シャルルマーニュ(カール大帝)とは?ヨーロッパの父と呼ばれた偉大な皇帝を徹底解説

神話・歴史・文化

「ヨーロッパの父」と呼ばれる人物をご存知でしょうか?

それがシャルルマーニュ、日本では「カール大帝」の名前でよく知られている人物です。
彼は約1200年前に西ヨーロッパのほぼ全域を統一し、現在のフランス、ドイツ、イタリアの原型を作り上げました。

この記事では、シャルルマーニュの生涯から偉業、そして現代に続く影響までをわかりやすく解説します。


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シャルルマーニュ(カール大帝)とは

シャルルマーニュは、8世紀後半から9世紀初頭にかけて西ヨーロッパを支配したフランク王国の国王であり、初代の「(フランク)ローマ皇帝」です。

在位期間は768年から814年まで。
約46年間にわたって君臨し、50回以上の戦争を通じて西ヨーロッパの大部分を統一しました。

800年のクリスマスにはローマ教皇レオ3世から皇帝の冠を授けられ、西ローマ帝国滅亡から約300年ぶりに「ローマ皇帝」の称号が西ヨーロッパに復活することになります。

古典ローマ文化、ゲルマン文化、キリスト教という3つの要素を融合させ、現代ヨーロッパ文明の基礎を築いた人物として、今なお「ヨーロッパの父」と称えられています。


「シャルルマーニュ」と「カール大帝」は同一人物

「シャルルマーニュとカール大帝って別人?」と疑問に思う方も多いかもしれません。

結論から言えば、同一人物です。
フランク王国が現在のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大な国家だったため、国ごとに呼び名が異なるんですね。

言語呼び方意味
ドイツ語カール・デア・グローセ(Karl der Große)偉大なるカール
フランス語シャルルマーニュ(Charlemagne)偉大なるシャルル
英語チャールズ・ザ・グレート(Charles the Great)偉大なるチャールズ
ラテン語カロルス・マグヌス(Carolus Magnus)偉大なるカロルス
イタリア語カルロ・マーニョ(Carlo Magno)偉大なるカルロ

日本の世界史教科書では「カール大帝」が一般的ですが、騎士物語や伝説を語る文脈では「シャルルマーニュ」がよく使われます。


シャルルマーニュの生涯

出生から即位まで

シャルルマーニュは748年頃、フランク王国のピピン3世(小ピピン)の長男として生まれました。
正確な生年月日や出生地は不明ですが、4月2日説が有力とされています。

768年に父が死去すると、弟カールマン1世とともにフランク王国を分割して相続。
ところが771年にカールマンが急死したため、シャルルマーニュは単独の国王として君臨することになりました。

征服と統一の時代

即位後のシャルルマーニュは、ほぼ絶え間なく戦争を繰り返しました。

主な征服活動は以下の通りです。

774年にはイタリアのランゴバルド王国を滅ぼし、北イタリアを併合。
772年から804年にかけては、30年以上にわたるザクセン戦争を戦い抜き、ドイツ北部を制圧しました。
788年にはバイエルン公国を併合し、さらに東方ではアヴァール人も撃退しています。

面白いのは、シャルルマーニュが宮殿にふんぞり返っていたわけではないこと。
彼は自ら前線に立ち、領土内を常に移動しながら統治を行っていました。

カールの戴冠

800年のクリスマス、歴史を動かす瞬間が訪れます。

ローマ教皇レオ3世が反対派から暴行を受けて窮地に陥ったとき、シャルルマーニュは軍を率いてローマへ進軍し、教皇を救いました。

その返礼として、サン・ピエトロ大聖堂でミサに参列していたシャルルマーニュの頭上に、教皇が突如として帝冠を捧げたのです。
居合わせた人々は「偉大にして平和なるローマ人の皇帝、カール・アウグストゥス万歳!」と叫びました。

この「カールの戴冠」は、西ローマ帝国滅亡から300年以上途絶えていた「ローマ皇帝」の称号が西ヨーロッパに復活したことを意味していました。

興味深いことに、シャルルマーニュ本人はこの戴冠をあまり喜ばなかったという記録が残っています。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)との関係悪化を懸念したためです。

