「新選組一番隊組長」「天才剣士」「薄幸の美少年」——沖田総司ほど、多くの呼び名で語られる幕末の剣士はいないかもしれません。
わずか27歳(諸説あり)で病に倒れたこの若き剣士は、現代においてもアニメやゲーム、小説で絶大な人気を誇ります。しかし、実際の沖田総司はどのような人物だったのでしょうか。
この記事では、史実に基づく沖田総司の生涯から、「美少年伝説」の真相、そして現代の創作における沖田像まで、徹底的に解説していきます。
沖田総司の概要
沖田総司(おきた そうじ)は、幕末に活躍した武士であり、新選組一番隊組長および撃剣師範を務めた人物です。
本姓は藤原を称し、諱(いみな)は春政、のちに房良(かねよし)と改めました。幼名は宗次郎(そうじろう)で、これが「総司」の由来となっています。
天然理心流の剣術を極め、新選組内でも随一の剣の使い手として知られましたが、肺結核を患い、慶応4年(1868年)5月30日に亡くなりました。
沖田総司の生涯
出生と幼少期
沖田総司は天保13年(1842年)または天保15年(1844年)の夏、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎の長男として、江戸の白河藩屋敷(現在の東京都港区西麻布)で生まれました。
生年については2つの説があり、現在も確定していません。「沖田家文書」では没年が25歳とあり、沖田家の家伝では満25歳、数え27歳と伝わっています。生まれた日付も夏であったということしか分かっておらず、誕生日すら謎に包まれた人物なのです。
父・勝次郎は弘化2年(1845年)に死去したため、長男であった総司は幼少のため跡目相続ができませんでした。沖田家は姉のみつが婿養子・井上林太郎を迎えて相続しています。
試衛館への入門と剣術修行
9歳頃、総司は江戸市谷にあった天然理心流の道場「試衛館」に内弟子として入門しました。道場主は近藤周助で、のちに新選組局長となる近藤勇の養父にあたる人物です。
試衛館には、近藤勇、土方歳三、井上源三郎といった、のちの新選組結成の中核となる面々が在籍していました。総司は彼らと同門として剣を磨いていったのです。
幼い頃から剣術の才能を発揮した総司は、12歳の頃には白河藩の剣術指南役と対戦して勝ったという逸話も残されています。19歳で免許皆伝を許され、師範代として後進の指導にあたるようになりました。
その腕前について、同門の永倉新八は後年こう語っています。
「沖田にかかれば土方や、北辰一刀流の目録を持っていた藤堂平助など子ども扱いで、本気になれば師匠の近藤さんにも勝っただろう」
浪士組から新選組へ
文久3年(1863年)、江戸幕府は将軍・徳川家茂の上洛警護のため「浪士組」を募集しました。総司は近藤勇、土方歳三らとともにこれに参加し、京都へ向かいます。
しかし、浪士組の発起人・清河八郎が尊王攘夷を掲げて幕府に背く姿勢を見せたため、近藤らはこれに反発して京都に残留することを決意しました。
残留組は京都守護職・会津藩のお預かりとなり、「壬生浪士組」を結成します。これがのちの新選組の前身です。同年8月の「八月十八日の政変」での警備活動が認められ、「新選組」の名を拝命しました。
一番隊組長としての活躍
総司は新選組において一番隊組長に任命されました。一番隊は精鋭が集められた最重要部隊であり、戦闘時には真っ先に斬り込む役割を担います。同時に撃剣師範として隊士たちの剣術指導も行いました。
彼が関わったとされる主な事件は以下の通りです。
文久3年(1863年)9月 芹沢鴨暗殺
新選組の初代筆頭局長・芹沢鴨は、その乱暴な振る舞いから会津藩の信頼を失っていました。総司は土方歳三、山南敬助らとともに芹沢一派の粛清に参加したとされています。
元治元年(1864年)6月5日 池田屋事件
尊王攘夷派の志士たちが京都で大規模な放火テロを計画しているとの情報を得た新選組は、彼らが集う池田屋に踏み込みました。総司は近藤らとともに最初に突入した一人です。
この戦闘中、総司は喀血により戦線を離脱したと伝えられています。ただし、これが肺結核の初発症状だったのか、単なる体調不良だったのかについては諸説あります。
慶応元年(1865年)2月 山南敬助の追跡
新選組総長・山南敬助が脱走した際、総司は追っ手として差し向けられ、近江大津で山南を捕らえました。山南は沖田の介錯で切腹しています。
総司は山南を兄のように慕っていたとされますが、故郷への手紙では山南の死について軽く触れるに留めており、実際の関係性については不明な点も多いです。
病との闘いと最期
慶応3年(1867年)以降、総司の体調は悪化の一途をたどりました。第一線で活躍することはなくなり、療養生活に入ります。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いには参加できず、大坂に護送されました。戊辰戦争の開戦後も戦線に復帰することはできず、江戸に戻った後は幕府の医師・松本良順の診療を受けながら、千駄ヶ谷の植木屋・柴田平五郎の離れで療養生活を送りました。
