花札から始まった世界的ゲーム企業「任天堂」の歴史

神話・歴史・伝承

マリオ、ゼルダ、ポケモン。これらの名前を聞いたことがない人は、もはやいないのではないでしょうか。

実は、これらを生み出した任天堂は、もともと京都の小さな花札屋からスタートした企業なのです。1889年に花札の製造を始めた一介の商店が、どのようにして世界中のゲームファンを魅了する企業へと成長したのか。その歴史をたどってみると、時代の変化を読み取る鋭い嗅覚と、「人を楽しませたい」という一貫した企業精神が見えてきます。

この記事では、任天堂の136年にわたる歴史を、創業期から最新のNintendo Switch 2まで、時代ごとに振り返っていきます。


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任天堂とは

任天堂株式会社は、京都府京都市に本社を置く世界的なゲーム企業です。

家庭用ゲーム機やゲームソフトの開発・製造・販売を主な事業とし、マリオやゼルダの伝説といった人気フランチャイズを数多く保有しています。

2024年12月時点で、主力機「Nintendo Switch」シリーズは全世界で1億5,000万台以上を出荷。
これはPlayStation 2、Nintendo DSに次ぐ、歴代3位の販売台数を記録しています。

社名の由来は「運を天に任せる」という意味とされていますが、歴史的な根拠ははっきりしていません。

3代目社長の山内溥は「人事を尽くして天命を待つのではなく、運を天に任せるという発想を積極的に取りたい」と解釈していました。


創業期:花札屋としての出発(1889年〜1929年)

山内房治郎の創業

任天堂の歴史は、1889年(明治22年)9月23日に始まります。

創業者の山内房治郎は、京都市下京区で「任天堂骨牌(かるた)」という花札の製造・販売店を開きました。当時22歳という若さでした。

房治郎は職人魂を持ち、商才にも長けた人物でした。花札の材料となる紙をミツマタの樹皮から手作りで製造し、品質にこだわった製品づくりを行います。やがて、京都の賭博場に高品質な花札を卸すことで販路を拡大していきました。

煙草王との提携

房治郎が事業を大きく発展させるきっかけとなったのが、「煙草王」と呼ばれた村井吉兵衛との提携です。煙草の景品として花札をつけることで、お互いの事業が拡大していきました。

また、1902年(明治35年)には、日本で初めてとなるトランプの製造にも着手。村井の持つ全国のタバコ販売網を活用して、トランプを全国に流通させることに成功します。この「流通網を重視する」という姿勢は、後の任天堂の企業哲学にも受け継がれていきました。

房治郎が引退する1929年頃には、任天堂は日本最大のトランプ製造業者となっていました。


山内家3代の経営(1929年〜2002年)

2代目・山内積良の時代

房治郎には跡継ぎとなる息子がいなかったため、1929年に最も優秀な従業員だった金田積良を婿養子として迎え入れました。山内姓を名乗るようになった積良は、2代目店主として事業を継承します。

積良は1933年に「合名会社山内任天堂」を設立。木造だった本店を鉄筋コンクリート4階建てのビルに改築するなど、近代的な経営体制を整えていきました。また、輸出業務にも進出し、不動産事業にも積極的に取り組みました。

1947年には販売会社「株式会社丸福」を設立。これが現在の法人としての「任天堂株式会社」の母体となっています。

3代目・山内溥の登場

任天堂を世界的ゲーム企業へと導いたのが、3代目社長の山内溥(やまうちひろし)です。

溥は1927年、山内家の4代目として生まれました。祖父母のもとで裕福に育ち、早稲田大学に進学。しかし大学4年生の時、祖父の積良が脳卒中で倒れたため、大学を中退して京都に呼び戻されます。

1949年、弱冠22歳で任天堂の社長に就任。賭博と結びつく花札屋という家業に当初は抵抗があったものの、約100人の従業員を抱える会社を継ぐのは自分しかいないと覚悟を決めました。

溥は2002年に退任するまで、53年間にわたって任天堂の舵取りを行います。

プラスチックトランプの成功

若き社長・山内溥が最初に成し遂げた革新が、1953年プラスチック製トランプの製造成功でした。

従来の紙製トランプは折れやすく、手の油が染み付くなどの欠点がありました。任天堂は1年以上かけて新素材を使ったトランプを考案。日本初となるプラスチック製トランプの量産に成功します。

価格は従来の倍近くになりましたが、高い品質が少しずつ認められ、売り上げは上昇。1959年にはディズニーキャラクターを使用したトランプを発売し、子どもたちの間で爆発的なヒットとなりました。


