「賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなわぬもの」
天下を意のままに動かした権力者が、自らコントロールできないものとして嘆いた有名な言葉です。この言葉の主こそ、日本史上最も長く政治の実権を握り続けた人物の一人、白河上皇なんです。
天皇を退位した後も43年にわたって政治を動かし続けた白河上皇。彼が始めた「院政」という仕組みは、その後100年以上も日本の政治の中心となりました。
でも、「院政って何?」「なぜ退位した後の方が強い権力を持てたの?」と疑問に思う方も多いのではないでしょうか。
この記事では、平安時代末期に絶大な権力を振るった白河上皇について、その生涯と功績、そして後世に与えた影響まで詳しくご紹介します。
概要
白河上皇(しらかわじょうこう)は、平安時代後期に活躍した第72代天皇であり、退位後は上皇・法皇として約43年間にわたり政治の実権を握り続けた人物です。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年 | 1053年(天喜元年)6月19日 |
| 没年 | 1129年(大治4年)7月24日(77歳) |
| 諱(いみな) | 貞仁(さだひと) |
| 在位期間 | 1072年〜1086年(14年間) |
| 院政期間 | 1086年〜1129年(約43年間) |
| 父 | 後三条天皇 |
| 母 | 藤原茂子(贈皇太后) |
| 中宮 | 藤原賢子 |
| 別称 | 白河院、六条院 |
| 陵墓 | 成菩提院陵(京都市伏見区) |
白河上皇の最大の功績は、なんといっても「院政」という新しい政治システムを確立したことでしょう。
院政とは何か
院政とは、天皇の位を退いた上皇(太上天皇)が、現役の天皇に代わって政治の実権を握る仕組みのことです。上皇が住む場所を「院」と呼んだため、そこで行われる政治を「院政」と呼ぶようになりました。
なぜこんな複雑な仕組みが生まれたのでしょうか?
当時、藤原氏が摂関政治という形で朝廷を支配していました。天皇は藤原氏の娘を后として迎え、生まれた子どもが次の天皇になる。その天皇の外戚(母方の親族)として藤原氏が政治を動かす——この仕組みが何代も続いていたんです。
しかし白河上皇は、この藤原氏の支配を巧みに打ち破りました。天皇という立場では摂関家の影響から逃れられませんが、退位して上皇になれば自由に動けます。しかも、自分の子どもや孫を天皇に据えれば、「天皇家の家長」として政治を主導できるというわけです。
白河上皇が院政を始めてから、鳥羽上皇、後白河上皇と続き、この仕組みは平清盛や源頼朝が台頭するまで約100年間、日本の政治の中心となりました。
偉業・功績
白河上皇が歴史に残した功績は、政治・宗教・軍事の各方面にわたります。
院政の確立──藤原氏の支配を終わらせる
白河上皇の最大の功績は、藤原氏による摂関政治に終止符を打ったことです。
摂関政治の衰退
平安時代中期から、藤原北家が天皇の外戚として権力を握ってきました。藤原道長の時代には「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠むほどの全盛期を迎えています。
しかし、白河天皇の時代には状況が変わっていました。白河天皇の母・藤原茂子は摂関家の嫡流ではなく、閑院流の出身。さらに白河天皇の父・後三条天皇も藤原氏を外戚としない天皇であり、すでに摂関家の影響力は低下し始めていたんです。
院政への転換
1086年(応徳3年)、白河天皇はわずか8歳の皇子・善仁親王(後の堀河天皇)に譲位します。幼い天皇では政治ができませんから、上皇となった白河院が「治天の君(ちてんのきみ)」として政務を執ることになりました。
これが院政の始まりです。
ただし、白河上皇は当初から強大な権力を持っていたわけではありませんでした。関白・藤原師実とは協調関係にあり、堀河天皇が成人すると天皇自身が親政を行った時期もあります。
院政が本格化したのは、1099年(承徳3年)の藤原師通の急逝と、1107年(嘉承2年)の堀河天皇の崩御がきっかけでした。4歳の鳥羽天皇が即位し、政治的に未熟な若い摂政・藤原忠実が登場したことで、白河法皇に権力が集中したのです。
藤原宗忠は日記『中右記』で白河法皇の権勢を「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評しています。
北面の武士の創設
白河上皇のもう一つの重要な功績が、「北面の武士(ほくめんのぶし)」の創設です。
北面の武士とは、院御所の北面(北側の部屋)に詰めて上皇を警護する武士団のこと。これは、上皇が独自の軍事力を持つことを意味していました。
『愚管抄』によると、北面は「上北面」と「下北面」に分かれていました。上北面は四位・五位の諸大夫層が中心で、文官も多く含まれていました。一方、下北面は六位の侍身分の者が中心で、大部分が武士でした。一般的に「北面の武士」といえば、この下北面を指します。
創設の時期は、白河法皇の政治介入に批判的だった関白・藤原師通が急逝し、摂関家が弱体化した康和年間(1099年〜1104年)と推測されています。
なぜ北面の武士が必要だったのでしょうか?
