「お金持ちはどんどんお金持ちになり、貧しい人はずっと貧しいまま」——そんな不平等な世界の仕組みを、膨大なデータで証明した経済学者がいます。
それが、フランスの経済学者トマ・ピケティです。
2014年に出版された彼の著書『21世紀の資本』は、700ページ近い分厚い経済学の本にもかかわらず、世界中でベストセラーになりました。日本でも15万部以上が売れ、経済格差という難しいテーマが社会現象となり「ピケティ現象」とまで呼ばれたんです。
2023年にはノーベル経済学賞の登竜門といわれるクラリベイト引用栄誉賞を受賞し、2025年には政治哲学者マイケル・サンデルとの対談本も出版されるなど、今なお世界の経済学界をリードし続けています。
この記事では、現代を代表する経済学者「トマ・ピケティ」について、その経歴や主張、そして彼が世界に与えた影響を詳しくご紹介します。
概要
トマ・ピケティ(Thomas Piketty)は、1971年5月7日生まれのフランスの経済学者です。
経済格差、特に所得と富の不平等に関する歴史的研究で世界的に知られています。パリ経済学校(Paris School of Economics)の教授であり、社会科学高等研究院(EHESS)の研究ディレクターを務めています。
彼の最も有名な著作『21世紀の資本』(Le Capital au XXIe siècle)は、2013年にフランス語で出版され、2014年に英語版が刊行されると世界的なベストセラーとなりました。この本は約300年にわたる税務資料を15年かけて分析した労作で、資本主義における格差拡大のメカニズムを明らかにしたんです。
基本情報
- 生年月日:1971年5月7日
- 出生地:フランス・パリ郊外クリシー
- 専門分野:公共経済学、経済史、所得・富の不平等
- 所属:パリ経済学校教授、社会科学高等研究院(EHESS)教授、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)百年記念教授
- 代表著作:『21世紀の資本』(2013年)、『資本とイデオロギー』(2019年)
- 受賞歴:フランス最優秀若手経済学者賞(2002年)、イェルイェ賞(2013年)、クラリベイト引用栄誉賞(2023年)
ピケティの研究は、単なる理論ではなく、実際のデータに基づいているという点が特徴的です。何十年、何百年にもわたる税務記録を丹念に分析することで、経済格差の実態を浮き彫りにしました。
また、世界不平等データベース(World Inequality Database)の共同ディレクターとして、誰でもアクセスできる格差データの整備にも尽力しています。
経歴
トマ・ピケティの人生は、まさに「天才」という言葉がふさわしい軌跡を辿っています。
生い立ちと教育
ピケティは1971年、フランス・パリ郊外のクリシー(Clichy)で生まれました。
両親はトロツキストのグループ「労働者の闘争」の活動家で、1968年のパリ五月革命にも参加していました。しかしピケティが生まれる前には、この政治的立場から離れ、南フランスのオード県で山羊を育てる生活を送っていたといいます。つまり、裕福な家庭の出身でありながら、労働者階級の価値観を持つ家庭で育ったんですね。
この特殊な家庭環境が、後の彼の研究テーマに大きな影響を与えたと考えられます。
若き日の衝撃的な経験
ピケティの経済思想を形作った重要な出来事がありました。
- 1990年(19歳):チャウシェスク政権崩壊直後のルーマニアを訪問
- 1991年(20歳):崩壊直前の旧ソ連を訪問
これらの訪問で、ピケティは社会主義体制の失敗を目の当たりにします。後に彼は「この経験から、私は資本主義、私有財産、市場の信奉者になった」と語っています。左派的な家庭に育ちながら、社会主義の限界を肌で感じたことが、彼独自の視点を形成したんですね。
エリート教育機関での学び
ピケティは科学系のバカロレア(フランスの大学入学資格試験)に合格した後、2年間の準備課程を経て、18歳でパリ高等師範学校(École Normale Supérieure, ENS)に入学しました。
