数学の世界には「美しい定理」と呼ばれるものがいくつかありますが、その中でも特に重要なのが「コーシーの積分定理」です。
複素解析という分野の基礎を支えるこの定理、名前だけ聞くと難しそうに感じるかもしれません。でも、その本質はとてもシンプルで美しいんです。
今回は、コーシーの積分定理について、その意味と重要性を分かりやすく解説していきます。
コーシーの積分定理とは

コーシーの積分定理は、フランスの数学者オーギュスタン=ルイ・コーシー(1789-1857)によって証明された定理です。
定理の内容
コーシーの積分定理の内容を簡単に言うと、こうなります。
「ある領域で正則な関数を、その領域内の閉曲線に沿って積分すると、必ず0になる」
たったこれだけです。シンプルですよね。
数式で表すと以下のようになります。
$$\oint_C f(z)dz = 0$$
ここで、
- $f(z)$ は複素関数
- $C$ は閉曲線(輪っかのような形の曲線)
- $\oint$ は閉曲線に沿った積分を表す記号
難しい言葉を説明しよう
定理の内容に出てきた言葉を一つずつ解説します。
複素数と複素関数
複素数とは、$z = x + iy$ という形で表される数のことです。$i$ は虚数単位と呼ばれ、$i^2 = -1$ という性質を持っています。
複素関数とは、複素数を入力すると複素数が出力される関数のことです。
正則関数
正則関数とは、ある領域の全ての点で複素微分ができる関数のことを指します。
「複素微分ができる」というのは、実数の微分と似ていますが、複素数の場合はどの方向から近づいても同じ微分の値になる必要があるんです。
これは思った以上に厳しい条件で、この条件を満たす関数は非常に良い性質を持っています。
閉曲線
閉曲線とは、始点と終点が同じ点になっている曲線のことです。簡単に言えば、輪っかのような形をしています。
円や楕円、もっと複雑な形でも、ぐるっと一周して元の場所に戻ってくれば閉曲線です。
なぜこの定理が重要なのか
コーシーの積分定理は、複素解析の世界で非常に重要な役割を果たしています。
積分が経路によらない
この定理から、正則関数の積分は「始点と終点だけで決まる」ことが分かります。
つまり、どんな道順を通っても、スタート地点とゴール地点が同じなら積分の値は同じになるんです。
これは実数の積分でも成り立つ性質ですが、複素関数ではもっと強力な意味を持ちます。
多くの定理の基礎になっている
コーシーの積分定理は、他の重要な定理の土台となっています。
- コーシーの積分公式:関数の値を積分で表す公式
- 留数定理:複雑な積分を簡単に計算する方法
- 最大値の原理:正則関数の性質に関する定理
これらは全て、コーシーの積分定理から導かれます。
定理を理解するための例
具体的な例で考えてみましょう。
例1:単純な多項式
関数 $f(z) = z^2$ を考えます。これは複素平面全体で正則な関数です。
この関数を、原点を中心とする半径1の円 $C$ に沿って積分すると、コーシーの積分定理より
$$\oint_C z^2 dz = 0$$
となります。
積分経路がどんなにグニャグニャしていても、閉じた曲線で内部に特異点(微分できない点)がなければ、積分値は必ず0になります。
例2:特異点がある場合
関数 $f(z) = \frac{1}{z}$ を考えます。
この関数は $z = 0$ で定義できないため、原点では正則ではありません。
原点を囲むような円 $C$(例えば $|z| = 1$)に沿って積分すると
$$\oint_C \frac{1}{z} dz = 2\pi i$$
となり、0にはなりません。
これは、閉曲線の内部に特異点(この場合は原点)があるため、コーシーの積分定理が適用できないからです。
定理の証明の概要
コーシーの積分定理を証明する方法はいくつかありますが、最も一般的な方法を簡単に紹介します。
グリーンの定理を使った証明
証明には「グリーンの定理」という、平面上の積分に関する定理を使います。
ステップ1:複素関数を実数と虚数に分ける
複素関数 $f(z)$ を実部と虚部に分けて表します。
$$f(z) = u(x, y) + iv(x, y)$$
ここで、$z = x + iy$ と表したとき、$u$ と $v$ は実数値の関数です。
ステップ2:積分を実数の積分に変換する
複素積分を、実数の線積分に変換します。
$$\oint_C f(z)dz = \oint_C (udx – vdy) + i\oint_C (vdx + udy)$$
ステップ3:グリーンの定理を適用する
グリーンの定理を使うと、線積分を面積分に変換できます。
すると、積分の中に $\frac{\partial u}{\partial x}$、$\frac{\partial u}{\partial y}$、$\frac{\partial v}{\partial x}$、$\frac{\partial v}{\partial y}$ などの項が現れます。
ステップ4:コーシー・リーマンの関係式を使う
正則関数は「コーシー・リーマンの関係式」という条件を満たします。
$$\frac{\partial u}{\partial x} = \frac{\partial v}{\partial y}$$
$$\frac{\partial u}{\partial y} = -\frac{\partial v}{\partial x}$$
この関係式を使うと、積分の値が0になることが示されます。
積分経路の変形
コーシーの積分定理から、面白い応用が導けます。それが「積分経路の変形」です。
経路を変えても積分値は同じ
2つの異なる経路 $C_1$ と $C_2$ があって、どちらも同じ始点と終点を持つとします。
この2つの経路の間の領域で関数 $f(z)$ が正則ならば
$$\int_{C_1} f(z)dz = \int_{C_2} f(z)dz$$
が成り立ちます。
なぜそうなるの?
