「本隊を逃がすために、敵の大軍に向かって突っ込んでいく」──そんな決断を、あなたはできますか?
関ヶ原の戦いで、まさにそれを実行した武将がいました。
島津豊久(しまづ とよひさ)。
わずか1,500の兵で東軍に囲まれながらも、大将・島津義弘を逃がすために自ら殿(しんがり)を務め、壮絶な最期を遂げた若き武将です。
彼が指揮した「島津の退き口」は、戦国史上最も凄絶な撤退戦として今も語り継がれています。
この記事では、30年という短い生涯を駆け抜けた薩摩の猛将「島津豊久」について、その生涯と伝説を詳しくご紹介します。
概要

島津豊久は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した薩摩国の武将です。
元亀元年(1570年)に生まれ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで戦死しました。
享年30歳(数え年31歳)。
日向国佐土原(さどわら)の領主であり、「佐土原侍従」とも呼ばれていました。
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没年 | 1570年(元亀元年) – 1600年9月21日(慶長5年9月15日) |
| 父 | 島津家久(しまづ いえひさ) |
| 叔父 | 島津義弘(しまづ よしひろ) |
| 領地 | 日向国佐土原(現在の宮崎県宮崎市佐土原町) |
| 通称 | 又八郎、佐土原侍従 |
| 官位 | 従四位下・侍従 |
豊久の父・家久は「島津四兄弟」の末弟で、島津家きっての名将として知られていました。豊久は叔父である島津義弘に従い、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いで武功を挙げています。
生涯
幼少期と家督相続
島津豊久は、元亀元年(1570年)に島津家久の嫡男として生まれました。
父・家久は「島津四兄弟」の中でも特に戦上手として知られた武将。耳川の戦いや沖田畷の戦いなど、九州統一戦で数々の武功を挙げた名将でした。
豊久が17歳のとき、父・家久が急死します。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐の最中に病死したとされていますが、毒殺説もささやかれています。
こうして豊久は若くして家督を継ぎ、日向国佐土原の領主となりました。
朝鮮出兵での活躍
文禄・慶長の役(1592年〜1598年)では、叔父・島津義弘に従って朝鮮半島に渡りました。
特に慶長2年(1597年)の泗川の戦いでは、義弘率いる島津軍の一翼として活躍。明・朝鮮連合軍の大軍を相手に奮戦し、武名を高めています。
この戦いで島津軍は寡兵ながら敵の大軍を撃破し、「鬼石曼子(グイシーマンズ)」として恐れられました。豊久もまた、叔父とともにその名声を分かち合ったのです。
関ヶ原への道
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。
当初、島津義弘は東軍(徳川方)への参加を考えていました。
しかし、伏見城での入城を拒否されるなど、東軍との関係がこじれてしまいます。
結局、義弘は石田三成率いる西軍に加わることになりました。
豊久も叔父に従い、わずか1,500ほどの兵とともに関ヶ原へ向かいます。
この少ない兵力が、後の悲劇と栄光の両方を生むことになるんです。
関ヶ原の戦いと島津の退き口
戦場での立ち位置
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、関ヶ原で東西両軍が激突しました。
島津隊は関ヶ原の中央やや南寄りに陣取りました。
しかし、兵力が少なかったこともあり、積極的な戦闘には参加せず、「傍観」に近い態度を取っていたとされています。
この消極的な姿勢については、諸説あります。
主な解釈
- 石田三成との確執があり、積極的に動く気がなかった
- 兵力が少なすぎて、下手に動けば全滅する恐れがあった
- 義弘は戦況を見極めようとしていた
- 西軍の総大将・毛利輝元が動かなかったことへの不満