この学校は、フランスのエリート養成機関として知られ、哲学者ジャン=ポール・サルトルや人類学者クロード・レヴィ=ストロースなど、多くの知識人を輩出してきた名門校です。ピケティはここで数学と経済学を学びました。
驚異的な若さでの成功
ピケティの学問的キャリアは、驚くべき早さで始まりました。
学歴の軌跡
- 1990年(19歳):パリ高等師範学校(ENS)で数学の修士号(M.Sc.)を取得
- 1993年(22歳):ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)と社会科学高等研究院(EHESS)の欧州博士課程プログラムで博士号を取得
- 論文テーマ:「富の再分配の理論」
- 指導教官:ロジェ・ゲヌリ(Roger Guesnerie)
- 1993-1995年(22-24歳):マサチューセッツ工科大学(MIT)経済学部の助教授に就任
- 1995年(24歳):フランスに帰国
22歳で博士号を取得し、そのまま世界最高峰のMITで教鞭を執るというのは、経済学の世界でも極めて異例のことです。通常、博士号取得は20代後半から30代というケースが多く、ピケティの早熟ぶりがわかりますね。
アメリカでの経験とフランスへの帰国
MITでの2年間は、ピケティにとって重要な転機となりました。
アメリカの経済学界は、数学的モデルや理論を重視する傾向がありました。しかしピケティは、実際のデータや歴史的事実を重視する研究スタイルに魅力を感じたのです。
24歳という若さでフランスに帰国した理由について、ピケティは後に「アメリカの経済学があまりにも数学的で、現実の経済問題から離れていると感じた」と語っています。
フランスでの研究活動
フランスに戻ったピケティは、精力的に研究活動を展開しました。
主な活動と役職
研究機関でのキャリア
- 1995-2000年:フランス国立科学研究センター(CNRS)研究員
- 2000年:社会科学高等研究院(EHESS)の経済学教授に就任
- 2004-2006年:フランス高等師範学校(ENS)社会科学部長
- 2005年:パリ経済学校を設立し、初代学長に就任
- 2007年:パリ経済学校の教授に就任(現職)
特にパリ経済学校の創設は、フランスの経済学研究の水準を高める重要な出来事でした。ピケティは若くして、学問の世界だけでなく、教育機関の運営にも手腕を発揮したんです。
政治との関わり
ピケティはフランス社会党に近い立場をとっており、政治的にも活動してきました。
政治活動の歴史
- 1995-1997年:社会党の経済委員会に参加
- 2003年:ミシェル・ロカールとドミニク・ストロス=カーンが設立した「ヨーロッパを左に(À gauche, en Europe)」の科学政策委員会メンバーに就任
- 2007年:大統領選挙でセゴレーヌ・ロワイヤル候補の経済顧問を務める(このため、数ヶ月間パリ経済学校の学長職を離れる)
- 2012年:大統領選挙でフランソワ・オランド候補への支持を表明
- 2015年:イギリス労働党の経済諮問委員会メンバーに任命される(ジェレミー・コービン党首、ジョン・マクドネル影の財務大臣のもとで活動)
レジオンドヌール勲章の辞退
2015年1月、ピケティは話題を呼ぶ決断をします。
フランス政府からレジオンドヌール勲章(フランスの最高勲章)の受勲候補に選ばれましたが、これを辞退したんです。その理由として、彼はこう述べました。
「誰に名誉を与えるか決めることは政府の役割ではない。政府はフランスとヨーロッパの経済回復に専念した方がよい」
この辞退は、オランド政権と距離を置くサインとも受け取られました。学者としての独立性を重視するピケティの姿勢が表れた出来事ですね。
ジャーナリストとしての活動
研究活動と並行して、ピケティは積極的に一般向けの発信も行っています。
- フランスの中道左派紙『リベラシオン』のコラムニスト
- 左派系日刊紙『ル・モンド』に定期的に論説を寄稿
- 2004年から2011年まで『リベラシオン』に毎月連載(後に『トマ・ピケティの新・資本論』として書籍化)
経済学者でありながら、ジャーナリズムを通じて一般市民とも対話を続ける姿勢が、ピケティの特徴といえるでしょう。
データベースの構築