玩具メーカーへの転身(1960年代)

横井軍平との出会い

トランプ事業の成功で成長を続けた任天堂でしたが、1960年代に入ると限界が見え始めます。トランプは耐久性が高く、買い替え需要が少ないため、市場の拡大には天井がありました。

そんな中、任天堂の運命を大きく変える人物が現れます。1965年に入社した横井軍平です。

同志社大学電子工学科を卒業した横井は、当時の任天堂で初めての工学部卒業者でした。しかし、花札やトランプがメインだった任天堂には技術者の仕事はほとんどなく、電気設備の保守点検を任されていました。

ウルトラハンドの大ヒット

転機は偶然訪れます。

横井が暇つぶしに会社の機械を使って、格子状に伸び縮みするおもちゃを作って遊んでいたところ、社長の山内溥に見つかってしまいました。

処罰を覚悟した横井でしたが、山内の言葉は意外なものでした。

それをゲームとして商品化しろ

物をつかめるように改良を加えて1967年に発売された「ウルトラハンド」は、発売から2か月で40万台を販売。当時、玩具は10万台売れれば大ヒットと言われていた時代に、100万台以上を売り上げる大成功を収めました。

開発課の誕生

ウルトラハンドの成功をきっかけに、任天堂は開発課を新設します。

横井は次々とヒット商品を生み出していきました。ピンポン玉を打ち出す「ウルトラマシン」、簡易版嘘発見器「ラブテスター」、射撃玩具「光線銃シリーズ」など、数多くの玩具が任天堂から発売されました。

横井の開発哲学は「枯れた技術の水平思考」と呼ばれます。最先端の技術を追い求めるのではなく、すでに普及して安価になった技術を、今までとは違う使い方で新しい商品に活かすという考え方です。この発想は、後の任天堂のゲーム機開発にも深く根付いていきます。


ゲーム機時代の幕開け(1980年代)

ゲーム&ウオッチの誕生

任天堂がビデオゲームの世界へ本格的に踏み出すきっかけとなったのが、1980年に発売された「ゲーム&ウオッチ」です。

このアイデアが生まれたのは、ある日の新幹線の中でした。横井軍平は、サラリーマンが電卓で暇つぶしをしている光景を目にします。そこから「大人でも隠れて遊べる携帯ゲーム機」という構想が生まれました。

横井がこのアイデアを社長の山内に雑談で話したところ、山内はその日のうちに電卓メーカー・シャープの社長と話をつけ、開発が動き出しました。電卓用の液晶技術を活用した「枯れた技術の水平思考」の実践でした。

ゲーム&ウオッチは大ヒットし、8年間で約70機種を展開。4,800万台以上を販売しました。また、このシリーズで考案された「十字キー」は、後のゲームコントローラーの標準となります。

ドンキーコングとマリオの誕生

1981年には、任天堂のもう一人の天才が表舞台に登場します。宮本茂です。

当時、任天堂のアメリカ現地法人で在庫問題が発生し、新しいゲームを誰に作らせるかが議論されていました。横井軍平は、ハードウェア側ではなくソフトウェア側の人間に任せれば新しいゲームが作れるのではないかと考え、クリエイティブ課の宮本茂を推薦します。

宮本が開発したのが、1981年7月に稼働を開始したアーケードゲーム「ドンキーコング」でした。このゲームはアメリカで爆発的なヒットとなり、その中で初めて登場したキャラクターが、後の任天堂を代表するキャラクター「マリオ」です。


ファミリーコンピュータの衝撃(1983年〜)

家庭用ゲーム機への挑戦

1983年7月15日、任天堂は家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピュータ」(通称ファミコン)を発売しました。

当時、アメリカでは1983年のビデオゲーム市場の崩壊(いわゆる「アタリショック」)により、ゲーム業界全体が壊滅的な状況にありました。小売店はビデオゲームを「終わった流行」と見なし、在庫を投げ売りしている有様でした。

しかし日本では、14,800円という手頃な価格と、家庭でアーケードゲームが遊べるという魅力が受け、ファミコンは順調に普及していきます。

スーパーマリオブラザーズの革命

ファミコンの運命を決定づけたのが、1985年9月13日に発売された「スーパーマリオブラザーズ」でした。

宮本茂が手がけたこのゲームは、当時のゲーマーが見たことのないほど完成度の高い横スクロールアクションでした。パワーアップアイテム、ブロックを叩いてコインを集めるシステム、敵を踏んで倒すアクション。ゲームの基本文法を確立したとも言える革新的な作品でした。

