フランクフルトの歴史──ローマ時代から欧州金融の中心地へ

ヨーロッパに「マインハッタン」と呼ばれる街があることを知っていますか?

ドイツ中部を流れるマイン川のほとりに、ニューヨークを思わせる高層ビル群がそびえ立つ都市があります。それがフランクフルトです。

でも実は、この近代的な街並みの下には、2000年以上の歴史が眠っているんです。古代ローマの軍事拠点から始まり、カール大帝の宮廷、神聖ローマ皇帝の戴冠式場、そしてロスチャイルド家が築いた金融帝国の発祥地へ。フランクフルトの歴史は、まさにヨーロッパ史そのものといっても過言ではありません。

この記事では、フランクフルトが歩んできた2000年の歴史を、古代から現代まで詳しくご紹介します。

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フランクフルトとは

フランクフルト(正式名称:Frankfurt am Main)は、ドイツ・ヘッセン州に位置する都市で、人口約78万人を擁するドイツ第5の大都市です。

「Frankfurt am Main」とは「マイン川沿いのフランクフルト」という意味。

ドイツにはもうひとつ「オーデル川沿いのフランクフルト(Frankfurt an der Oder)」という都市があるため、区別するためにこう呼ばれています。

「フランクフルト」という名前の由来

「Frankfurt」という名前は「フランク人の渡し場」を意味します。

  • Frank:ゲルマン民族の一派「フランク人」
  • Furt:浅瀬・渡し場(英語のfordと同じ語源)

5世紀頃、フランク人がアレマン人を南方に追いやった際、この地にあった川の渡し場が「フランク人の渡し場」と呼ばれるようになったとされています。

また「frank」にはドイツ語で「自由」という意味もあり、「通行料なしで川を渡れる自由な渡し場」という解釈もあるようです。

古代──ローマ帝国の防衛拠点

フランクフルトの歴史は、紀元1世紀にまで遡ります。

ローマ人の入植

紀元83年頃、ローマ帝国は現在のフランクフルト中心部に軍事拠点を築きました。
場所は大聖堂の丘(Domhügel)と呼ばれる、マイン川の中の島のような高台です。

なぜこの場所が選ばれたのでしょうか?

川の氾濫から守られた高台であったこと、そして川を渡れる浅瀬があったことが大きな理由でした。軍事的にも経済的にも非常に有利な立地だったんですね。

当時の遺跡からは浴場の跡が発見されており、それなりに大きな施設があったことが推測されています。近くのニダ(現在のヘッダーンハイム地区)にはローマの都市も築かれていました。

ローマ撤退後

260年頃、ローマ帝国がライン川西岸まで国境線を後退させると、フランクフルトのローマ時代は終わりを告げます。

その後はアレマン人やフランク人といったゲルマン民族がこの地に住み着きました。

考古学的な発掘調査では、3世紀から7世紀にかけての豪華な副葬品を伴う墓が多数見つかっています。

フランクフルト大聖堂の地下からは、フランク人の王女と思われる少女の墓も発見されているんです。

中世初期──カール大帝とフランク王国

フランクフルトが歴史の表舞台に登場するのは、8世紀末のことです。

カール大帝の宮廷

794年、フランクフルトの名が初めて文書に記されました。カール大帝(シャルルマーニュ)がレーゲンスブルクの聖エメラム修道院に宛てた文書の中で、「Franconofurd(フランコノフルト)」という地名が登場したのです。

カール大帝は広大なフランク王国を巡行しながら統治していましたが、フランクフルトはその中でも特に長く滞在した都市のひとつでした。

794年には、フランクフルトで重要な教会会議が開催されています。この会議でカール大帝は、東方のビザンツ帝国で決議されたイコン崇拝に関する問題に異議を唱え、教皇に対しても自らが上位者であることを示しました。

フランク王国の分裂と東フランク王国

843年のヴェルダン条約によってフランク王国は三分割され、フランクフルトは東フランク王国(後のドイツの原型)に属することになります。

フランクフルトは「東フランク王国の主要な宮廷所在地」として重要な役割を果たすようになりました。国王や皇帝が頻繁に滞在し、帝国議会や教会会議が繰り返し開かれたのです。