晩年と死

皇帝となった後も、シャルルマーニュは精力的に活動を続けました。

813年には三男のルートヴィヒ1世(敬虔王)を後継者に指名し、自ら共同皇帝として戴冠させています。

814年1月28日、シャルルマーニュは首都アーヘンの宮殿で死去。
最期の言葉は「主よ、わが霊をあなたの手に委ねます」だったと伝えられています。
遺体は彼自身が建造したアーヘン大聖堂に埋葬されました。


シャルルマーニュの外見と人物像

シャルルマーニュの外見については、側近の学者エインハルトが詳細な記録を残しています。

体格

「身長は自分の足の長さの7倍」と記されており、これを現代の研究者が計算したところ、約184cm〜192cmという数字が出ています。
当時の平均身長が169cm程度だったことを考えると、群を抜いて大きかったことがわかります。

容姿

エインハルトによると、頭は丸く、目は大きく生き生きとしていたそうです。
鼻はやや長めで、髪は金髪。
顔つきは明るく、陽気な表情をしていたといいます。

ただし、首は太く短めで、腹は少し出ていたとも記されています。
しかし体全体のバランスが良かったため、それらの欠点は目立たなかったそうです。

性格と習慣

服装に関しては質素を好み、普段はフランク人の伝統的な衣装を身につけていました。
豪華な外国の衣装を嫌い、ローマで2度だけ教皇の頼みでローマ風の正装を着た程度だったとか。

文字の読み書きはできなかったとされますが、ラテン語やギリシア語を理解でき、学問への関心は非常に高かったようです。
枕元に書字板を置いて、毎晩練習していたという逸話も残っています。

また、水泳がとても得意で、アーヘンの宮廷に温水プールを作り、家臣たちと泳いでいたそうです。
彼の右に出る者はいなかったといいます。


シャルルマーニュの功績

1. 西ヨーロッパの統一

西ローマ帝国滅亡後、バラバラになっていた西ヨーロッパを約300年ぶりに一つの国家のもとに再統一したことが最大の功績です。

最盛期のフランク王国は、現在のフランス、ドイツ、イタリア北部、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、オーストリアにまで及ぶ広大な領土を有していました。

2. キリスト教の拡大

征服活動とキリスト教の布教は一体でした。
特にザクセン戦争では、異教徒だったザクセン人をキリスト教に改宗させることに力を注ぎました。

時に強制的な手段も用いたため、現代の視点では批判もありますが、結果としてヨーロッパ全体にキリスト教が広まる土台を築いたことは確かです。

3. カロリング・ルネサンス

シャルルマーニュは武力だけの人物ではありませんでした。

彼は学問と文化の復興に力を入れ、アーヘンの宮廷には各地から優れた学者を招きました。
特にイングランド出身の学者アルクインは、教育改革の中心人物として活躍しています。

この時代に行われた取り組みは後に「カロリング・ルネサンス」と呼ばれるようになりました。
修道院での写本制作、ラテン語の普及、聖職者の教育など、後のヨーロッパ文化の基礎となる成果が数多く生まれています。

古代ローマの著作の多くは、この時代に作られた写本のおかげで現代に伝わっています。

4. 行政・経済改革

広大な領土を統治するため、シャルルマーニュは各地に「伯」と呼ばれる地方行政官を配置しました。
また、巡察使を派遣して伯を監視する仕組みも作っています。

経済面では、銀を基準とした貨幣制度を定め、道路を整備して交易を保護しました。


シャルルマーニュ伝説と十二勇士

シャルルマーニュ伝説とは

シャルルマーニュの物語は、中世ヨーロッパで大人気の騎士物語となりました。

史実をベースにしながらも、サラセン人(イスラム教徒)との壮大な戦いが描かれ、多くの武勲詩や叙事詩が生まれています。

代表作は11世紀末に成立した『ローランの歌』。
フランス最古の叙事詩として、現在も重要な文学作品とされています。

十二勇士(パラディン)

シャルルマーニュの物語には、「パラディン」と呼ばれる十二人の勇士が登場します。
アーサー王伝説における円卓の騎士のような存在ですね。

ただし、メンバーは作品によって異なり、固定されていません。

名前特徴
ローラン(オルランド)十二勇士の筆頭。シャルルマーニュの甥。聖剣デュランダルを持つ
オリヴィエローランの親友。知将として知られる
チュルパンランス大司教。武器を取って戦う聖職者
リナルド四人兄弟の長男。魔法剣士
アストルフォイングランド王の息子。容姿端麗で魔法アイテムを多数所持
オジェ・ル・ダノワデンマーク出身の騎士
ガヌロン(ガノ)裏切り者として有名