ピケティの研究の基盤となったのが、長期的な所得・富のデータベースの構築でした。
World Inequality Database(世界不平等データベース)
同僚のエマニュエル・サエズ(カリフォルニア大学バークレー校)らとともに、世界各国の税務記録を収集・分析するプロジェクトを開始。このデータベースは、後に「World Inequality Database」として公開され、誰でもアクセスできるようになりました。
このような地道なデータ収集作業が、『21世紀の資本』という大著の土台となったんですね。
受賞歴と国際的評価
ピケティの研究は、数々の栄誉で評価されています。
主な受賞歴
- 2002年:フランス最優秀若手経済学者賞を受賞
- 2013年:イェルイェ賞(Yrjö Jahnsson Award)を受賞
- 45歳以下のヨーロッパの経済学者に贈られる隔年賞
- 「ヨーロッパの経済学研究において理論的・実証的に重要な貢献をした」ことが評価された
- 2015年:タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選出
- 2023年:クラリベイト引用栄誉賞を受賞
- ノーベル経済学賞の登竜門といわれる賞
- 論文の引用数が非常に多いことが評価された
また、ピケティは世界不平等データベース(World Inequality Database)および世界不平等研究所(World Inequality Lab)の共同ディレクターも務めており、国際的な格差研究のネットワークの中心人物となっています。
主要業績
ピケティの業績は多岐にわたりますが、特に重要なものをご紹介します。
『21世紀の資本』——世界を変えた一冊
2013年にフランス語で出版され、2014年に英語版が刊行された『21世紀の資本』は、ピケティの名を世界に知らしめた代表作です。
英語版はハーバード大学出版局から刊行され、翻訳はアーサー・ゴールドハマーが担当しました。日本語版は2014年12月にみすず書房から出版され、山形浩生、守岡桜、森本正史による翻訳で、世界中でベストセラーとなり、160万部以上を売り上げたんです。
なぜこの本が衝撃的だったのか
理由は大きく3つあります。
1. 膨大なデータに基づく実証研究
ピケティは、18世紀から21世紀初頭までの約200年間にわたる、20カ国以上の税務記録を分析しました。これほど長期的で広範囲なデータ分析は、それまでほとんど行われていなかったんです。
2. 資本主義の「不都合な真実」を明らかにした
経済学の主流派は、経済が発展すれば格差は自然に縮小すると考えていました(クズネッツ曲線)。しかしピケティは、これが20世紀の特殊な時期だけの現象で、長期的には格差が拡大する傾向があることを示したのです。
3. 理論だけでなく政策提言も行った
単に現状を分析するだけでなく、「グローバルな富裕税」という具体的な解決策を提案しました。
本の内容
全体で約700ページに及ぶこの本は、4部構成になっています。
第1部:所得と資本
基本的な概念の説明。国民所得、資本、資本/所得比率といった用語を定義します。
第2部:資本/所得比率の動学
18世紀以降のヨーロッパと日本における資本蓄積のパターンを分析。戦争と経済危機によって資本が破壊されたが、21世紀に入って再び資本/所得比率が上昇していることを示します。
第3部:不平等の構造
所得と富の不平等がどのように変化してきたかを詳細に分析。特に最上位層(トップ1%、トップ0.1%など)の所得と富の集中を検証します。
第4部:21世紀の資本規制
グローバルな累進資本課税という政策提言。実現は難しいが、格差拡大を食い止めるためには必要だと主張します。
その他の主要著作
『21世紀の資本』以外にも、ピケティは重要な著作を発表し続けています。
初期の研究書
『不平等と再分配の経済学』(1997年)
- 原題:”L’économie des inégalités”
- 日本語版:2020年、尾上修悟訳、明石書店
- 経済的不平等の原因を資本と労働の関係から理論的に分析
- 1997年に刊行されて以降、7回もの改訂が重ねられた
- ピケティによる不平等論の原点