中世──神聖ローマ帝国の聖地

神聖ローマ帝国にとって、フランクフルトは特別な意味を持つ都市でした。

皇帝選挙の地

1356年、神聖ローマ皇帝カール4世が「金印勅書」を発布しました。これは神聖ローマ帝国の「憲法」とも呼べる重要な文書です。

この金印勅書で定められた重要なことがあります。

  • 神聖ローマ皇帝は7人の選帝侯による選挙で選ばれること
  • 皇帝選挙の場所はフランクフルトと定められたこと

選帝侯とは、皇帝を選ぶ権利を持つ7人の有力諸侯のことです。マインツ大司教、ケルン大司教、トリーア大司教の3人の聖職者と、ボヘミア王、ライン宮中伯、ザクセン選帝侯、ブランデンブルク辺境伯の4人の世俗君主で構成されていました。

皇帝戴冠の地

1562年からは、皇帝の戴冠式もフランクフルトで行われるようになりました。

聖バルトロメオ大聖堂(通称カイザードーム)で選挙が行われた後、新皇帝は大聖堂から市庁舎(レーマー)まで歩き、そこで祝賀会が開かれました。

最後の戴冠式は1792年、ハプスブルク家のフランツ2世のものでした。彼は1806年のナポレオン戦争で神聖ローマ帝国を解散させることになる最後の皇帝です。

自由帝国都市としての発展

1220年、フランクフルトは「自由帝国都市」の地位を獲得しました。これは地方の諸侯ではなく、皇帝に直接従属する自治都市という意味です。

1372年には完全な帝国都市となり、独自の法律と行政システムを持つことができるようになりました。三十年戦争(1618-1648年)の間も中立を保ち、その富を維持することに成功しています。

近世──見本市都市から金融都市へ

フランクフルトの経済的繁栄は、中世の見本市から始まりました。

見本市の伝統

フランクフルトの秋の見本市は、11世紀には収穫祭として始まっていたとされます。1330年には、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世から春の見本市を開催する特権も与えられました。

見本市で多くの商人が集まるようになると、この街は商業と金融取引の中心地として発展していきます。16世紀初頭には、宗教改革者マルティン・ルターがフランクフルトを「ドイツ帝国の金と銀の穴」と呼んだほどでした。

オランダやフランスからプロテスタントの迫害を逃れてきた商人たちも多くフランクフルトに移り住み、卸売業や銀行業を発展させていったのです。

証券取引所の誕生

1585年、フランクフルトで公式な為替相場の決定が行われるようになりました。これがフランクフルト証券取引所の起源です。

世界で3番目に古い証券取引所として、アムステルダム、ロンドンと並ぶ国際金融市場へと成長していきました。

17世紀末には債券や社債の定期取引が始まり、商人でなくても資産を投資できる市場が形成されました。1707年には「商人代表」という公式の商業団体が設立され、1808年には商工会議所へと発展しています。

ロスチャイルド家の台頭

フランクフルトの金融史を語る上で欠かせないのが、ロスチャイルド家の存在です。

マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1744-1812年)は、フランクフルトのユダヤ人居住区「ユーデンガッセ」で生まれました。当初は古銭商として活動していましたが、やがてヘッセン選帝侯の財務代理人として頭角を現し、莫大な富を築いていきます。

マイヤーには5人の息子がおり、それぞれがロンドン、パリ、ウィーン、ナポリ、そしてフランクフルトで銀行業を展開しました。ロスチャイルド家は19世紀初頭にヨーロッパの王室への主要な資本提供者となり、フランクフルトはロンドン、パリと並ぶ国際金融センターへと発展したのです。

1820年には、フランクフルトで初めての株式(オーストリア国立銀行の参加証券)が取引されました。産業革命が進むにつれて株式取引が活発化し、アメリカ南北戦争中にはアメリカの債券も多数上場されています。フランクフルトは北軍への資金調達に大きく貢献したんです。

1848年革命──ドイツ民主主義の発祥地

1848年、フランクフルトはドイツ史上画期的な出来事の舞台となりました。

フランクフルト国民議会

1848年3月、ヨーロッパ各地で革命の嵐が吹き荒れていました。ドイツでも自由と民主主義、そして国民国家の統一を求める声が高まります。

同年5月18日、ドイツ初の自由選挙で選ばれた国民議会がフランクフルトのパウルス教会(聖パウロ教会)に集まりました。約600人の議員たちが、統一ドイツ国家のための憲法を起草しようとしたのです。

この「フランクフルト国民議会」は、ドイツ史上初めての全ドイツ議会でした。

基本的人権の誕生

フランクフルト国民議会の最大の功績は、1848年12月21日に採択された「ドイツ国民の基本権に関する帝国法」です。

これによりドイツで初めて、人権と市民権が法的拘束力を持つものとなりました。議会は以下のような権利を保障しようとしました。

  • 法の前の平等
  • 貴族の特権の廃止
  • 農奴制の廃止
  • ユダヤ人への差別の禁止
  • 報道・表現の自由
  • 信教と良心の自由
  • 研究・教育の自由
  • 集会の自由