同年4月、敬愛する近藤勇が新政府軍に捕らえられ、板橋で斬首されましたが、総司にはその事実は伝えられませんでした。周囲の者たちは、病床の総司を案じて近藤の死を隠し通したのです。
慶応4年5月30日(1868年7月19日)、沖田総司は肺結核により、一人静かに短い生涯を閉じました。
子母沢寛の『新選組始末記』によれば、最期の頃、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗した総司は、付添いの老婆に「ああ、斬れない。婆さん、俺は斬れないよ」と嘆いたといわれています。ただし、この逸話は子母沢寛による創作である可能性が高いとされています。
墓は東京都港区元麻布の専称寺にあり、現在は一般公開されていません。毎年7月に沖田総司忌が行われています。
沖田総司の剣術「三段突き」
三段突きとは
沖田総司の剣技で最も有名なのが「三段突き」です。正式名称は「無明剣(むみょうけん)」とも呼ばれています。
日野の佐藤俊宣(土方歳三の甥)の遺談によると、この技は次のように伝えられています。
「平正眼(天然理心流では『平晴眼』と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出した」
つまり、相手が一突きを受けたと思った瞬間には、すでに三度突かれていたという、目にも止まらぬ速さの技だったのです。
三段突きの諸説
三段突きについては、以下のような諸説があります。
- 急所三点を突く説:頭、喉、みぞおちの三ヶ所を素早く突く
- 突く・引く・突くの連続動作説:突いて引いてまた突くという三連動作
- 天然理心流の流儀説:突き技は必ず三本出すという流派の決まりに基づく
子母沢寛の『新選組始末記』には、天然理心流の突きについて次のような記述があります。
「この流の『突き』は必らず三本に出る。しかも刀の刃を下とか上とかへ向けていく大ていの剣法と違って、刀を平らに寝せて、刃は常に外側に向け、突いて出てもし万に一つ突き損じても、何処かを斬るという法をとった」
つまり、三段突きは沖田総司だけの技ではなく、天然理心流の流儀だったという見方もあります。ただし、総司の突きは「足拍子三つが続けて一つに聞こえ、三本の突きが一つの技のように見えた」と称されるほど、群を抜いて速かったのです。
沖田総司の剣術の特徴
佐藤彦五郎の長男・佐藤俊宣の談話によれば、総司の剣術の形は師匠の近藤勇とそっくりで、掛け声までがよく似た腹の底に響く甲高い声であったといいます。
ただし、構えには違いがあり、総司は太刀先がやや下がり気味で前のめりの姿勢をとる癖があったとされています。
新選組外部からも、総司の腕前は高く評価されていました。
- 小島鹿之助(新選組結成前の文久2年):「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」
- 西村兼文(新選組に批判的な人物):「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」「天才的剣法者」
- 阿部十郎(新選組と敵対した御陵衛士):「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」
敵味方を問わず「強かった」と認められていたことが、これらの証言から分かります。
沖田総司の容姿——「美少年伝説」の真実
実際の容姿に関する証言
現代において、沖田総司は「薄幸の美少年」「色白の美青年」というイメージで語られることが多いですが、実際はどうだったのでしょうか。
残念ながら、沖田総司の写真は一枚も現存していません。若くして亡くなったことも影響しているでしょう。
実際に総司を見た人々の証言を見てみましょう。
八木為三郎の証言(壬生村の八木邸の当主。新選組が屯所にした家の人物)
「沖田総司は、二十歳になったばかりぐらいで、私のところにいた人の中では一番若いのですが、丈の高い肩の張り上がった色の青黒い人でした」
佐藤俊宣の証言(佐藤彦五郎の子孫を通じて伝えられたもの)
「背が高くて色は浅黒い方で、少し猫背のように背を丸めていたが、よく笑う人だった。ひら顔で目が細く、ヒラメみたいな顔をしていたよ」
これらの証言をまとめると、総司の容姿は以下のようになります。
- 長身で肩が張り上がっている
- 色黒(青黒い)
- 猫背気味
- 笑うと愛嬌がある
- 平たい顔で目が細い
現代の「色白の美少年」というイメージとはかなり異なります。
「ヒラメ顔」説の真相
「沖田総司はヒラメ顔だった」という説は広く知られていますが、この説には注意が必要です。
