「長州征伐に将軍自ら出陣するべきではない」
幕末の政局が緊迫する中、幕府の老中としてこの意見を貫き、罷免された大名がいました。
信濃高島藩第9代藩主、諏訪忠誠(すわ ただまさ)です。
忠誠は、寛政の改革を主導した名宰相・松平定信を外祖父に持つ名門の出身。若くして幕府の要職を歴任し、老中にまで上り詰めた人物でした。
しかし、その栄達の道は長州征伐への反対によって一変します。老中を罷免された後、戊辰戦争では新政府軍に属し、維新後は諏訪大社の宮司として神職の道を歩むことになるのです。
この記事では、幕府重臣から神職へと数奇な運命を辿った「諏訪忠誠」の生涯について詳しくご紹介します。
概要
諏訪忠誠は、江戸時代末期の譜代大名であり、幕府老中を務めた人物です。
信濃国高島藩(諏訪藩とも呼ばれる)の第9代藩主として、幕末の政局に深く関わりました。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 文政4年(1821年)5月9日 |
| 没年 | 明治31年(1898年)2月19日 |
| 享年 | 78歳 |
| 藩 | 信濃高島藩(3万石) |
| 官位 | 従四位下・因幡守、侍従(死後正三位追贈) |
| 幕府役職 | 若年寄、寺社奉行、老中 |
| 爵位 | 子爵(明治17年) |
高島藩は諏訪湖の東岸に位置し、甲州街道と中山道を結ぶ交通の要衝でした。藩の石高は約3万石で、譜代大名として江戸幕府を支えた家柄です。
忠誠の人生で特筆すべきは、幕府政治の中枢で活躍した時期があるということ。若年寄、寺社奉行を経て老中にまで昇進しましたが、長州征伐への反対により罷免されます。
その後、戊辰戦争では新政府軍に属し、明治維新後は諏訪大社の宮司を務めるなど、武士から神職へと転身した興味深い人物でもあります。
偉業・功績
諏訪忠誠の功績は、幕府政治での活躍と、維新後の神職としての活動に大別されます。
幕府要職への昇進
忠誠は、外祖父・松平定信の期待通り、幕府の要職を歴任しました。
幕府での経歴(詳細年表)
- 万延元年(1860年):若年寄に就任
- 文久2年(1862年)10月9日:寺社奉行に転任
- 同年11月11日:若年寄に再任
- 同年12月18日:勝手掛及び外国御用取扱を兼務
- 元治元年(1864年)6月18日:若年寄御役御免
- 同年6月29日:老中格に異動
- 同年7月23日:老中に昇進
- 同年9月1日:従四位下に昇叙
- 同年10月13日:外国御用取扱を兼務
- 同年11月10日:侍従を兼任
- 慶応元年(1865年)4月19日:老中免職
若年寄時代から外国事務に携わっており、開国後の難しい外交問題に取り組んでいました。横須賀製鉄所の建設問題や、諸外国との条約交渉などにも関与しています。
外国事情に明るかったことが、後の長州征伐反対につながったとも考えられます。
長州征伐への反対
忠誠の政治姿勢を最もよく表しているのが、長州征伐への反対でしょう。
慶応元年(1865年)、将軍・徳川家茂が長州征伐のため自ら出陣しようとした際、忠誠はこれに強く反対しました。同じ立場だった長岡藩主・牧野忠恭とともに、将軍の親征は時期尚早であると主張したのです。
この反対意見は受け入れられず、忠誠は老中職を罷免されてしまいます。
結果的に第二次長州征伐は幕府軍の敗北に終わり、幕府の権威は大きく失墜しました。忠誠の慎重論は、ある意味で先見の明があったと言えるかもしれません。
戊辰戦争での活動
慶応4年(1868年)5月24日、忠誠は隠居して養嗣子の忠礼に家督を譲りました。
同年の戊辰戦争では、高島藩は新政府軍に加わっています。東山道先鋒総督府の指揮下で、甲州勝沼の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦しました。
赤報隊の処刑にも関わったとされ、新政府軍の一翼として活動したことが記録に残っています。
神職としての晩年
維新後の忠誠は、意外な道を歩むことになります。
明治24年(1891年)2月、諏訪神社(現在の諏訪大社)の宮司に就任したのです。諏訪家はもともと諏訪大社の大祝(おおほうり)を務めた家柄。江戸時代には武家と社家が分離していましたが、忠誠は再び神職の世界に戻ったわけです。