いずれにせよ、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、島津隊は東軍に囲まれる形になってしまいました。
敵中突破「島津の退き口」
西軍敗北が決定的となったとき、島津義弘は驚くべき決断を下します。
敵の本陣に向かって突撃し、そのまま戦場を突破して撤退する。
これが有名な「島津の退き口」、別名「敵中突破」です。
通常、撤退するなら敵から離れる方向に逃げるのが常識でしょう。しかし義弘は逆に、東軍の本陣がある方向——つまり敵のど真ん中を突っ切る道を選んだのです。
この常識外れの戦術には、合理的な理由がありました。
敵中突破を選んだ理由
- 退路となる北や西はすでに東軍に塞がれていた
- 敵本陣方向は逆に警戒が薄かった
- 予想外の方向からの突撃で敵を混乱させられる
- 突破後は伊勢街道を通って堺から海路で薩摩に帰れる
「捨て奸」──壮絶な殿戦
敵中突破を成功させるために、島津軍は「捨て奸(すてがまり)」という戦術を用いました。
これは、追撃してくる敵に対して数名ずつが残って足止めをし、本隊の逃走時間を稼ぐという壮絶な戦術です。
残された者たちは、敵を倒せるだけ倒した後、最後は討ち死にする運命でした。
豊久は、この捨て奸の最終防衛線を自ら志願したのです。
豊久の決断
義弘を逃がすため、豊久は叔父にこう言ったと伝えられています。
「ここは私が引き受けます。叔父上は薩摩にお帰りください」
義弘は甥の申し出を受け入れ、涙ながらに戦場を離れました。
豊久は残った兵とともに東軍の追撃部隊に立ちはだかり、壮絶な戦いを繰り広げます。
豊久の最期
豊久が最後に戦った場所については、複数の伝承があります。
有力な説
- 烏頭坂(うとうざか)説:現在の岐阜県大垣市上石津町にある坂で、ここで井伊直政隊と交戦したとされる
- 美濃国内の山中:追撃から逃れる途中で力尽きたとする説
どの説でも共通しているのは、豊久が最後まで敵に背を向けず、正面から戦い続けたということです。
享年30歳。あまりにも早すぎる死でした。
しかし、豊久の犠牲によって島津義弘は無事に薩摩へ帰還することができたのです。
義弘の帰還とその後
島津軍の損害
関ヶ原の戦いと撤退戦で、島津軍は甚大な被害を受けました。
| 項目 | 数字 |
|---|---|
| 出陣時の兵力 | 約1,500名 |
| 生還者 | 約80名(諸説あり) |
| 損耗率 | 約95% |
義弘自身も重傷を負いながら、命からがら薩摩に帰還しています。
島津家の存続
驚くべきことに、西軍として参戦した島津家は、関ヶ原後も所領を安堵されました。
これには複数の理由が考えられます。
所領安堵の理由
- 戦闘中は積極的に東軍を攻撃しなかった
- 薩摩への遠征は困難で、攻め込むより和睦したほうが得策だった
- 島津家の軍事力を警戒し、正面衝突を避けた
- 外様大名として牽制役に利用できた
結果として、島津家は幕末まで77万石(実高は90万石以上とも)を維持し、明治維新で重要な役割を果たすことになります。
豊久たちの犠牲が、島津家260年の繁栄を支えたとも言えるでしょう。
人物像

武勇と忠義
豊久の人物像は、「武勇」と「忠義」の二つの言葉で表現できます。
朝鮮出兵での活躍が示すように、豊久は戦場で勇敢に戦う武将でした。父・家久の血を引く生粋の戦闘者だったと言えるでしょう。
また、関ヶ原での行動は、主君(叔父)への絶対的な忠誠を示しています。自らの命を投げ出してでも義弘を守る——その決断ができる武将は、決して多くありません。
若き当主としての苦悩
一方で、17歳で家督を継いだ豊久には、苦労も多かったはずです。
父・家久の突然の死、豊臣政権下での複雑な政治状況、そして関ヶ原への参戦。若き当主として、重い決断を迫られる場面が何度もあったことでしょう。
それでも豊久は、最後まで武将としての誇りを失いませんでした。
義弘との関係
叔父・義弘との関係は、単なる主従を超えたものだったと考えられます。
義弘は豊久を「甥」としてだけでなく、一人の武将として信頼していました。
