将棋の歴史|古代インドから現代のAI時代まで、1500年の壮大な物語

将棋がどこで生まれ、どのように日本で発展してきたか、知っていますか?

実は、私たちが親しむ将棋には約1500年もの歴史があります。古代インドで誕生した「チャトランガ」というゲームがシルクロードを渡り、日本で独自の進化を遂げて今の形になりました。さらに驚くことに、将棋には「取った駒を自分の戦力として使える」という世界でも類を見ない独特のルールがあります。

この記事では、将棋の起源から江戸時代の家元制度、そして藤井聡太七冠が活躍する現代のAI時代まで、将棋の壮大な歴史を紐解いていきます。


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将棋とは?簡単なおさらい

将棋は、9×9マスの盤上で2人が対戦するボードゲームです。各プレイヤーは20枚の駒を持ち、相手の「玉将(王将)」を詰ませた方が勝ちとなります。

将棋の最大の特徴は「持ち駒」のルールです。相手から取った駒を自分の戦力として盤上に打てるため、終盤まで逆転の可能性が残ります。この独自のルールが、将棋を世界で最も複雑なボードゲームの一つにしています。


将棋の起源:古代インドの「チャトランガ」

すべての始まりはインドから

将棋のルーツは、紀元前200年〜紀元後600年頃に古代インドで遊ばれていた「チャトランガ」というゲームだと考えられています。

チャトランガには面白い伝説が残っています。ある王様は戦争ばかりしていたそうです。それを見かねた僧侶が、王様に別の楽しみを与えるためにチャトランガを考案したといわれています。戦争のシミュレーションをゲームで行うことで、実際の戦いへの欲求を満たそうとしたわけですね。

世界に広がったチャトランガの子孫たち

チャトランガは、シルクロードを通じて世界中に広まりました。

  • 西へ → ペルシャで「シャトランジ」となり、ヨーロッパで「チェス」に
  • 北へ → 中国で「象棋(シャンチー)」、朝鮮で「将棋(チャンギ)」に
  • 東へ → タイで「マークルック」、そして日本で「将棋」に

つまり、将棋とチェスは遠い親戚ということになります。どちらも「王を詰ます」という基本ルールは同じですが、それぞれの文化で独自の発展を遂げました。


日本への伝来と発展

平安時代:日本最古の将棋の記録

将棋がいつ日本に伝わったかは、はっきりとは分かっていません。ただし、中国または朝鮮半島を経由して伝来したというのが有力な説です。

日本最古の将棋に関する記録は、1058〜1064年頃に書かれた『新猿楽記』という文献です。この本には、平安京(現在の京都)に住む人々の暮らしが描かれており、その中に将棋を楽しむ様子が記されています。

また、奈良県の興福寺からは1058年頃のものとされる将棋の駒が16枚発掘されています。これらの駒はすでに五角形をしており、現代の将棋駒とよく似た形でした。

平安時代の将棋は今と違った

当時の将棋は「平安将棋」や「平安大将棋」と呼ばれ、現代の将棋とはルールが異なっていました。

興味深いのは、駒の名前です。奈良県立橿原考古学研究所の研究によると、平安将棋の駒には2つの要素が含まれているそうです。

  • チャトランガ由来:将(王)、象、馬、車、兵
  • 仏教の五宝:玉(宝石)、金、銀、桂(肉桂)、香

つまり、インドから伝わったゲームに、日本独自の仏教的な要素が加わったということですね。

中世:さまざまな将棋のバリエーション

13世紀頃になると、将棋は多様化していきます。

  • 大将棋:駒の数を増やした大型の将棋
  • 中将棋:大将棋を簡略化したもの(現在も愛好家がいます)
  • 小将棋:現代の将棋の原型

15〜16世紀(室町時代)には、小将棋から「醉象(すいぞう)」という駒が取り除かれ、現在の本将棋の形が完成したと考えられています。

いつ「持ち駒」ルールが生まれたのか

将棋を他のチェス系ゲームと決定的に分けるのが「持ち駒」のルールです。取った駒を自分の戦力として再利用できるこのルールは、15世紀頃に日本で独自に発明されたと推測されています。

一説によると、この時代の傭兵(ようへい)は、捕らえられると処刑されるのではなく、敵方に寝返ることがあったそうです。持ち駒ルールは、こうした戦国時代の現実を反映しているのかもしれません。