スーパーマリオブラザーズは4,000万本以上を販売し、史上最も成功したゲームのひとつとなりました。

アメリカ市場への再挑戦

任天堂はアタリショック後のアメリカ市場に、ファミコンを「Nintendo Entertainment System」(NES)として投入することを決断します。

ビデオゲームというイメージを避けるため、「エンターテインメントシステム」という名称を採用。1985年のテスト販売を経て、1986年にアメリカ全土で発売されました。

NESは6,191万台を販売し、崩壊したアメリカのビデオゲーム市場を復活させる原動力となりました。また、サードパーティ開発者へのライセンス制度を確立するなど、ゲーム業界の新しいビジネスモデルを打ち立てました。


携帯ゲーム機と次世代機(1989年〜1990年代)

ゲームボーイの大成功

1989年4月21日、任天堂は携帯型ゲーム機「ゲームボーイ」を発売しました。

横井軍平が中心となって開発したゲームボーイは、カラー液晶技術がすでに存在していたにもかかわらず、あえてモノクロ液晶を採用。これにより低価格、長いバッテリー持続時間、高い耐久性を実現しました。まさに「枯れた技術の水平思考」の集大成でした。

本体に同梱された「テトリス」の存在も大きな成功要因となりました。このシンプルで中毒性の高いパズルゲームは、従来のゲーマー層だけでなく、大人や女性にも広く受け入れられました。

ゲームボーイシリーズは最終的に1億1,869万台を販売し、携帯ゲーム機市場を長年にわたって支配することになります。

スーパーファミコンの登場

1990年11月21日、任天堂は16ビットの次世代機「スーパーファミコン」を発売しました。

日本では発売後3日で売り切れとなり、1991年中頃までに160万台を販売する大ヒット。北米では「Super Nintendo Entertainment System」(SNES)として1991年に発売され、全世界で4,910万台以上を売り上げました。

スーパーファミコンでは「スーパーマリオワールド」「ゼルダの伝説 神々のトライフォース」など、数多くの名作が生まれました。

セガとの競争

1990年代前半、任天堂はセガとの激しい競争を繰り広げます。

セガのメガドライブ(北米名:Genesis)は「クールなゲーマー向け」というイメージ戦略で若者層を取り込み、北米市場でスーパーファミコンの強力なライバルとなりました。両社による「コンソール戦争」は、ゲーム業界全体の活性化につながりました。


3D時代への挑戦(1990年代後半〜2000年代初頭)

NINTENDO64の登場

1996年6月23日、任天堂は64ビット機「NINTENDO64」を発売しました。

本格的な3Dグラフィックスを実現したこのハードでは、「スーパーマリオ64」「ゼルダの伝説 時のオカリナ」といった歴史的名作が誕生しました。特にマリオ64は、3Dアクションゲームの手本となる革新的な作品でした。

しかし、ソニーのPlayStationとの競争では苦戦を強いられます。PlayStationがCD-ROMを採用したのに対し、任天堂はカートリッジ方式を維持。これにより、大容量のゲーム開発を望むサードパーティが離れていく結果となりました。

NINTENDO64の販売台数は約3,293万台にとどまり、PlayStationの1億台超には遠く及びませんでした。

ゲームキューブの時代

2001年9月14日に発売された「ニンテンドーゲームキューブ」は、任天堂初の光ディスク採用機となりました。

しかし、PlayStation 2の圧倒的な勢いの中で苦戦。販売台数は約2,174万台にとどまり、商業的には成功とは言えない結果に終わりました。


DSとWiiの革命(2004年〜2012年)

ニンテンドーDSの衝撃

ゲームキューブの苦戦を経て、任天堂は大きな方針転換を行います。

ソニーやマイクロソフトが高性能・高画質を追求する中、任天堂は「ゲームの遊び方」そのものを変えることに挑戦したのです。

2004年11月21日に発売された「ニンテンドーDS」は、2つの画面タッチスクリーンという斬新な入力方式を採用しました。

「脳を鍛える大人のDSトレーニング」などの実用ソフトが幅広い層に支持され、それまでゲームに縁のなかった中高年層にも普及。ニンテンドーDSシリーズは全世界で1億5,402万台を販売し、任天堂史上最も売れたゲーム機となりました。