関ヶ原での行動を見ても、豊久が義弘の片腕として重要な役割を担っていたことがわかります。
義弘が豊久の死を知ったときの悲しみは、計り知れないものだったでしょう。
島津豊久を祀る史跡
瑠璃光寺(岐阜県)
岐阜県大垣市上石津町にある瑠璃光寺には、豊久の墓があります。
この寺は烏頭坂の近くにあり、豊久が最期を迎えた場所とされています。毎年、命日には法要が行われ、島津家や地元の人々が参列しています。
関ヶ原古戦場
関ヶ原町には、島津隊の陣跡や「島津の退き口」の経路を示す史跡があります。
観光客向けに整備された散策コースもあり、豊久たちが駆け抜けた道を実際に歩くことができます。
佐土原城跡(宮崎県)
豊久の居城だった佐土原城は、現在は城跡として整備されています。
宮崎市佐土原歴史資料館では、豊久や佐土原藩に関する資料を見ることができます。
現代への影響

「ドリフターズ」の主人公として
島津豊久は、平野耕太による漫画「ドリフターズ」(2009年連載開始)の主人公として描かれています。
この作品では、関ヶ原で死んだはずの豊久が異世界に転移し、織田信長や那須与一とともに戦うという設定です。
「ドリフターズ」での豊久
- 豪快で好戦的な性格
- 「首を獲る」ことへの執着
- 薩摩弁で話す
- 戦術よりも突撃を好む猪突猛進型
アニメ化もされ、島津豊久という武将の知名度を大きく高めました。
薩摩の誇りとして
鹿児島県では、島津家ゆかりの武将として豊久を誇りにしている人が多くいます。
関ヶ原での「敵中突破」は、薩摩武士の誇り高さと勇猛さを象徴するエピソードとして語り継がれています。
幕末の薩摩藩士たちも、豊久の故事を知っていたはずです。彼らの不屈の精神の源流の一つが、200年以上前の関ヶ原にあったのかもしれません。
ゲームやメディアでの登場
「戦国無双」「信長の野望」などのゲームにも、島津豊久は登場しています。
叔父の義弘とセットで描かれることが多く、島津軍の猛将として人気を集めています。
島津の退き口に参加した主な武将
豊久とともに敵中突破を行った武将たちを紹介します。
| 武将名 | 役割 | 結果 |
|---|---|---|
| 島津義弘 | 総大将 | 生還 |
| 島津豊久 | 殿軍指揮 | 戦死 |
| 長寿院盛淳 | 義弘の影武者 | 戦死 |
| 柏木源藤 | 家臣 | 戦死 |
| 肝付兼護 | 家臣 | 生還 |
多くの将兵が命を落としましたが、彼らの犠牲によって義弘は薩摩に帰還できました。
関ヶ原の戦いで豊久と戦った武将たち
島津隊を追撃した東軍の武将たちも紹介しておきましょう。
| 武将名 | 所属 | 備考 |
|---|---|---|
| 井伊直政 | 徳川家康の重臣 | 追撃中に銃撃を受け重傷 |
| 松平忠吉 | 家康の四男 | 同じく負傷 |
| 本多忠勝 | 徳川四天王の一人 | 追撃に参加 |
特に井伊直政は、このとき受けた傷がもとで後に死去したとも言われています。
敗軍となった島津隊の反撃がいかに激しかったかを物語るエピソードです。
まとめ
島津豊久は、30年という短い生涯を駆け抜けた薩摩の猛将でした。
重要なポイント
- 「島津四兄弟」の末弟・家久の嫡男として生まれた
- 17歳で家督を継ぎ、日向国佐土原の領主となった
- 朝鮮出兵で叔父・義弘とともに活躍した
- 関ヶ原の戦いで西軍として参戦
- 敗戦後、「島津の退き口」で敵中突破を敢行
- 「捨て奸」戦術で殿を務め、義弘を逃がすために戦死
- その犠牲により島津家は存続し、幕末まで繁栄した
- 漫画「ドリフターズ」の主人公として現代でも人気
「本隊を逃がすために、自ら死地に赴く」——この決断ができる人間は、そう多くありません。
豊久が示した武士としての覚悟と忠義は、400年以上経った今でも、多くの人の心を打ち続けています。
関ヶ原を訪れる機会があれば、ぜひ島津隊の陣跡や豊久の墓を訪ねてみてください。烏頭坂の急な坂道を見上げながら、若き武将の最期に思いを馳せると、歴史がより身近に感じられるかもしれません。


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