当時、比叡山延暦寺や興福寺などの大寺院が大きな力を持っていました。彼らは何か気に入らないことがあると、日吉神社の神輿や春日大社の神木を担いで都に押し寄せ、「強訴(ごうそ)」と呼ばれる圧力をかけてきます。神仏を盾にされると、いくら権力者でも強く出られなかったんですね。
この僧兵たちの脅威に対抗するため、白河法皇は北面の武士を組織しました。
北面の武士の規模は急速に膨張しました。『中右記』によると、1118年(元永元年)に延暦寺の強訴を防ぐため賀茂河原に派遣された部隊だけで「千余人」に達したといいます。
北面の武士には源氏や平氏など武家出身者が多く登用されました。特に伊勢平氏の平正盛は、1108年(天仁元年)に源義親の乱を鎮圧して功績を上げ、その子・忠盛、孫・清盛へと続く平氏繁栄の基礎を築きます。正盛・忠盛父子は北面武士の筆頭となり、それをテコに院庁での地位を上昇させていきました。
また白河法皇は北面武士を次々に検非違使に抜擢し、直接指示を下したため、検非違使庁の形骸化も進行しました。
つまり、白河法皇による武家の重用が、後の武家政権誕生への布石となったのです。
仏教への篤い信仰と寺院建立
白河法皇は仏教を深く信仰し、多くの寺院を建立しました。
その代表が「法勝寺(ほっしょうじ)」です。
法勝寺の地はもともと藤原氏の別荘地(白河別業)でしたが、藤原師実が白河天皇に献上しました。1075年(承保2年)に造営が始まり、1077年(承暦元年)に毘廬舎那仏を本尊とする金堂の落慶供養が執り行われました。
そして1083年(永保3年)、法勝寺の象徴となる八角九重塔が完成します。高さは約80〜81メートル(二七丈)とされ、最下層に裳階(もこし)がつけられて外観は十層に見えました。当時、東海道を通って京に入る人々の目に真っ先に飛び込んできたこの塔は、院政の権威を誇示するものでした。
ちなみに、九重塔としては百済大寺のもの以外には知られておらず、極めて珍しい形式です。また八角形の塔も現存する安楽寺三重塔を含め4例ほどしかなく、法勝寺の塔がいかに特異な存在だったかがわかります。
白河天皇は「神威を助くるものは仏法なり。皇図を守るものもまた仏法なり」という考えのもと、仏法を国家統治の柱と位置づけていたのです。後に慈円はこの法勝寺を「国王の氏寺」と呼んでいます。
法勝寺の後も、白河の地には次々と寺院が建立されました。尊勝寺(堀河天皇造営)、最勝寺(鳥羽天皇造営)、円勝寺(待賢門院造営)、成勝寺(崇徳天皇造営)、延勝寺(近衛天皇造営)──これらは総称して「六勝寺(ろくしょうじ)」と呼ばれ、院政の象徴となりました。
ちなみに、法勝寺の跡地は現在の京都市動物園の敷地にあたります。2010年の発掘調査で、八角九重塔は同動物園の観覧車とほぼ同じ位置にあったことが判明しています。塔は1208年(承元2年)に落雷で焼失し、栄西によって再建されましたが、1342年(康永元年)の火災で再び失われ、以後再建されることはありませんでした。
また、白河法皇は熊野詣(くまのもうで)や高野詣(こうやもうで)を頻繁に行いました。熊野詣だけでも9回を数え、その信仰の篤さがうかがえます。
さらに、『十訓抄』によると「殺生禁断令」を発令し、生き物の殺傷を禁じたとも伝えられています。
人事権の掌握
白河法皇は特に叙位・除目(人事)に大きく介入し、人事権を掌握しました。
院の人事介入は「任人折紙(にんじんおりがみ)」という非公式の文書を天皇や摂政に渡すことで行われました。院の近習(側近)の多くを実入りの多い国の受領(地方官)に任じ、自らの権力基盤を強化していったのです。
特に1102年(康和4年)と1120年(保安元年)の2度にわたって関白・藤原忠実の職権を停止したことは、摂関の権威の低下を内外に見せつける結果となりました。
系譜・出生
白河上皇の生い立ちは、決して恵まれたものではありませんでした。
幼少期──寂しい少年時代