『格差と再分配:20世紀フランスの資本』(2001年)
- 原題:”Les hauts revenus en France au XXe siècle”
- 日本語版:2016年、山本知子ほか訳、早川書房
- フランスの1901-1998年の約100年間における税務記録を徹底的に分析
- 20世紀の同国における格差の長期的構造を浮き彫りにした記念碑的研究書
- 数学に秀でた経済理論家による、歴史家も顔負けの事実収集
- この研究が、ピケティのその後の仕事を決定づけた
一般向け著作
『トマ・ピケティの新・資本論』(2015年)
- 原題:”Chroniques 2004-2012″(元は「ヨーロッパを救えるか?」として連載)
- 日本語版:村井章子訳、日経BP
- 『リベラシオン』紙に2004年から2011年まで毎月連載していたコラムを再編集した時論集
- グローバル金融危機直後からユーロ圏危機の時期に書かれた
- 『21世紀の資本』が700ページの専門書であるのに対し、一般読者向けの短いエッセイ集
続編と発展
『資本とイデオロギー』(2019年)
- 原題:”Capital et Idéologie”
- 日本語版:2023年、みすず書房
- 『21世紀の資本』の続編的な位置づけ
- 不平等を正当化するイデオロギーの歴史を分析
- より平等な社会への道筋を探る
- 「参加型社会主義」という新たなナラティブを提唱
- 企業内部での権限の共有、巨額財産への累進課税、若者への資本支給などを提案
『世界不平等レポート2018』(2018年)
- 共編者として参加
- 日本語版:みすず書房
- 世界不平等データベースに基づく包括的な格差分析
『来たれ、新たな社会主義』(2022年)
- 日本語版:みすず書房
- 資本主義の代替案としての「参加型社会主義」をより詳細に論じる
『自然、文化、そして不平等』(2023年)
- 日本語版:文藝春秋
- 格差問題を環境問題や文化の文脈で論じる
『平等についての小さな歴史』(2024年)
- 原題:”Une brève histoire de l’égalité”(2022年)
- 日本語版:みすず書房
- 『21世紀の資本』よりもはるかに短く、一般市民向けに書かれた
- 富の再分配についての入門書
- やや楽観的なトーンで、希望を持てる内容
『平等について、いま話したいこと』(2025年)
- 共著者:マイケル・サンデル(政治哲学者)
- 日本語版:岡本麻左子訳、早川書房、2025年1月17日発売
- 経済学と政治哲学という別のフィールドで論陣を張ってきた両氏による対談
- 不平等が単なる富の問題ではなく、尊厳の問題であることを議論
- 発売前から話題となり、早々に重版が決定
共同研究論文
エマニュエル・サエズとの共同研究も多数あり、特にアメリカの所得格差に関する論文は高く評価されています。この研究により、サエズは経済学の権威ある賞であるジョン・ベイツ・クラーク賞を受賞しました。
ガブリエル・ズックマンとの2013年の共著論文は、1970年から2010年における資本/所得比率の歴史的推移に関する研究で、アメリカ・イギリス・ドイツ・フランスについては1700年までさかのぼって分析しました。この論文のデータは、『21世紀の資本』の理論的支柱にもなっています。
「r > g」という不等式
ピケティの研究の核心にあるのが、「r > g」という不等式です。
不等式の意味
- r(アール):資本収益率(Return on capital)
- g(ジー):経済成長率(Growth rate)
この不等式は、「資本から得られる収益率が、経済全体の成長率を上回る」ことを意味します。
なぜこれが問題なのか
簡単な例で説明しましょう。
ケース1:株や不動産を持っている人
資産を持っている人は、その資産から年間5%の収益を得ているとします(r = 5%)。
ケース2:働いて給料をもらう人
一方、経済全体は年間2%しか成長していません(g = 2%)。つまり、働く人の給料は年間2%しか増えないんです。
結果:格差の拡大
- 資産家:毎年5%ずつ富が増える
- 労働者:毎年2%しか所得が増えない