『ローランの歌』のあらすじ

778年、シャルルマーニュはスペイン遠征からの帰還途中にピレネー山中のロンスヴォーで待ち伏せに遭いました。

史実では地元のバスク人による小競り合いに過ぎなかったのですが、『ローランの歌』では壮大な物語に脚色されています。

甥のローランは殿軍を任されますが、継父ガヌロンの裏切りによりサラセン軍の大軍に襲撃されます。
親友オリヴィエは角笛を吹いて援軍を呼ぶよう進言しますが、ローランは騎士の誇りからこれを拒否。

奮戦の末、十二勇士は次々と倒れていきます。
最期にローランは角笛を吹きますが、時すでに遅し。
シャルルマーニュが駆けつけたとき、ローランは大地に横たわっていました。

この物語は騎士道精神の模範として、中世ヨーロッパで広く語り継がれました。


現代への影響

フランスとドイツの始祖

シャルルマーニュの死後、彼の帝国は孫の代に三分割されました。
843年のヴェルダン条約により、東フランク王国(後のドイツ)、西フランク王国(後のフランス)、中フランク王国(後のイタリアなど)に分かれたのです。

そのため、シャルルマーニュはフランスとドイツ両国の始祖として扱われています。
どちらの国も「うちの英雄だ」と主張しているわけですね。

神聖ローマ帝国への影響

シャルルマーニュの皇帝位は、後の神聖ローマ帝国の精神的な礎となりました。
962年にオットー1世が皇帝に戴冠したとき、その権威の源泉はカール大帝に遡るものとされています。

神聖ローマ帝国は1806年のナポレオン戦争まで約1000年続きました。

国際アーヘン・カール賞

現代においても、シャルルマーニュの名前は生き続けています。

1950年以降、ヨーロッパ統合に貢献した人物に対して「国際アーヘン・カール賞」が授与されています。
アーヘンがシャルルマーニュの首都だったことにちなんだ名誉賞です。

EU(欧州連合)設立当初の加盟6カ国(フランス、ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)は、かつてのフランク王国の領域とほぼ重なっているんですね。

世界遺産・アーヘン大聖堂

シャルルマーニュが建造し、彼自身も眠るアーヘン大聖堂は、1978年に世界遺産第1号の一つとして登録されました。

大聖堂内には「カールのシュライン(カール大帝の聖遺物箱)」が安置されており、彼の遺骨が今も保存されています。


シャルルマーニュの基本情報一覧

項目内容
本名カール1世(ドイツ語:Karl I)
別名シャルルマーニュ(仏)、チャールズ・ザ・グレート(英)、カロルス・マグヌス(羅)
生年747年または748年(4月2日説が有力)
没年814年1月28日
享年約70〜72歳
身長約184cm〜192cm(当時としては非常に長身)
在位フランク国王:768年〜814年 ローマ皇帝:800年〜814年
ピピン3世(小ピピン)
ベルトラーダ・フォン・ラオン
主な称号フランク国王、ランゴバルド王、ローマ皇帝
首都アーヘン(現ドイツ)
埋葬地アーヘン大聖堂(世界遺産)
列聖1165年(フリードリヒ1世の尽力による)

まとめ

シャルルマーニュ(カール大帝)について解説しました。

ポイントを振り返ると、以下の通りです。

  • シャルルマーニュとカール大帝は同一人物。国によって呼び名が異なる
  • 768年から814年まで約46年間在位し、50回以上の戦争で西ヨーロッパを統一
  • 800年にローマ教皇から皇帝の冠を授けられた(カールの戴冠)
  • 身長約184〜192cmの長身で、学問を愛し、水泳が得意だった
  • 「カロリング・ルネサンス」と呼ばれる文化復興運動を推進
  • 死後は伝説化し、『ローランの歌』をはじめとする騎士物語の主人公に
  • フランスとドイツ両国の始祖であり、「ヨーロッパの父」と称される
  • 彼が建造したアーヘン大聖堂は世界遺産第1号の一つ

1200年以上前の人物でありながら、シャルルマーニュの遺産は今もヨーロッパ文明の根幹に息づいています。
彼を知ることは、現代のヨーロッパを理解することにもつながるのです。

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