1053年(天喜元年)6月19日、白河上皇は皇太子・尊仁親王(後の後三条天皇)の第一皇子として誕生しました。
母は藤原茂子。摂関家の嫡流である御堂流ではなく、閑院流出身でした。茂子は中納言・藤原公成の娘で、藤原能信(藤原道長の子で頼通の異母弟)の養女となっていたのです。
幼い貞仁親王は、母の養父である藤原能信のもとで育てられました。
しかし、1062年(康平5年)に母・茂子が死去。1065年(康平8年)には外祖父・能信も亡くなってしまいます。わずか9歳から12歳の間に、最も身近な親族を失った白河天皇は、寂しい幼少期を過ごしたと考えられています。
父・後三条天皇の遺命
白河天皇の人生を大きく左右したのが、父・後三条天皇との複雑な関係でした。
後三条天皇とその母・陽明門院は、白河天皇の異母弟である実仁親王、さらにその弟の輔仁親王に皇位を継がせる意志を持っていました。1072年(延久4年)に白河天皇が即位した際、実仁親王が皇太弟として立てられたのも、父の意向によるものです。
なぜ後三条天皇は長男の白河天皇ではなく、弟たちに皇位を継がせたかったのでしょうか?
その背景には、白河天皇の中宮・藤原賢子が関白・藤原師実の養女だったことがあります。白河天皇と賢子の子が天皇になれば、再び摂関家が外戚として権力を握ることになります。反摂関政治の立場からは好ましい状況ではなかったのです。
しかし1085年(応徳2年)、実仁親王が病没します。これにより状況は一変しました。
善仁親王への譲位
実仁親王の死を受け、1086年(応徳3年)11月、白河天皇は父の遺命に反して、弟の輔仁親王ではなく、自らの子である8歳の善仁親王(堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位しました。
皮肉なことに、善仁親王の母で白河天皇が深く愛した中宮・藤原賢子は、実仁親王の死の前年に若くして病没しています。
この譲位により、白河上皇は輔仁親王の皇位継承を永久に断念させ、自らの血統による皇位独占を実現したのです。
家族関係
白河天皇の家族関係は以下の通りです。
后妃と子女
- 中宮:藤原賢子(1057-1084年)──源顕房の娘、藤原師実の養女
- 第一皇子:敦文親王(1075-1077年)──3歳で夭折
- 第一皇女:媞子内親王(郁芳門院)(1076-1096年)
- 第三皇女:令子内親王(1078-1144年)
- 第三皇子:善仁親王(1079-1107年)──後の堀河天皇
賢子との仲は非常に睦まじく、彼女の生前は他の女性との関係は少なかったとされています。しかし賢子の死後は正式な后や女御を入れず、側近に仕える多くの女官・女房と関係を持ちました。
晩年の寵妃として知られる「祇園女御(ぎおんにょうご)」は下級貴族の出身でしたが、公然と寵愛されました。
3代にわたる院政
白河法皇は堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇の3代にわたって院政を行いました。
- 堀河天皇(在位1087-1107年):白河上皇の子
- 鳥羽天皇(在位1107-1123年):白河法皇の孫
- 崇徳天皇(在位1123-1142年):白河法皇の曾孫
崇徳天皇については、白河法皇の御落胤ではないかという噂が当時から広く信じられていました。白河法皇は養女として育てた藤原璋子を鳥羽天皇の中宮とし、その子を崇徳天皇として即位させたのですが、璋子と白河法皇の関係が取り沙汰されたのです。
『古事談』には、崇徳天皇は白河法皇と璋子の密通によって生まれた子であり、鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子(おじご)」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されています。「叔父子」とは、「祖父の子=叔父」という意味で、鳥羽天皇から見れば自分の子でありながら実は叔父にあたるという屈折した表現です。