この差(5% – 2% = 3%)が、年々積み重なっていきます。すると、時間が経つにつれて、資産家と労働者の格差がどんどん広がっていくんですね。
歴史的な検証
ピケティは、この r > g が歴史的に成立していたことを、データで示しました。
例外的な時期:20世紀中盤
20世紀中盤(1914-1973年頃)は、例外的に g が r を上回る時期でした。
この時期に格差が縮小した理由
- 二度の世界大戦で資本が破壊された
- 大恐慌などの経済危機
- 高い経済成長率(戦後の復興、技術革新)
- 累進的な所得税や相続税の導入
しかし、これは歴史的に見れば特殊な時期だったというのがピケティの主張です。
21世紀:r > g の復活
21世紀に入り、再び r > g の状態に戻りつつあります。
- 経済成長率の鈍化(先進国では1-2%程度)
- 資本収益率は依然として4-5%程度
- 格差の再拡大
このまま何もしなければ、19世紀のような極端な格差社会に戻る可能性があるとピケティは警告しています。
政策提言
ピケティは、単に問題を指摘するだけでなく、具体的な解決策も提案しました。
グローバルな累進資本税
ピケティの最も有名な政策提言が、これです。
基本的な仕組み
資産の額に応じて税率が上がる累進課税を、世界規模で導入するという提案です。
資産規模別の税率例(ピケティの提案)
- 100万ユーロ未満:0%
- 100万~500万ユーロ:1%
- 500万ユーロ以上:2%
- 10億ユーロ以上:5-10%(極端な富の集中を防ぐため)
なぜグローバルである必要があるのか
一つの国だけで富裕税を導入すると、富裕層が税金の安い国に資産を移してしまうからです。これを「税の競争」と呼びます。
効果を上げるためには、主要国が協調して導入する必要があるんですね。
実現可能性
ピケティ自身、この提案の実現が困難であることは認めています。しかし、議論のたたき台として提示することに意味があると考えているのです。
その他の提言
資本税以外にも、いくつかの政策を提案しています。
累進所得税の強化
最高税率を引き上げ、超高所得者の税負担を重くする。歴史的に見ると、20世紀中盤のアメリカでは所得税の最高税率が90%近くに達していた時期もありました。
相続税の強化
世代を超えた富の集中を防ぐため、高額な相続には高い税率を課す。
教育への投資
機会の平等を実現するため、質の高い教育を誰でも受けられるようにする。
透明性の向上
世界中の金融資産情報を共有し、タックスヘイブンを利用した租税回避を防ぐ。
批判への反論
「そんな高い税金を課したら、経済活動が停滞するのでは?」という批判に対し、ピケティはこう反論します。
- 20世紀中盤の高税率の時期こそ、経済成長率が最も高かった
- 適切な税制は経済成長を阻害しない
- 極端な格差こそが、社会の安定と経済の持続可能性を脅かす
影響と評価
『21世紀の資本』の出版以降、ピケティは世界中で大きな影響を与えてきました。
学術界での評価
高い評価
多くの経済学者が、ピケティのデータ収集と分析の質の高さを評価しています。
- ポール・クルーグマン(ノーベル経済学賞受賞者):「過去10年で最も重要な経済学の本」
- ジョセフ・スティグリッツ(ノーベル経済学賞受賞者):「格差問題の理解を一変させた」
受賞歴
- 2002年:フランス最優秀若手経済学者賞
- 2013年:イェルイェ賞(スウェーデン経済学賞)
政治・社会への影響
ピケティの研究は、学術界を超えて、政治や社会運動にも大きな影響を与えました。
「ウォール街を占拠せよ」運動への影響
2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動に、ピケティの研究は大きな影響を与えました。
運動の中では、所得最上位層1%の所得が総所得に占める比率の推移など、ピケティとエマニュエル・サエズの研究成果が広く紹介され、金融界批判の根拠とされました。「We are the 99%(私たちは99%だ)」というスローガンの背景には、ピケティたちのデータがあったんですね。
ギリシャ危機への関与
2015年7月、ピケティはジェフリー・サックス(コロンビア大学教授)など著名な経済学者たちとともに、ドイツのアンゲラ・メルケル首相宛に公開書簡を出しました。
