきたのです。
ゴドフロワはアスカロンでこれを迎え撃ち、見事に撃退しました。
この勝利をもって第1回十字軍は終結したとみなされています。
家系と生い立ち
ゴドフロワはブローニュ伯ウスタシュ2世の次男として1060年頃に生まれました。
出生地はブローニュ=シュル=メール(現フランス)とされていますが、現ベルギーのバイジーだという説もあります。
母のイド・ド・ロレーヌは下ロレーヌ公ゴットフリート3世の娘。
この母方の血筋がゴドフロワの運命を大きく変えることになります。
次男から公爵へ
次男として生まれたゴドフロワには、本来あまり出世の機会がありませんでした。
兄のウスタシュ3世がブローニュ伯位と英国の領地を継ぐことになっていたからです。
ところが母方の叔父、ゴットフリート4世(通称「せむし公」)が子供を残さずに亡くなりました。
叔父はゴドフロワを後継者に指名していたため、彼は下ロレーヌ公国を継承することになったのです。
とはいえ、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は最初、公国を自分の息子に与えてしまいました。
ゴドフロワが正式に下ロレーヌ公となれたのは1087年、ザクセン人の反乱鎮圧で皇帝を支援した褒美としてでした。
外見と人柄
12世紀の年代記作者ギヨーム・ド・ティールは、ゴドフロワの外見をこう記しています。
「背は高かったが、極端に高いわけではなく、平均よりやや上という程度だった。
比類なき強さを持ち、がっしりとした手足と堂々たる胸板を有していた。
顔立ちは端正で、髭と髪は中くらいの金色だった」
いわゆる「北欧型騎士」の典型的な容姿だったようですね。
人柄については「敬虔かつ剛勇」と評されています。
ある同時代の修道士は「騎士というより修道士のようだ」と表現したほど、彼は信心深い人物だったとか。
伝説と神話化
熊との格闘とラクダ斬り
ゴドフロワは死後すぐに伝説化が始まりました。
12世紀後半には、十字軍参加者の子孫たちの間で彼は英雄として語り継がれていたようです。
特に有名なのが以下のエピソード。
- キリキアで熊と格闘して勝利した
- ラクダの首を一太刀で斬り落とした
- トルコ騎兵を一撃で真っ二つにした
まあ、かなり「盛った」話でしょうけれど、それだけ人々が彼を英雄視していた証拠ですね。
九偉人の一人
14世紀になると、ゴドフロワは「九偉人(Nine Worthies)」の一人に選ばれました。
これは騎士道の理想を体現した9人の英雄のことで、ヨーロッパ中で讃えられました。
九偉人の内訳はこうなっています。
| 分類 | 人物 |
|---|---|
| 異教徒3人 | ヘクトール、アレクサンドロス大王、カエサル |
| ユダヤ人3人 | ヨシュア、ダビデ、ユダ・マカバイ |
| キリスト教徒3人 | アーサー王、シャルルマーニュ、ゴドフロワ・ド・ブイヨン |
アーサー王やシャルルマーニュと並び称されるというのは、相当な名誉ですよね。
しかも九偉人の中でゴドフロワだけが「比較的最近の人物」だったことに意味がありました。
騎士道の物語はまだ終わっていない——彼の存在がそのことを示していたわけです。
白鳥の騎士伝説
ゴドフロワの祖先にまつわる伝説も生まれました。
白鳥が引く小舟に乗ってやってきた謎の騎士がブイヨン家を守る——という「白鳥の騎士」伝説です。
この伝説は後にワーグナーのオペラ『ローエングリン』の題材となりました。
死とその後
1100年6月、ゴドフロワはカイサリア訪問中に病に倒れました。
7月18日、エルサレムにて死去。享年40歳前後でした。
死因については諸説あります。
アラブ側の記録では「アッコ攻撃中に矢を受けて死亡」とされていますが、キリスト教徒側の記録には見られません。
チフスのような感染症だった可能性が高いようです。
ゴドフロワは聖墳墓教会に葬られました。
彼の墓は1808年に失われましたが、それまで彼の剣とされるものが展示されていたそうです。
弟のボードゥアンはエデッサからエルサレムに駆けつけ、王位を継承。
兄とは違い「エルサレム王」を名乗り、ボードゥアン1世として即位しました。
現代への影響
文学作品での描写
ゴドフロワは多くの文学作品に登場しています。
- ダンテ『神曲』 — 天国篇の火星天で「信仰の戦士」として登場
- トルクァート・タッソ『エルサレム解放』 — 主人公として活躍
- ヘンデル『リナルド』 — 「ゴッフレード」として登場
特にタッソの叙事詩は後世に大きな影響を与え、ゴドフロワを騎士道の象徴として広めました。
ブリュッセルの騎馬像
19世紀半ば以降、ベルギーの首都ブリュッセルの王宮広場にはゴドフロワの騎馬像が立っています。
1848年に除幕されたこの像は、ベルギー人にとって誇りの象徴となっています。
2005年のベルギー国民投票「最も偉大なベルギー人」では、フランス語圏で17位にランクインしました。
まとめ
- ゴドフロワ・ド・ブイヨンは第1回十字軍の指導者で、エルサレム王国初代統治者
- 「王」の称号を拒否し、「聖墳墓守護者」を名乗った敬虔な騎士
- 1099年のエルサレム陥落で一番乗りを果たし、アスカロンでファーティマ朝を撃退
- 14世紀には「九偉人」の一人に選ばれ、理想の騎士として神話化された
- ダンテやタッソの作品に登場し、今もベルギーで国民的英雄として讃えられている
ゴドフロワ・ド・ブイヨンは、中世ヨーロッパにおける「理想の騎士」そのものでした。
領地を売り払ってまで聖地に向かい、王冠を拒否してまで信仰を貫いた——その生き様が、800年以上経った今でも人々の心を打つのでしょう。


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