挫折と遺産

しかし、フランクフルト国民議会は挫折に終わります。

1849年3月、議会はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に帝冠を提供しましたが、王は「溝から差し出された冠」として拒否しました。議会から与えられる権力ではなく、諸侯から与えられる権威しか認めないという保守的な姿勢を示したのです。

プロイセンとオーストリアという大国の支持を失った議会は、1849年5月に事実上解散。革命は失敗に終わりました。

しかし、フランクフルト国民議会の遺産は消えませんでした。ここで起草された基本権は、1919年のワイマール憲法に受け継がれ、さらに1949年のドイツ連邦共和国基本法(現在の憲法)にも、ほぼ同じ文言で盛り込まれているのです。

パウルス教会は今日、「ドイツ民主主義の揺籃の地」として大切に保存されています。

ナチス時代と第二次世界大戦

20世紀のフランクフルトは、激動の時代を迎えます。

ユダヤ人コミュニティの破壊

第二次世界大戦以前、フランクフルトにはドイツ最大のユダヤ人コミュニティがありました。約3万人のユダヤ人が暮らし、市の人口の約5%を占めていたのです。

1933年にナチスが政権を握ると、ユダヤ人市長ルートヴィヒ・ラントマンはナチス党員に交代させられました。ユダヤ人の公務員は全員解雇され、ユダヤ人商店のボイコットが組織的に行われるようになります。

1938年11月の「水晶の夜(クリスタルナハト)」では、フランクフルトのほとんどのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)が破壊されました。その後、9000人以上のユダヤ人が強制収容所に送られ、命を落としました。

空襲による壊滅

フランクフルトは重要な産業・交通の中心地であったため、連合軍の激しい空襲を受けました。

1944年3月22日の英国軍による大規模空襲では、旧市街がほぼ全焼し、1001人の市民が命を落としました。第二次世界大戦中の空襲全体で約5500人が犠牲となり、当時ドイツ最大の中世都市であった旧市街は、ほぼ完全に破壊されてしまったのです。

解放と占領

1945年3月26日、米軍がフランクフルトに到達。激しい市街戦の末、3月29日に街は解放されました。

終戦後、フランクフルトは米軍占領地域の本部となります。西ドイツの首都選定では、コンラート・アデナウアー首相が推したボンにわずかな差で敗れましたが、フランクフルトのために建設されていた議事堂は、現在もヘッセン放送局の建物として使われています。

戦後復興──近代都市への変貌

第二次世界大戦後、フランクフルトは劇的な変貌を遂げました。

復興の選択

多くのドイツの都市が中世の街並みを再現する方向で復興したのに対し、フランクフルトはより近代的なアプローチを選択しました。

迅速な復興のため、シンプルでモダンな建築様式が好まれ、戦前の姿とは大きく異なる街並みが形成されていったのです。最初に再建された建物は、ドイツ民主主義の象徴であるパウルス教会でした。1948年、議会開催から100周年を記念して再オープンしています。

高層ビル都市の誕生

1960年代から70年代のドイツ経済の奇跡(経済復興)の時代、フランクフルトでは銀行オフィスの需要が急増しました。戦災で更地となった土地を活用し、ドイツでは珍しい高層ビル群が建設されるようになったのです。

1997年に完成したコメルツバンク・タワー(259m)は、現在もフランクフルトで最も高いビルです。このビルはノーマン・フォスター設計による「環境に配慮した高層ビル」の先駆けで、9つの冬庭園がらせん状に配置され、窓が実際に開く構造になっています。

旧市街の再建

近代化を進めたフランクフルトでしたが、2017年に「新旧市街(Neue Altstadt)」と呼ばれるプロジェクトが完成しました。

大聖堂と市庁舎を結ぶエリアに、戦前の姿を再現した35棟の建物が建てられたのです。中には元の建材を使って忠実に復元されたものもあり、失われた中世の雰囲気を現代に伝えています。

レーマー広場周辺のカラフルな木組みの家々は、実は1986年に再建されたものなんです。

現代──欧州金融の中心地マインハッタン

今日のフランクフルトは、ヨーロッパ大陸最大の金融センターとして君臨しています。

欧州中央銀行の本拠地

1998年、フランクフルトに欧州中央銀行(ECB)が設立されました。ユーロ圏の金融政策を担う中央銀行がこの地に置かれたことで、フランクフルトはEUの4つの「制度的拠点」のひとつとなったのです(他の3つはブリュッセル、ルクセンブルク、ストラスブール)。