江戸時代:家元制度と将棋の黄金期

徳川幕府による保護の始まり

将棋の歴史において、大きな転換点となったのが江戸時代です。

1612年(慶長17年)、徳川幕府は将棋と囲碁の名人に俸禄(給料)を与え、正式に保護するようになりました。初代大橋宗桂(おおはし・そうけい)は五十石五人扶持を賜り、将棋家元の祖となります。

三つの家元「将棋三家」の誕生

やがて将棋界には、三つの家元が確立されました。

家元創始者輩出した名人数
大橋本家初代大橋宗桂4名
大橋分家初代大橋宗与2名
伊藤家初代伊藤宗看5名

これらの三家が「名人」の称号をめぐって切磋琢磨することで、将棋の技術は飛躍的に向上しました。

「名人」の重み

江戸時代の名人制度には、現代とは異なる特徴がありました。

  • 世襲制:三家の中から最も強い者が名人となる
  • 終生名人制:一度名人になれば、生涯その地位を保持

名人は単なる称号ではなく、将棋界の最高権威者でした。九段=名人であり、八段は「準名人」、七段は「上手(じょうず)」と呼ばれました。

江戸時代の名棋士たち

江戸時代を通じて、11人の名人が誕生しました。中でも特に有名なのが、以下の棋士たちです。

三代伊藤宗看(七世名人)は「鬼宗看」と呼ばれた最強の棋士です。23歳という若さで将棋所(名人位)に就き、「将棋無双」という詰将棋集を残しました。この作品は「詰むや詰まざるや」として有名な、超難解な詰将棋集です。

伊藤看寿(八段・贈名人)は宗看の弟で、「将棋図巧」という詰将棋集を作りました。兄の作品とともに、詰将棋をパズルから芸術の域に引き上げたと評価されています。

庶民への広がり

江戸時代には、将棋は庶民の間にも広く普及しました。川柳や浮世絵にも将棋を楽しむ人々の姿が描かれており、現代以上に日常生活に密着したゲームだったようです。

この庶民レベルでの定着が、明治以降の将棋の発展を支える基盤となりました。


明治から昭和:近代将棋界の誕生

家元制度の崩壊

1868年の明治維新により、徳川幕府が倒れると、将棋の家元制度も存続の危機を迎えます。

幕府の保護を失った三家の棋士たちは、市井の人々を相手に将棋界の再建を図りました。しかし、後継者に恵まれず、次々と家元が断絶していきます。

  • 大橋分家:1881年(明治14年)に断絶
  • 伊藤家:1893年(明治26年)に十一世名人・八代伊藤宗印が没し断絶
  • 大橋本家:1983年(昭和58年)に十五代で断絶

約300年続いた家元制度は、幕を閉じました。

新聞将棋の時代

家元制度崩壊後、将棋界を支えたのは新聞社でした。

新聞に将棋の対局が掲載されるようになると、将棋は新たなメディアとともに発展していきます。棋士たちも新聞社との契約によって生計を立てるようになりました。

実力制名人の誕生

大きな変革が起きたのは1935年(昭和10年)のことです。

当時の名人・関根金次郎十三世名人は、終生就位だった名人位を実力によって争う制度に改革することを決断しました。この英断により、1937年(昭和12年)に第1期実力制名人戦が始まります。