$C_1$ で進んで $C_2$ を逆向きに戻ってくると、それは閉曲線になります。その閉曲線の内部で $f(z)$ が正則なら、コーシーの積分定理より積分は0です。
つまり
$$\int_{C_1} f(z)dz – \int_{C_2} f(z)dz = 0$$
したがって、2つの経路での積分値は等しくなります。
積分を簡単にできる
この性質を使うと、複雑な経路での積分を、もっと簡単な経路(例えば円)での積分に置き換えることができます。
これは、実際の計算で非常に便利です。
コーシーの積分公式との関係
コーシーの積分定理から、さらに強力な「コーシーの積分公式」が導かれます。
コーシーの積分公式
関数 $f(z)$ が領域 $D$ で正則で、$C$ が $D$ 内の閉曲線、$a$ が $C$ の内部の点だとすると
$$f(a) = \frac{1}{2\pi i}\oint_C \frac{f(z)}{z-a}dz$$
が成り立ちます。
これが意味すること
この公式は驚くべきことを言っています。
「閉曲線上での関数の値が分かれば、その内部の任意の点での関数の値が分かる」
つまり、境界の情報だけで内部の全ての情報が決まってしまうんです。これは複素関数ならではの性質です。
実際の応用例
コーシーの積分定理は理論だけでなく、実際の問題にも応用されます。
物理学での応用
- 流体力学:複素ポテンシャルを使った流れの解析
- 電磁気学:電場や磁場の計算
- 量子力学:波動関数の解析
工学での応用
- 信号処理:フーリエ変換やラプラス変換の理論的基礎
- 制御工学:システムの安定性解析
- 電気回路:交流回路の解析
数学での応用
- 実数の積分の計算:留数定理を使って難しい実積分を計算
- 級数の和の計算:複素積分を使った級数計算
- 関数の性質の研究:解析接続など高度な理論
よくある誤解と注意点
誤解1:全ての関数で成り立つ
コーシーの積分定理が成り立つのは「正則な関数」だけです。
正則でない関数(例えば $f(z) = \bar{z}$:複素共役)では成り立ちません。
誤解2:どんな閉曲線でもOK
閉曲線の内部全体で関数が正則である必要があります。
内部に特異点があると、定理は適用できません。
誤解3:実数の積分と同じ
複素積分は実数の積分とは異なる性質を持ちます。
経路によって値が変わることもあるので、注意が必要です。
グルサによる改良
コーシーが最初に証明したときは「導関数が連続である」という条件が必要でした。
しかし、後にエドゥアール・グルサという数学者が、この条件を外して証明に成功しました。
つまり、「一度でも微分可能なら(正則なら)、定理が成り立つ」ことを示したんです。
これは重要な進歩で、現在の定理の形はこのグルサの証明に基づいています。
まとめ
コーシーの積分定理は、複素解析の基礎となる重要な定理です。
その内容をまとめると、以下のようになります。
- 内容:正則関数の閉曲線上の積分は0になる
- 重要性:多くの定理の基礎となり、複素解析の根幹を支える
- 応用:物理学、工学、数学の様々な分野で活用されている
- 特徴:経路を自由に変形できる強力な性質
一見すると「積分が0になる」という単純な事実ですが、ここから複素解析の豊かな世界が広がっていきます。
正則関数は実数の関数とは全く異なる、驚くべき性質を持っているんですね。
コーシーの積分定理は、その美しさと応用の広さから、数学史上最も重要な定理の一つに数えられています。

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