書簡の内容は、ドイツなどがギリシャに強いる緊縮財政政策の停止を求めるものでした。
ピケティの主張
- 緊縮財政政策によってギリシャ経済が疲弊している
- 2014年の失業率は約25%に達し、GDPは2008年の水準の約75%まで低下
- 1950年代に西ドイツ政府が戦後賠償を軽減してもらった歴史に言及
- ドイツがギリシャの債務を減免すべきだと主張
ピケティはドイツを厳しく批判し、「債務減免の歴史を忘れたドイツが欧州を破壊している」と述べました。経済学者としてだけでなく、ヨーロッパの連帯を重視する知識人としての側面を示した出来事です。
アメリカでの影響
- バーニー・サンダース上院議員の政策に影響
- エリザベス・ウォーレン上院議員の「富裕税」提案
- 「ウォール街を占拠せよ」運動との関連
ヨーロッパでの影響
- フランス、イギリスなどでの税制改革議論
- EU内での富裕税導入の検討
- 欧州の民主化のためのマニフェストの発起人
日本での影響
2014年の日本語版は15万部以上を売り上げ、経済格差についての議論を活性化させました。政治家や政策立案者も、格差問題により注目するようになったんです。
メディアでの扱い
『21世紀の資本』は、経済学の専門書としては異例のメディア露出を獲得しました。
- ニューヨーク・タイムズのベストセラーリスト入り
- タイム誌「世界で最も影響力のある100人」に選出(2015年)
- 多数のテレビ出演、講演会
経済学者がここまで一般の注目を集めることは、極めて珍しいことです。
批判と論争
一方で、ピケティの主張には様々な批判も寄せられています。
「r > g」についてのピケティ自身の見解
興味深いことに、ピケティ自身が後に「r > g」について興味深い発言をしています。
2015年3月、ハーバード大学ロースクールでの講演で、ピケティはこう語りました。
「まず、r > g について。私にとって、これはどちらかといえばマーケティングトリックのようなものでした——そして明らかに成功したようですね」(笑いながら)
「見てください、私は3世紀にわたる所得と富の歴史を、20カ国について、一つの方程式で説明できるとは真剣には信じていません」
この発言は、ピケティの研究姿勢を示しています。「r > g」は本質的な真理というより、複雑な歴史的プロセスを人々に理解してもらうための入り口だったということですね。
ピケティはハーバード大学での講演で、こうも述べています。
「この本がこれほど長いのは、私が資本と資本所有の多次元的な歴史を描写しようとしているからです。すべての異なる資本資産が、異なる交渉プロセス、異なる制度、異なる法的ルール、資本の所有者とあまり資本を持たず主に労働力を所有する人々との間の異なる交渉プロセスを生み出すことを示そうとしています」
つまり、単純な数式ではなく、歴史的・制度的・法的な複雑さこそが重要だという姿勢なんです。
データの正確性に関する批判
フィナンシャル・タイムズの指摘(2014年)
イギリスの経済紙フィナンシャル・タイムズは、ピケティのデータに誤りや不整合があると指摘しました。
批判の内容
- データと公式情報源との間に矛盾がある
- 一部のデータが元の情報源から改変されている
- データが恣意的に選択(cherry-picked)されている可能性
- これらの誤りを修正すると、ピケティの結論は支持されない
ピケティの反論
- データの解釈方法の違いにすぎない
- 結論を変えるような誤りではない
- すべてのデータは公開しており、検証可能
- 細部の誤りがあっても、全体的な傾向は変わらない
多くの経済学者は、細かい誤りはあっても、全体的な結論は妥当だと評価しています。
ビル・ゲイツの批判
マイクロソフト創業者ビル・ゲイツも、ピケティの主張に対して疑問を呈しました。
ゲイツの主張
- 富の集中が必ずしも悪いわけではない
- イノベーションによって生まれた富と、相続によって得た富を区別すべき
- 高い資本課税は、起業家精神を阻害する可能性がある
- 慈善活動による富の再分配も考慮すべき
