北条時行と足利尊氏の関係とは?宿命の対決を徹底解説

人気漫画・アニメ『逃げ上手の若君』で主人公と宿敵として描かれている北条時行と足利尊氏。

「二人はなぜ戦い続けたの?」「もともとはどんな関係だったの?」と気になっている方も多いのではないでしょうか。

実は、この二人の関係は単なる「敵同士」では語りきれない、複雑で深い因縁で結ばれているんです。足利氏は代々北条氏の恩顧を受けて繁栄してきた家柄でした。その足利尊氏が主家を裏切り、鎌倉幕府を滅ぼしたことで、時行は父と一族のほとんどを失います。

この記事では、鎌倉幕府滅亡から始まる二人の宿命の対決について、歴史的背景から最期の戦いまで詳しく解説します。


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北条時行と足利尊氏の関係を一言で表すと?

北条時行と足利尊氏の関係を端的に表現するなら、「主家の御曹司と、その恩義を受けながら裏切った重臣」という構図になります。

時行は鎌倉幕府を事実上支配していた北条得宗家の嫡流として生まれました。一方の尊氏は、その北条氏から代々厚遇を受けてきた足利氏の当主です。

時行にとって尊氏は、父・北条高時を死に追いやり、一族のほぼ全員を滅ぼした仇敵でした。しかも、ただの敵ではありません。北条家の恩恵を受けて出世しながら、その恩を仇で返した「裏切り者」だったのです。

この因縁は、時行が5歳から処刑される24歳頃まで、約20年にわたって続くことになります。


鎌倉幕府時代の足利氏と北条氏の関係

二人の対立を理解するには、まず鎌倉幕府時代における足利氏と北条氏の関係を知る必要があります。

源氏の名門・足利氏

足利氏は、源頼朝と同じ河内源氏の血を引く名門です。足利義兼(よしかね)は頼朝と従兄弟の関係にあり、頼朝の声がかりで北条時政の娘を妻に迎えました。

つまり、足利氏と北条氏の縁は、鎌倉幕府成立のまさに最初期から始まっていたのです。

代々続いた婚姻関係

足利氏の歴代当主は、代々北条氏の女性を正室に迎えるという決まりがありました。

足利当主正室の出身
足利義兼北条時政の娘
足利義氏北条泰時の娘
足利泰氏北条時氏の娘
足利頼氏佐介時盛の娘
足利家時常盤時茂の娘
足利貞氏金沢顕時の娘
足利尊氏赤橋守時の妹(登子)

注目すべきは、尊氏の正室・赤橋登子です。彼女の兄・赤橋守時は、のちに鎌倉幕府最後の執権となる人物でした。つまり尊氏は、自分の義兄が執権を務める幕府を裏切ったことになります。

北条氏から受けた破格の厚遇

足利氏が受けていた待遇は、他の御家人とは比較にならないほど優れていました。

尊氏自身も15歳での叙爵は、北条氏一門に準じる待遇でした。さらに「高氏」という名の「高」の字は、当時の執権・北条高時から賜ったものです。

『太平記』には時行が後醍醐天皇に送った書状の内容が残されています。その中で時行は、足利家について次のように述べています。

「そもそも尊氏が今日ありますのも、ひとえに我が北条家による優遇のおかげです」

これは誇張ではなく、歴史的事実だったのです。


鎌倉幕府滅亡──尊氏の裏切り

後醍醐天皇の挙兵

元弘3年(1333年)、隠岐に流されていた後醍醐天皇が脱出し、再び倒幕の旗を掲げます。

鎌倉幕府は、この反乱を鎮圧するため足利高氏(のちの尊氏)を派遣しました。承久の乱以来、足利氏が幕府軍の大将を務めることは「嘉例」とされており、幕府は勝利への期待を込めて彼を送り出したのです。