Wiiの成功

2006年12月2日に発売された「Wii」は、さらに大胆な革新をもたらしました。

テレビに向かってリモコン型のコントローラー「Wiiリモコン」を振ることでゲームを操作するという、直感的な操作方法を採用。同時発売の「Wii Sports」は、ボウリングやテニスなどのスポーツを家族で楽しめるソフトとして大ヒットしました。

Wiiは「ゲームをしない人をゲーマーに変える」という任天堂の戦略を体現し、全世界で1億163万台を販売。任天堂の据え置き型ゲーム機として最大のヒットとなりました。

Wii Uの苦戦

2012年11月18日に発売された「Wii U」は、テレビ画面がなくても遊べるタブレット型コントローラー「GamePad」を採用しました。

しかし、コンセプトが消費者に伝わりにくく、また発売時にサードパーティのソフトが少なかったことも影響し、販売は低迷。全世界で約1,356万台にとどまり、任天堂の据え置き型ゲーム機としては最も売れなかった機種となりました。


Nintendo Switchの成功(2017年〜現在)

ハイブリッドコンソールの誕生

Wii Uの苦戦を教訓に、任天堂は再び革新的なゲーム機を世に送り出しました。

2017年3月3日に発売された「Nintendo Switch」は、据え置き機と携帯機を一体化したハイブリッドコンソールです。

テレビにつないで家庭で遊ぶこともできれば、本体を持ち出して外出先でも同じゲームを続けられる。この「いつでも、どこでも、誰とでも」というコンセプトは、現代のライフスタイルに完璧にマッチしました。

歴史的な販売記録

Nintendo Switchは発売直後から絶好調の売れ行きを見せます。

「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」「スーパーマリオ オデッセイ」「あつまれ どうぶつの森」といった大作ソフトが次々とヒット。2020年のコロナ禍では「あつまれ どうぶつの森」が世界的な巣ごもり需要と合致し、爆発的に売れました。

2024年12月時点で、Nintendo Switchシリーズは全世界で1億5,000万台以上を出荷。PlayStation 2、ニンテンドーDSに次ぐ、歴代3位の販売台数を記録しています。Wiiの販売記録も超え、任天堂史上最も成功した据え置き型ゲーム機となりました。


現在と未来:Nintendo Switch 2

新社長・古川俊太郎の時代

任天堂は現在、古川俊太郎社長の下で経営されています。

2013年に急逝した岩田聡社長、その後を継いだ君島達己社長を経て、古川は2018年6月に代表取締役社長に就任。

「任天堂の良いところを引き継ぎつつも、時代の流れに合わせ、変えるべきところは柔軟に変えていく」という姿勢で経営にあたっています。

Nintendo Switch 2の発売

2025年6月5日、任天堂はNintendo Switchの後継機となる「Nintendo Switch 2」を発売しました。

前機種の特徴であるハイブリッド設計を継承しつつ、処理性能を大幅に向上。発売からわずか4日間で全世界で350万台以上を販売し、任天堂史上最速の売り上げを記録しました。

日本だけでも約220万人が抽選に応募するなど、人気は加熱しています。

古川社長は「当社最速・最多ペースでの販売拡大」と評価し、2025年度の販売計画を1,900万台に上方修正しました。


任天堂の歩み:主要な出来事

出来事
1889年山内房治郎が京都で花札製造を開始。任天堂創業
1902年日本初のトランプ製造に着手
1953年日本初のプラスチック製トランプ製造に成功
1967年「ウルトラハンド」発売。玩具事業に進出
1980年「ゲーム&ウオッチ」発売
1983年「ファミリーコンピュータ」発売
1985年「スーパーマリオブラザーズ」発売
1989年「ゲームボーイ」発売
1990年「スーパーファミコン」発売
1996年「NINTENDO64」発売
2004年「ニンテンドーDS」発売
2006年「Wii」発売
2017年「Nintendo Switch」発売
2025年「Nintendo Switch 2」発売

まとめ

任天堂の136年の歴史は、「娯楽を通じて人を楽しませる」という一貫した企業精神の歴史でもあります。

花札からトランプ、玩具からビデオゲームへ。時代ごとに事業の形は変わっても、その根底にある「遊びへのこだわり」は変わっていません。

技術の進歩を追い求めるのではなく、「枯れた技術の水平思考」でアイデアを形にする。スペック競争に巻き込まれず、独自の遊び方を提案し続ける。

そんな任天堂らしさが、世界中のゲームファンを魅了し続けている理由なのかもしれません。

京都の小さな花札屋から始まった任天堂は、これからもゲームの未来を切り拓いていくことでしょう。

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