郷土史家の谷春雄によれば、「総司がヒラメ顔」というのは「のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているから」という意味だったとのことです。
また、この「ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎の曾孫がテレビ出演した際に、谷春雄の話に乗せられてつい口走ってしまったのが始まりとも言われています。
一方、沖田家の子孫である沖田哲也氏はこの説を完全に否定しており、沖田家では総司の容姿について「色の白い、背の小さい男だった」と伝わっているといいます。
現存する「肖像画」について
よく「沖田総司の肖像画」として紹介される絵がありますが、これは生前の総司を描いたものではありません。
この肖像画は昭和4年(1929年)に、総司の姉・みつの孫である沖田要氏をモデルにして描かれたものです。みつが「要はどことなく総司に似ている」と言ったことがきっかけで制作されました。
したがって、この肖像画を沖田総司の実際の姿とみなすことはできません。
なぜ「美少年」のイメージが定着したのか
沖田総司が「美少年」として描かれるようになった要因としては、以下のことが考えられます。
- 若くして病死した悲劇性:天才剣士が肺結核で若くして亡くなるというドラマ性が、「薄幸の美青年」というイメージに繋がった
- 子供好きで明るい性格:いつも冗談を言って笑っていた、近所の子供たちともよく遊んでいたという人柄が、純粋で無邪気なイメージを作った
- 司馬遼太郎の小説の影響:『燃えよ剣』『新選組血風録』などで描かれた沖田像が、後世の作品に大きな影響を与えた
特に司馬遼太郎は『燃えよ剣』の中で、沖田を「ちょっと色小姓にしたいような美貌」と表現しており、これが「沖田総司=美少年」イメージの決定打となったとされています。
沖田総司の性格と人柄
明るく陽気な性格
証言や記録から浮かび上がる沖田総司の人柄は、「いつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物」というものです。
壬生の屯所界隈の子供たちともよく遊んでやっていたようで、作家の司馬遼太郎が新選組を題材にした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材したという逸話も残っています。
また、新選組に批判的だった西村兼文でさえ、沖田については批判を残していません。これは、総司が新選組に敵対した者以外には人当たりの良い好人物であったことを示していると考えられています。
剣術指導における厳しさ
一方で、剣を握った時の総司は別人のように厳しかったようです。
試衛館の門人によれば、稽古では「荒っぽくて、すぐ怒る」「近藤先生より恐ろしい」という評判だったといいます。
新選組においても、撃剣師範として隊士たちを指導する際は非常に厳しく、妥協を許さない姿勢だったとされています。
近藤勇への深い敬愛
総司は近藤勇を心から敬愛していたことで知られています。
『燃えよ剣』などの小説では土方歳三との関係が強調されることが多いですが、史実としては山南敬助との兄弟のような関係や、近藤勇への敬愛の方が記録に残っています。
近藤の死を知らされなかった総司は、最期まで近藤のことを心配していたといわれています。
恋愛について
沖田総司には、京都の医者の娘との恋愛があったとされています。近藤勇五郎(近藤勇の甥)の『思出ばなし』には、次のような記述があります。
「新選組の人達は、相当女遊びをしたようでしたが、沖田は余りそんな遊びをしなかった代わりに、京都である医者の娘と恋仲になったのです」
しかし、近藤勇は隊士の将来を案じ、総司にこの娘と手を切るよう訓戒し、娘は堅気の商人に嫁がせたとのことです。
総司はその後もこの娘のことを思い続け、涙を流しながら語ることがあったといいます。
また、光縁寺(京都)には「沖田氏縁者」と記された女性の墓があり、これが総司の「内縁の妻」だったのではないかという説もあります。
沖田総司の愛刀
沖田総司が使用していた刀については、以下の3振りが伝えられています。
菊一文字則宗
司馬遼太郎の小説で有名になった刀ですが、これは創作である可能性が高いとされています。
菊一文字則宗は鎌倉時代に造られた著名な古刀であり、本来ならば幕末の一介の浪人が手にできるものではありません。司馬遼太郎は、千年以上の時を生きながらえる優美な刀と、沖田の儚い命とを対比させるフィクションを創り上げたと考えられています。
加州清光
総司が最初に持っていた刀とされています。ただし、第一資料が見つかっておらず、信憑性については議論があります。
大和守安定
こちらも総司の愛刀として語られることがありますが、同様に第一資料が確認されていません。