ただしゲイツは、ピケティの問題提起自体の重要性は認めており、全面的な否定ではありませんでした。
経済理論に関する批判
「r > g」の普遍性への疑問
一部の経済学者は、「r > g」が常に成立するとは限らないと指摘します。
- 資本収益率(r)は変動する
- 技術革新によって成長率(g)が上昇する可能性
- 資本市場の効率化で収益率が低下する可能性
資本概念の曖昧さ
ピケティの「資本」の定義が広すぎるという批判もあります。不動産、株式、債券など、性質の異なる資産を一緒くたにしているという指摘です。
政策提言への批判
実現可能性の問題
「グローバルな資本税は理想論すぎる」という批判は多くあります。
- 国際協調の困難さ
- タックスヘイブンの存在
- 資本の国外流出リスク
経済への悪影響の懸念
高い税率が経済活動を阻害するという懸念も示されています。
- 投資意欲の減退
- 企業の競争力低下
- イノベーションの抑制
実施コストの問題
すべての資産を把握し、課税するための行政コストが膨大になるという指摘もあります。
ピケティの対応
これらの批判に対し、ピケティは次のように対応しています。
データの透明性
すべての生データと計算方法を公開し、誰でも検証できるようにしています。これは学術的に非常に誠実な態度として評価されています。
議論の活性化を歓迎
ピケティ自身、批判を歓迎する姿勢を示しています。「重要なのは、格差問題についての議論が活発になることだ」と述べているんです。
政策の柔軟性
資本税が唯一の解決策ではないことも認めています。累進所得税、相続税、教育投資など、複数の政策を組み合わせることの重要性を強調しています。
ピケティの思想的背景
ピケティの研究は、どのような思想的背景から生まれたのでしょうか。
左派的な家庭環境
前述の通り、ピケティの両親は1968年の五月革命に参加した左派活動家でした。この環境が、社会的不平等への関心を育んだと考えられます。
フランスの知的伝統
フランスには、社会問題に積極的に発言する知識人の伝統があります。エミール・ゾラ、ジャン=ポール・サルトル、ミシェル・フーコーなど、時代ごとに社会に影響を与えた知識人がいました。
ピケティも、この伝統を継承する存在と言えるでしょう。
実証主義への傾倒
ピケティは、抽象的な理論よりも具体的なデータを重視します。これは、アメリカ経済学の数学偏重への反発から生まれたスタイルです。
「経済学は社会科学であるべきで、数学の一分野であってはならない」という信念を持っているんですね。
歴史的視点の重要性
ピケティの研究の特徴は、200年以上の長期的視点です。
短期的な変動ではなく、長期的なトレンドを見ることで、資本主義の本質的な特性が見えてくるという考え方なんです。
日本への影響
ピケティの研究は、日本社会にも大きな影響を与えました。
日本語版の成功と来日
2014年に刊行された日本語版『21世紀の資本』は、予想を大きく上回る15万部以上を売り上げました。
700ページ近い専門書としては異例のヒットです。これは、日本社会でも格差問題への関心が高まっていたことを示しています。リーマン・ショック後の世界経済危機を経て、「ウォール街を占拠せよ」運動にも大きな影響を与えたピケティの格差研究は、日本でも「ピケティ現象」と呼ばれる社会現象となりました。
2015年の来日
2015年1月、ピケティは初来日し、東京大学をはじめとする複数の会場で講義・講演を行いました。
東京大学での講演は大盛況で、経済学者としては異例の注目を集めたんです。メディアも連日ピケティの発言を取り上げ、格差問題が広く議論されるきっかけとなりました。
日本の格差問題への示唆
ピケティは、日本の格差について興味深い指摘をしています。
比較的平等な社会
国際的に見ると、日本の所得格差は他の先進国より小さい水準にあります。
しかし拡大傾向
1990年代以降、日本でも格差が拡大しつつあります。
- 非正規雇用の増加
- 世代間格差の拡大
- 相続による資産格差
将来への警告
日本も r > g の影響を受けており、何もしなければ格差が拡大し続けると警告しています。
政策議論への影響
ピケティの研究は、日本の政策議論にも影響を与えました。
- 消費増税と所得再分配