ただし、この記述は崇徳天皇誕生後100年以上経ってから作られた『古事談』のみに見られるものであり、真偽は不明です。当時の宮廷では白河法皇は璋子の父(養父)、崇徳天皇の外祖父として認識されていたとする指摘もあります。
姿・見た目
白河上皇の容姿について、史料には詳しい記述がほとんど残っていません。
肖像画から
現在伝わる肖像画からは、威厳のある容貌がうかがえます。法皇となってからは法体(出家した姿)で描かれることが多く、袈裟を纏った姿が一般的です。
御影堂の坐像
白河法皇の遺骸は火葬され、鳥羽の成菩提院に葬られました。その法華堂(現在の京都市伏見区竹田浄菩提院町にある法住寺法華堂陵)には、白河法皇の法体坐像が安置されています。
像高は約82.7センチメートル、寄木内刳造で玉眼が嵌め込まれています。全面に布を張り、その上に漆を塗って彩色されているのが特徴です。像の胎内には、藤原為信筆の裏書のある法皇の白描図像と仮名願文が納められています。
特徴
白河法皇は、強烈な個性を持った人物として知られています。
天下三不如意──法皇でも思い通りにならないもの
白河法皇を語る上で欠かせないのが、「天下三不如意(てんかさんふにょい)」のエピソードです。
『平家物語』巻一には、白河法皇が次のように嘆いたという有名な逸話が記されています。
「賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなわぬもの」
この三つが、天下を支配した法皇でさえ思い通りにならないものだったというのです。
それぞれの意味を見てみましょう。
賀茂河の水
古来、氾濫を繰り返す暴れ川として知られていた賀茂川がもたらす水害のこと。自然災害は誰にもコントロールできません。
双六の賽
盤双六で使う二つのサイコロが出す目のこと。確率の問題ですから、これも思い通りになるものではありません。近年では「法皇自身の双六の腕前が上達しないこと」という解釈も提唱されています。
山法師
日吉山王社の神輿を担いで都に押し寄せ、強訴を繰り返した比叡山延暦寺の僧兵のこと。名目上は「神意」を振りかざしていましたが、実態は政治的な圧力でした。
天災と確率という「どうしようもないもの」と並べて僧兵を挙げているところに、白河法皇の苦悩が表れています。逆に言えば、この三つ以外はだいたい思い通りになるほど、法皇の権力は絶大だったということでもあります。
恣意的な統治
白河法皇の政治は「恣意的(しいてき)」と評されることが多いです。
藤原宗忠の日記『中右記』によると、叙位・除目への介入は顕著で、自分の気に入った者を次々と重要な地位に就けました。一方で、関白・藤原忠実の職権を2度も停止するなど、気に入らない者には厳しい態度を取りました。
また、皇位継承にも強く介入し、堀河・鳥羽・崇徳の各天皇の異母兄弟に対しては、親王宣下も臣籍降下も認めず、出家させて皇位継承権を剥奪しています。これは実仁親王の立太子をめぐる経験からの教訓でした。
両性愛者としての側面
『白河天皇』のWikipedia記事によると、白河法皇は両性愛者だったと考えられています。
奔放な女性関係と並行して男色も好み、近臣として権勢を誇った藤原宗通や、北面の武士の藤原盛重、平為俊らは、いずれも男色関係における愛人出身だったとされています。
晩年の変化
77歳という当時としては長寿を全うした白河法皇ですが、晩年には自らの死後について心配していた節があります。
当初は土葬を望んでいましたが、生前に対立していた興福寺の僧兵が、土葬された藤原師通の墓を暴いて遺体を辱めようとしたことを知り、急遽火葬に変更するよう命じたといいます。