なお、ブラウザゲーム『刀剣乱舞』の影響で加州清光と大和守安定の知名度が高まりましたが、実際に大和守安定と加州清光の大小を持っていたのは、沖田の部下である新選組一番隊・大石鍬次郎だったという説もあります。
現代の新選組研究者の間では、総司の愛刀について「分かっていません」というのが公式見解となっています。
現代の創作における沖田総司
「美少年剣士」イメージの確立
現代の創作作品において、沖田総司は頻繁に「美少年」「美青年」として描かれています。
このイメージを確立させたのは、昭和40年代に人気を博した司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』『新選組血風録』です。
司馬遼太郎が描いた沖田像は、「天才的な剣技の持ち主」「明朗な性格」「肺結核を患う儚さ」という要素を持ち、これが後の作品に大きな影響を与えました。
女性化・男装の麗人としての描写
つかこうへいの戯曲『幕末純情伝』(1986年初演)では、沖田総司が女性として設定されました。この作品以降、沖田を女性や男装の麗人として描く作品が増えています。
代表的な例として、『Fate/Grand Order』の「桜セイバー(沖田総司)」があります。この作品では女性化された沖田が「無明三段突き」を必殺技として使用し、ゲームファンの間で人気を博しています。
主な登場作品
沖田総司が登場する現代の創作作品には、以下のようなものがあります。
小説・漫画
- 『燃えよ剣』(司馬遼太郎)
- 『新選組血風録』(司馬遼太郎)
- 『るろうに剣心』(和月伸宏)
- 『銀魂』(空知英秋)——沖田総悟のモデル
- 『薄桜鬼』(オトメイト)
- 『ピースメーカー鐵』(黒乃奈々絵)
ゲーム
- 『Fate/Grand Order』——女性化された「桜セイバー」として登場
- 『刀剣乱舞』——愛刀とされる加州清光・大和守安定が擬人化
- 『終末のワルキューレ』——人類代表の剣士として神々と戦う
- 『龍が如く 維新!』——真島吾朗が沖田役として登場
映画・ドラマ
- 映画『燃えよ剣』(2021年)——山田涼介が演じる
- NHK大河ドラマ『新選組!』(2004年)——藤原竜也が演じる
- 映画『るろうに剣心 最終章 The Beginning』(2021年)
これらの作品では、史実の沖田像よりも「美少年」「天才剣士」「儚い存在」としての側面が強調される傾向にあります。
沖田総司にまつわる諸説と謎
生年の謎
前述の通り、沖田総司の生年については天保13年(1842年)説と天保15年(1844年)説の2つがあります。
浪士組への参加記録では1842年生まれとなっていますが、沖田家の家伝では1844年生まれとされています。現在は公的文書に基づき1842年説が有力ですが、確定はしていません。
池田屋での喀血について
池田屋事件で総司が喀血して昏倒したという話は有名ですが、これが肺結核の初発症状だったのかについては議論があります。
喀血するということは結核がかなり進行していることを意味しますが、池田屋事件の翌日以降も戦闘に参加している記録があることから、この時点での結核発症を疑問視する声もあります。
実際に戦線から離脱するようになったのは慶応3年(1867年)以降であり、池田屋事件から3年後のことです。
最期の「黒猫」の逸話
総司が死の間際に黒猫を斬ろうとして失敗したという逸話は、子母沢寛の『新選組始末記』に登場しますが、これは子母沢による創作であるとされています。
ただし、かつて「局中第一等の剣客」と呼ばれた男が、もはや猫一匹斬れなくなった姿は、総司の悲劇性を象徴するエピソードとして、多くの読者の心に残っています。
まとめ
沖田総司は、幕末という激動の時代を駆け抜けた天才剣士でした。
9歳で天然理心流に入門し、19歳で免許皆伝、新選組では一番隊組長として数々の戦いに参加しました。その剣技「三段突き」は、敵味方を問わず称賛されています。
一方で、普段はいつも冗談を言って笑い、子供たちとも遊ぶ明るい人柄だったことが伝えられています。近藤勇を深く敬愛し、最期まで近藤のことを心配していました。
「美少年」「色白」というイメージは、史実とは異なる可能性が高いですが、若くして病に倒れた天才剣士という悲劇性が、後世の人々の心を捉え続けています。
写真も、生前の肖像画も残っていない沖田総司。だからこそ、人々は想像の翼を広げ、それぞれの「沖田総司」を思い描いてきたのかもしれません。
現代においても、アニメやゲーム、小説で新たな沖田像が生み出され続けています。史実と創作、その両方を楽しみながら、幕末を駆け抜けたこの若き剣士に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。


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