2014年には、マイン川沿いの旧青果市場跡地にECBの新本部が完成。185mと165mの2つのタワーが歴史的な市場建物を取り囲むユニークなデザインは、フランクフルトのスカイラインに新たなシンボルを加えました。

ちなみに、建設工事中や完成後も、不発弾が発見されることがあります。第二次世界大戦の爪痕は、今も街の下に眠っているのです。

「マインハッタン」と「バンクフルト」

現在、フランクフルトには43棟の100m超の高層ビルが建っており、そのうち20棟は150mを超えています。ドイツの超高層ビルトップ15のうち、すべてがフランクフルトに集中しているんです。

この特異なスカイラインから、フランクフルトは「マインハッタン」(マイン川とマンハッタンをかけた造語)や「バンクフルト」(銀行の街という意味)と呼ばれるようになりました。

2016年のBrexit(英国のEU離脱)決定後、ロンドンからの金融機関移転先として注目が集まり、高層ビル建設ラッシュが続いています。コメルツバンク・タワーは、ロンドンのザ・シャードを抜いて一時的にEU最高層の建物となりました。

現代のフランクフルトの姿

今日のフランクフルトは、多面的な顔を持つ国際都市です。

  • 人口:約78万人(ドイツ第5の都市)
  • 都市圏人口:580万人以上(ドイツ第2の大都市圏)
  • 金融:ドイツ連邦銀行、欧州中央銀行、ドイツ銀行、コメルツ銀行などの本拠地
  • 交通:フランクフルト空港はドイツ最大、ヨーロッパでも有数の国際空港
  • 見本市:自動車ショー、書籍見本市など、中世からの伝統を受け継ぐ
  • 文化:ゲーテの生誕地、世界的な美術館群、オペラハウス

フランクフルト年表

年代出来事
紀元前1世紀ケルト人とゲルマン人の居住地が存在
83年頃ローマ軍が軍事拠点を設置
260年頃ローマ帝国の国境後退により撤退
794年カール大帝の文書に「Franconofurd」として初登場
843年東フランク王国の主要な宮廷所在地となる
1220年自由帝国都市の地位を獲得
1330年神聖ローマ皇帝から春・秋の見本市特権を獲得
1356年金印勅書により皇帝選挙の地に指定
1372年完全な帝国都市となる
1562年皇帝戴冠式がフランクフルトで行われるようになる
1585年フランクフルト証券取引所の設立
1792年最後の皇帝フランツ2世の戴冠式
1806年ナポレオン戦争により神聖ローマ帝国が消滅
1848年フランクフルト国民議会がパウルス教会で開催
1866年プロイセンに併合され自由都市の地位を失う
1944年連合軍の空襲により旧市街がほぼ全焼
1945年米軍による解放
1949年西ドイツ首都選定でボンに敗れる
1998年欧州中央銀行の本部設立
2017年「新旧市街」プロジェクト完成

まとめ

フランクフルトは、2000年以上の歴史を持つヨーロッパ有数の古都です。

重要なポイント

古代〜中世

  • ローマ帝国の軍事拠点として紀元1世紀に始まる
  • カール大帝の宮廷が置かれた重要都市
  • 神聖ローマ帝国の皇帝選挙・戴冠式の地として600年以上機能

近世〜近代

  • 中世の見本市から発展した国際商業都市
  • 1585年に設立された世界で3番目に古い証券取引所
  • ロスチャイルド家を輩出した国際金融センター
  • 1848年のドイツ初の国民議会開催地(ドイツ民主主義の発祥地)

現代

  • 第二次世界大戦で壊滅的被害を受けるも近代都市として復興
  • 欧州中央銀行の本拠地としてEUの制度的拠点のひとつ
  • 「マインハッタン」と呼ばれる高層ビル群が特徴

古代ローマの防衛拠点から、カール大帝の宮廷、神聖ローマ帝国の聖地、そして現代のヨーロッパ金融の心臓部へ。フランクフルトの歴史は、ヨーロッパ文明そのものの歩みを映し出しています。

第二次世界大戦で中世の街並みを失いながらも、パウルス教会に象徴される民主主義の精神と、ロスチャイルド家以来の金融の伝統を守り続けてきたこの街。訪れる機会があれば、高層ビルの足元に眠る2000年の物語に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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