1111年(天永2年)には、鳥羽離宮の泉殿に自らの墓所として三重塔を建立しました。1129年(大治4年)に崩御した際、遺体は衣笠山の山麓で火葬され、後に成菩提院に改葬されています。
伝承
白河法皇にまつわる伝承や逸話は数多く残されています。
雨を獄舎に閉じ込めた話
『愚管抄』などに記された有名なエピソードがあります。
ある祭事が雨で何度も延期されたことに怒った白河法皇が、なんと「雨水を獄舎に閉じ込めた」というのです。
もちろん実際に雨を閉じ込めることなどできませんが、この逸話は白河法皇の強烈な性格と、周囲の者が誰も逆らえないほどの権勢を物語っています。
祇園女御と鬼の見間違い
白河法皇が寵妃の祇園女御に会うため八坂神社の近くを歩いていたとき、火を灯そうとする社僧を鬼と見間違えたという逸話が伝わっています。
これは当時の夜の闘が暗かったことと、法皇の年齢による視力の衰えを示すエピソードとも言えるでしょう。
平清盛の御落胤説
平清盛が白河法皇の御落胤(隠し子)であるという説は、当時から広く信じられていました。
『平家物語』の「語り本」系の諸本によると、白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が平忠盛に下賜されて、清盛が生まれたとされています。一方、「読み本」系の延慶本では、清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったとしています。
さらに、近江国胡宮神社に伝わる『仏舎利相承系図』では、清盛の生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子(養子)としたと記されています。
いずれにせよ、幼少時の清盛が祇園女御の手厚い保護を受けて育ったことは事実とされており、1129年(大治4年)に清盛がわずか12歳で従五位下・左兵衛佐に叙任された際、中御門宗忠は『中右記』で驚愕を記録しています。
落胤説の史実性は乏しいとされますが、公卿を輩出したことのない院近臣伊勢平氏の出身である清盛が、令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、皇家との身内関係が当時信じられていたからこそ、という見方もあります。
敦文親王の死と僧侶の怨霊
白河天皇と中宮・藤原賢子の間に生まれた第一皇子・敦文親王は、わずか3歳で夭折しました。
慈円が記した『愚管抄』によると、この死は白河天皇に裏切られた僧侶の怨霊によるものと言われていました。ただし、この記述は史実と異なる部分が多いことから、近年では慈円による創作とする説が有力視されています。
殺生禁断令
『十訓抄』には、白河法皇が「天下に殺生を禁制せられたりければ、国土に魚島のたぐひ絶えにけり」とあり、殺生禁断令(生き物の殺傷を禁じる法律)が発令されたと記述されています。
これは後世の徳川綱吉による「生類憐みの令」を彷彿とさせますが、白河法皇の場合は仏教信仰に基づくものでした。
同書には、この禁令を犯して魚を獲ってしまった僧が、母親に食べさせたかったと告白すると、白河天皇はその孝心に感動して罪を赦し、多くの物を与えて帰らせたという心温まる話も収録されています。
出典・起源
白河上皇について記した主要な史料をご紹介します。
『中右記』(ちゅうゆうき)
藤原宗忠(1062-1141年)による日記です。
宗忠は白河法皇の側近として長年仕えており、法皇の政治や人となりを間近で見てきた人物。『中右記』には当時の朝廷の政策決定過程が詳細に記録されており、白河院政を研究する上で最も重要な一次史料とされています。
宗忠は白河法皇の治政について「今太上天皇の威儀を思ふに、已に人主に同じ。就中、わが上皇已に専政主也」と評しています。
『愚管抄』(ぐかんしょう)
天台宗の僧侶・慈円(1155-1225年)が記した史論書です。