初代の実力制名人となったのは木村義雄でした。木村は「将棋の神様」とも呼ばれ、名人位を通算8期獲得しています。

日本将棋連盟の設立

1924年(大正13年)9月8日、東京の棋士たちが団結し「東京将棋連盟」を結成しました。これが現在の公益社団法人 日本将棋連盟の前身です。

名誉会長には関根金次郎、会長には土居市太郎が就任し、近代将棋界の組織的な基盤が整いました。


戦後から現代:大山・羽生・藤井の時代

大山康晴の時代

戦後の将棋界を支配したのは大山康晴十五世名人です。名人位を通算18期獲得し、69歳でA級棋士として活躍するなど、その強さは「将棋界の巨人」と呼ばれました。

羽生善治の七冠制覇

1996年(平成8年)、将棋界に衝撃が走りました。羽生善治が、当時存在した全七タイトルを同時に独占したのです。

この前人未到の偉業は「七冠制覇」として大きく報道され、将棋ブームを巻き起こしました。羽生は現在も現役で活躍しており、永世名人を含む永世七冠の資格を持っています。

将棋AIの衝撃

2010年代に入ると、将棋界は大きな転換期を迎えます。コンピュータ将棋(将棋AI)がプロ棋士を上回る強さを持つようになったのです。

特に2017年以降、ディープラーニング技術を活用した将棋AIが急速に進化しました。これにより、プロ棋士の研究方法も大きく変わりました。

藤井聡太の登場

そして現代、将棋界の話題の中心にいるのが藤井聡太七冠です。

2016年、史上最年少(14歳2か月)でプロ入りした藤井は、次々と記録を塗り替えていきます。

  • 2020年:史上最年少で二冠(棋聖・王位)
  • 2023年:史上初の八冠全冠制覇(21歳2か月)
  • 2024年:王座を失うも、七冠を維持

藤井の強さの秘密の一つが将棋AIの活用です。研究ツールとして「dlshogi」などの将棋AIを使いこなし、人間が思いもよらなかった手を発見しています。

AIとの関わりについて、ある永世名人は「藤井さんの棋力が飛び抜けていることが数値的にも確認できた」と語っています。AIの評価値と藤井の指し手を比較すると、その正確さが際立っているそうです。


将棋駒の聖地・天童市

将棋を語る上で欠かせないのが、山形県天童市です。

日本一の将棋駒産地

天童市は国内の将棋駒の約95%を生産する、まさに「将棋の聖地」です。

駒づくりが始まったのは江戸時代後期のこと。財政難に苦しんでいた天童織田藩が、藩士の内職として将棋駒の製作を奨励したのがきっかけでした。

当時、武士が内職をすることには反対もありましたが、藩の用人・吉田大八は「将棋は兵法戦術にも通じる。駒を作ることは武士の面目を傷つけるものではない」と説得したそうです。

天童将棋駒の種類

天童将棋駒には、さまざまな種類があります。

種類特徴価格帯
押し駒スタンプで文字を入れた普及品入門者向け
書き駒漆で直接文字を書いた伝統的な駒中級
彫り駒印刀で文字を彫り、漆を入れた駒中〜高級
彫埋駒彫った溝に漆を埋め込んだ駒高級
盛上げ駒漆で文字を浮き上がらせた最高級品最高級

プロのタイトル戦では、熟練の伝統工芸士が作った盛上げ駒が使用されています。1996年には、天童将棋駒が国の伝統的工芸品に指定されました。

人間将棋

天童市では毎年4月、桜の季節に「人間将棋」というユニークなイベントが開催されます。甲冑姿の武者や着物姿の腰元が駒となり、巨大な将棋盤の上でプロ棋士の指示に従って動くというものです。

約2,000本の桜が咲き誇る舞鶴山を舞台に行われるこのイベントは、4万人以上が訪れる一大行事となっています。


将棋の未来:AIと共に歩む道

将棋AIは味方か敵か

将棋AIがプロ棋士を上回る強さを持つようになった現在、「棋士の存在意義は?」という疑問が生まれることもあります。

しかし、将棋界はAIを敵ではなく味方として受け入れる道を選びました。

タイトル戦の中継では、AIの評価値がリアルタイムで表示され、視聴者は形勢を直感的に理解できるようになりました。棋士たちはAIを研究ツールとして活用し、これまで人間には発見できなかった新しい手を見つけています。

ある若手棋士は「AIは棋士の存在をおびやかすのではなく、人間と良い形で共存している」と語っています。

国際化への期待

将棋は日本独自の文化として発展してきましたが、近年は海外にも広がりを見せています。オンライン対局サイトを通じて、アメリカ、ヨーロッパ、アジア各国のプレイヤーが将棋を楽しんでいます。

駒に書かれた漢字が障壁になることもありますが、記号を使った「インターナショナル駒」も開発されており、将棋の国際普及は今後さらに進むと期待されています。


まとめ

将棋の歴史は、古代インドから始まり、約1500年の時を経て現代に至る壮大な物語でした。

  • 起源:古代インドのチャトランガ(紀元前200年〜紀元後600年頃)
  • 日本伝来:平安時代(11世紀頃)
  • 現代の形の完成:室町時代(15〜16世紀)
  • 家元制度:江戸時代(1612年〜明治時代)
  • 実力制名人:昭和12年(1937年)〜
  • AI時代:2010年代〜現在

将棋は時代とともに姿を変えながらも、知恵と戦略を競う楽しさという本質は変わっていません。

藤井聡太七冠の活躍やAI技術の進化により、将棋はいま新たな黄金期を迎えています。1500年の歴史を持つこのゲームが、これからどのように発展していくのか、とても楽しみですね。

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