明治26年(1893年)12月に諏訪神社宮司を辞任した後、明治28年(1895年)8月には東京の芝大神宮の社司にも就任しています。
系譜・出生
諏訪忠誠は、日本でも屈指の名門に生まれました。
諏訪家の歴史
諏訪氏は、信濃国諏訪地方を本拠とした名族です。
諏訪大社上社の大祝を代々務めてきた家柄で、その出自は諏訪大社の祭神・建御名方神(たけみなかたのかみ)の子孫とも伝えられています。皇室や公家の血筋を称する武家が多い中で、神の血筋を称しながら尊貴な家系とみなされた特異な存在でした。
戦国時代、武田信玄の侵攻により諏訪宗家は滅亡しますが、一族の諏訪頼忠が天正10年(1582年)に旧領を回復。関ヶ原の戦い後、その子・諏訪頼水が高島藩主となり、以後10代にわたって藩主を務めました。
松平定信との血縁
忠誠の血筋で注目すべきは、外祖父が松平定信だということです。
松平定信は、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物。老中首座として寛政の改革を主導した名宰相として知られています。
忠誠の母は定信の娘であり、忠誠は定信の外孫にあたります。定信は忠誠の人となりを見て「将来有望である」と太鼓判を押したと伝えられています。この予想通り、忠誠は幕府の要職を歴任することになりました。
松平定信の子孫からは、真田幸貫、板倉勝静など複数の老中が輩出されており、忠誠もその一人なのです。
家族関係
忠誠は、第8代藩主・諏訪忠恕(ただみち)の長男として、文政4年(1821年)に江戸で生まれました。
天保11年(1840年)、父の隠居に伴い家督を相続。このとき忠誠は20歳でした。
妻について
忠誠は生涯に三度の婚姻をしています。
- 正室:松平範熙(西尾藩主、第38代京都所司代)の娘
- 継室:松平康任(第40代京都所司代)の娘
- 三室:朽木綱条(福知山藩主)の娘
いずれも名門大名家の娘を迎えており、忠誠の家格の高さがうかがえます。
慶応4年(1868年)には養嗣子の忠礼(甥にあたる)に家督を譲りましたが、明治11年(1878年)10月に忠礼が26歳で死去したため、再び家督を相続しています。
明治31年(1898年)の死後、家督は娘婿の忠元(新発田藩主・溝口直溥の十四男)が継ぎました。
墓所
忠誠の墓所は、東京都文京区にある吉祥寺(諏訪家の菩提寺)にあります。
姿・見た目
諏訪忠誠の容姿について、詳細な記録は多く残されていません。
肖像画と写真
幕末から明治にかけて活躍した人物ですので、写真が残っている可能性はあります。ただし、広く一般に流通している肖像画や写真は確認されていません。
幕府の老中を務めた時期には、正装として裃(かみしも)を着用していたでしょう。明治以降は洋装も取り入れたと推測されます。
神職としての装束
諏訪大社宮司や芝大神宮社司を務めた時期には、神職の装束を身につけていました。
78歳まで長寿を保ったことから、晩年は白髪の穏やかな老人だったのではないでしょうか。武士から神職へ転身した人生が、その風貌にも表れていたかもしれません。
特徴
諏訪忠誠の人となりについて、いくつかの特徴が浮かび上がってきます。
外祖父譲りの政治的見識
忠誠の最大の特徴は、政治的な見識の高さでしょう。
外祖父・松平定信が「将来有望」と評したように、若くして幕府の要職を歴任しました。特に外国御用取扱として国際情勢に通じていたことが、幕末の難しい政局を読む力につながったと考えられます。
長州征伐への反対は、当時としては幕府に逆らう危険な行為でした。しかし結果的に第二次長州征伐は惨敗に終わっており、忠誠の慎重論には一定の妥当性があったと言えます。
柔軟な処世術
忠誠のもう一つの特徴は、時代の変化に適応する柔軟性です。
幕府の老中として佐幕派の立場にありながら、戊辰戦争では新政府軍に属しました。さらに維新後は武士を捨てて神職に転身しています。
これを「変節」と見るか「柔軟性」と見るかは評価が分かれるところですが、結果的に78歳まで長寿を全うし、諏訪家を存続させたのは事実です。
先祖への回帰
晩年に諏訪大社宮司を務めたことは、先祖への回帰とも言えるでしょう。