日本の歴史を道理に基づいて解釈しようとした書物で、院政期の天皇や上皇について多くの記述があります。ただし、慈円自身の解釈や創作が含まれている部分もあるため、史実かどうかの判断には注意が必要です。
『平家物語』
鎌倉時代に成立した軍記物語です。
巻一に「天下三不如意」の有名な逸話が収録されており、白河法皇の権勢と僧兵への苦悩を伝えています。物語としての脚色はあるものの、当時の社会情勢を知る上で重要な資料です。
『古事談』(こじだん)
鎌倉時代初期に成立した説話集です。
白河法皇と祇園女御との関係や、殺生禁断令に関するエピソードなど、法皇にまつわる様々な逸話が収録されています。
『十訓抄』(じっきんしょう)
1252年に成立した説話集で、十の教訓に分類された説話が収められています。
白河法皇の殺生禁断令と、母のために魚を獲った僧を赦した話などが記されています。
『国史大辞典』
吉川弘文館から刊行された日本最大級の歴史百科事典です。白河天皇の項目では、生涯や院政についての学術的な解説が収録されており、研究の基本文献となっています。現在はジャパンナレッジでデジタル版も利用可能です。
英語文献について
西洋の学術書では、G・キャメロン・ハーストIII世の著作『Insei: Abdicated Sovereigns in the Politics of Late Heian Japan, 1086-1185』(1976年、コロンビア大学出版)が院政研究の基本文献として知られています。
また、『The Cambridge History of Japan』の第9章「Insei」でも、白河上皇による院政の確立について詳しく論じられています。
まとめ
白河上皇は、日本史上において極めて重要な人物です。
歴史的意義
白河上皇が確立した院政は、単なる政治システムの変革にとどまりませんでした。
- 約200年続いた藤原氏の摂関政治に終止符を打った
- 天皇家が実質的な政治権力を取り戻す契機となった
- 北面の武士の創設により、後の武家政権誕生への道を開いた
- 摂関から父系(天皇の父である上皇)への権力移行という、日本政治史上の大転換を実現した
白河上皇の人物像
強烈な個性を持った白河法皇は、功罪両面を持つ人物でした。
評価される点
- 43年という長期にわたり安定した統治を行った
- 法勝寺をはじめとする六勝寺など、仏教文化の発展に貢献した
- 荘園整理など、父・後三条天皇の政策を継承した
批判される点
- 恣意的な人事による政治の私物化
- 僧兵の強訴に有効な対策を打てなかった
- 皇位継承への過度な介入が、後の保元の乱の遠因となった
後世への影響
白河上皇が始めた院政は、鳥羽上皇、後白河上皇へと受け継がれました。
しかし、1156年の保元の乱では、崇徳上皇と後白河天皇が武力で対立。白河法皇が封じ込めた輔仁親王の子孫である源為義が崇徳方につくなど、白河法皇の時代に生まれた矛盾が噴出しました。
その後、平清盛による武家の台頭を経て、1185年の壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡。1192年には源頼朝が征夷大将軍に任じられ、武家政権の時代が到来します。
白河法皇が北面の武士として重用した武家の力が、皮肉にも朝廷の力を凌駕していくことになったのです。
おわりに
「賀茂河の水、双六の賽、山法師」——天下三不如意を嘆いた白河法皇。
しかし裏を返せば、この三つ以外はほぼ思い通りになるほどの絶大な権力を握っていたということです。77歳で崩御するまでの43年間、日本の政治の中心に君臨し続けた稀代の権力者。
その功績も、矛盾も、すべてが日本史の大きな転換点を形作りました。
平安時代から中世へ、貴族政治から武家政治へ——白河上皇の院政は、まさにその過渡期を象徴する時代だったのです。

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