- 相続税改革の議論
- 教育機会の平等化
ただし、日本では欧米ほど急進的な税制改革の議論は起きていません。これは、日本社会の保守的な性格を反映しているのかもしれませんね。
まとめ
トマ・ピケティは、現代を代表する経済学者であり、格差問題の研究で世界的な影響を与えた人物です。
重要なポイント
- 1971年生まれのフランスの経済学者で、22歳という若さで博士号を取得した早熟の天才
- トロツキスト活動家の両親のもとに生まれ、1990-91年に崩壊期の社会主義国を訪問した経験が思想形成に影響
- パリ経済学校の教授として、所得と富の不平等を研究
- 2014年に出版された『21世紀の資本』で世界的に有名になり、160万部以上の世界的ベストセラーに
- 約300年間、20カ国以上の税務資料を15年かけて分析した膨大な実証研究
- 「r > g」という不等式で、資本主義における格差拡大のメカニズムを説明(ただし本人は「マーケティングトリック」と自己評価)
- グローバルな累進資本税という大胆な政策提言を行った
- 2023年にクラリベイト引用栄誉賞を受賞(ノーベル経済学賞の登竜門)
- 学術界、政治界、一般社会に大きな影響を与えた
- データの正確性や政策の実現可能性について批判もある
- すべてのデータを公開し、透明性の高い研究姿勢を貫く
- 世界不平等データベースの共同ディレクターとして、格差研究のインフラ整備にも貢献
- 2025年には政治哲学者マイケル・サンデルとの対談本『平等について、いま話したいこと』を出版
ピケティの遺産
ピケティの最大の功績は、経済格差という問題を学術的な議論から一般社会の関心事へと引き上げたことです。
『21世紀の資本』以前、格差問題は一部の専門家や活動家が扱うテーマでした。しかしピケティは、膨大なデータという「武器」を使って、格差が単なる個人の問題ではなく、資本主義システムの構造的な問題であることを示したんです。
議論は続く
ピケティの提案する政策がそのまま実現される可能性は低いでしょう。グローバルな資本税は、多くの困難を伴います。
しかし、重要なのは完璧な解決策を提示することではありません。格差という問題を社会全体で認識し、どう対処すべきか議論することが大切なんです。
ピケティ自身も、自分の提案は「議論のための出発点」だと述べています。批判や反論を含めた活発な議論こそが、より良い社会を作る第一歩なんですね。
思想の発展
ピケティの思想も進化し続けています。
『21世紀の資本』では主に格差の実態とメカニズムを分析しましたが、2019年の『資本とイデオロギー』では格差を正当化するイデオロギーの歴史に焦点を当て、2022年の『平等についての小さな歴史』ではやや楽観的なトーンで平等への道筋を示しました。
2025年の『平等について、いま話したいこと』では、政治哲学者マイケル・サンデルとの対話を通じて、経済的不平等と尊厳の問題を結びつけて論じています。経済学と政治哲学の対話から、新たな視点が生まれることが期待されているんです。
私たちへの問いかけ
ピケティの研究は、私たち一人一人にも問いかけています。
- どのような社会を望むのか
- どこまでの不平等なら許容できるのか
- 次の世代にどんな社会を残すのか
- 経済的成功と尊厳をどう両立させるか
これらは経済学だけでは答えられない、政治や倫理の問題でもあります。ピケティの研究は、こうした根本的な問いについて、私たちが考えるきっかけを与えてくれているのです。
経済学と歴史学の融合
ピケティの研究手法は、経済学の新しい可能性を示しています。
彼はハーバード大学での講演で、「経済学と歴史学、社会学の境界は、経済学者が装ってきたほど明確ではない」と述べています。数学的モデルだけでなく、歴史的データ、制度的分析、法的枠組みを統合する学際的アプローチが、ピケティの特徴なんですね。
この姿勢は、現代の経済学に新しい風を吹き込んでいます。
700ページの分厚い本を書いた経済学者の情熱。それは、より平等で持続可能な社会への希望から生まれたものなのかもしれません。そして、その希望は今も、世界中の研究者、政策立案者、そして市民たちに受け継がれています。


コメント