諏訪家はもともと諏訪大社の大祝を務めた神職の家系。江戸時代には武家と社家が分離していましたが、忠誠は維新後に再び神職の世界に戻りました。
武士としての人生を終え、先祖代々の神職に立ち返る——これは忠誠なりの人生の締めくくり方だったのかもしれません。
伝承
諏訪忠誠の時代には、いくつかの重要な出来事がありました。
天狗党の乱と和田峠の戦い
元治元年(1864年)、忠誠が老中に就任した年、大きな事件が起こります。
武田耕雲斎率いる水戸天狗党(総勢約1,000人の浪士)が京を目指し、10月20日には諏訪藩領内の和田峠を越えようとしました。
幕府は諏訪藩と隣の松本藩に出兵を命じ、両藩合わせて約2,000人が和田峠で迎撃しました。しかし結果は敗北。藩兵6名の犠牲者を出しながらも、天狗党の通過を許してしまったのです。
この和田嶺合戦(樋橋戦争)は、忠誠にとって苦い経験となったことでしょう。
甲州勝沼の戦いと高島藩
戊辰戦争において、高島藩は東山道先鋒総督府の指揮下で活動しました。
慶応4年(1868年)3月、板垣退助率いる東山道軍は諏訪から甲州街道に分かれ、甲府城を目指します。一方、新選組改め甲陽鎮撫隊を率いる近藤勇も甲府城を目指していました。
結果的に板垣軍が先に甲府城に入城し、甲州勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊を撃破。高島藩もこの東山道軍の一翼を担っていたのです。
戦後の恩賞
戊辰戦争での功績により、高島藩には賞典金2,000両が与えられました。
新政府軍として北越戦争・会津戦争にも参戦した高島藩は、維新の勝者側として新時代を迎えることができたのです。
出典・起源
諏訪忠誠に関する主な史料をご紹介します。
一次史料
藩政関連文書
高島藩の藩政に関する文書や記録が、長野県立歴史館や諏訪市博物館などに所蔵されています。
幕府役職関連史料
老中・若年寄などの幕府役職に関する記録は、国立公文書館などに所蔵される幕府関係史料から確認できます。
華族関連史料
明治17年(1884年)7月に子爵に叙せられた経緯など、華族関連の記録も残されています。
参考文献
辞典・事典類
- 『ブリタニカ国際大百科事典』
- 『日本人名大辞典』(講談社)
- 『世界大百科事典』(平凡社)
これらの文献に、諏訪忠誠の経歴が記載されています。
関連施設
諏訪忠誠や高島藩について知りたい方は、以下の施設が参考になります。
- 高島城(長野県諏訪市):復元天守内に藩政時代の資料を展示
- 諏訪市博物館(長野県諏訪市):諏訪の歴史と文化を紹介
- 諏訪大社(長野県諏訪市・茅野市・下諏訪町):諏訪家ゆかりの神社
- 温泉寺墓所(長野県諏訪市):高島藩主諏訪家の菩提寺、国史跡に指定
まとめ
諏訪忠誠は、幕府老中から諏訪大社宮司へと数奇な運命を辿った人物でした。
重要なポイント
諏訪忠誠の78年の生涯を振り返ると、以下の点が特に重要です。
まず、外祖父・松平定信の血を引く名門の出身だったこと。定信から「将来有望」と評された忠誠は、その期待通り若年寄、寺社奉行、老中と幕府の要職を歴任しました。
次に、長州征伐への反対により老中を罷免されたこと。将軍の親征に異を唱えた忠誠は幕府から遠ざけられましたが、結果的に第二次長州征伐は幕府の敗北に終わりました。
そして、戊辰戦争では新政府軍に属し、維新後は諏訪大社宮司として神職の道を歩んだこと。武士から神職へ——先祖の原点に回帰するような晩年でした。
時代を映す鏡
諏訪忠誠の人生は、幕末維新という激動の時代を映す鏡のようです。
幕府の重臣として政治の中枢にいながら、その幕府の崩壊を目の当たりにする。そして新しい時代には、武士ではなく神職として生きる道を選ぶ——。
一人の人間がこれほど劇的な変化を経験した時代は、日本史上でもそう多くはありません。
諏訪を訪れる機会があれば、高島城や諏訪大社で、激動の78年を生きた忠誠のことを思い出してみてください。幕府老中から神職へ、その数奇な人生が、少しだけ身近に感じられるかもしれません。


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