丹波国篠村での決断

ところが、尊氏は京都に向かう途中の丹波国篠村八幡宮(現在の京都府亀岡市)で、突如として幕府への反旗を翻しました。

後醍醐天皇の綸旨を受けた尊氏は、幕府の出先機関である六波羅探題を攻め滅ぼします。同時期に関東では新田義貞が挙兵し、鎌倉を攻撃しました。

北条一族の最期

元弘3年5月22日、新田義貞軍による鎌倉攻めが行われました。

時行の父・北条高時をはじめ、総勢870人もの北条一族とその家臣たちが自害したと伝えられています。鎌倉幕府は滅亡し、北条得宗家は壊滅しました。

しかし、この混乱の中で一人だけ脱出に成功した人物がいました。それが、まだ幼い時行だったのです。


北条時行の脱出と諏訪での雌伏

諏訪頼重による保護

鎌倉陥落の際、時行は家臣の諏訪頼重らに守られながら脱出に成功しました。

諏訪氏は信濃国(現在の長野県)の有力豪族で、諏訪大社の神官を務める一族です。彼らは北条氏と深い関係を持ち、時行を匿って再起を図ることを決意しました。

時行の兄・北条邦時も脱出を試みましたが、預けられた伯父・五大院宗繁の裏切りにより新田氏に売られ、処刑されてしまいます。時行は北条得宗家の唯一の生き残りとなったのです。

信濃での準備期間

その後約2年間、時行は諏訪の地で身を隠しながら、武芸や学問を学び、再起の時を待ちました。

この間、建武政権に対する不満は各地で高まっていました。後醍醐天皇による「建武の新政」は、公家や僧侶を重用し、武士への恩賞が不十分だったためです。北条氏の残党も各地で蜂起を繰り返していました。


中先代の乱──時行の反撃

5万の軍勢を率いて挙兵

建武2年(1335年)7月、ついに時行は行動を起こします。

諏訪頼重・時継親子や滋野氏ら諏訪神党に擁立された時行は、わずか5歳(または10歳前後、諸説あり)ながら総大将として信濃で挙兵しました。

軍勢は進軍するごとに膨れ上がり、最終的には5万騎に達したと伝えられています。建武政権に不満を持つ武士たちが次々と時行軍に合流したのです。

連戦連勝で鎌倉へ

時行軍はまず、信濃守護・小笠原貞宗を撃破。その後、以下の戦いで足利方を連破しました。

日付戦場撃破した敵将
7月18日頃女影原(埼玉県日高市)渋川義季・岩松経家
7月20日頃小手指原(埼玉県所沢市)今川範満
同日府中(東京都府中市)小山秀朝
7月22日頃井手の沢(東京都町田市)足利直義(尊氏の弟)

鎌倉将軍府を守っていた足利直義は、自ら軍勢を率いて迎撃しましたが敗北。直義は尊氏の嫡男・足利義詮らを伴って鎌倉から逃亡しました。

鎌倉奪還

建武2年7月25日、時行はついに鎌倉に入り、武家の故地を奪還することに成功します。

鎌倉幕府滅亡から約2年。北条氏が再び鎌倉を支配する日が来たのです。

この乱が「中先代の乱」と呼ばれるのは、時行が「先代」(北条氏)と「後代」(足利氏)の中間に位置し、一時的とはいえ鎌倉を支配したことに由来します。「廿日先代の乱」という別名もあり、これは鎌倉支配がわずか20日間だったことを示しています。

護良親王の殺害

鎌倉から逃亡する際、直義は重大な決断を下しました。

当時、鎌倉には後醍醐天皇の皇子・護良親王が幽閉されていました。直義は、時行と護良親王が結託することを恐れ、家臣に命じて親王を殺害させたのです。

これは後に、尊氏と後醍醐天皇の関係を決定的に悪化させる一因となりました。


足利尊氏の反撃

後醍醐天皇の拒否

弟・直義の危機を知った尊氏は、すぐさま出陣を願い出ました。しかし後醍醐天皇はこれを拒否します。

尊氏が要求したのは、「征夷大将軍」と「惣追捕使」の位でした。これらは武家政権を開くために必要な役職であり、後醍醐天皇にとっては絶対に認められないものでした。

天皇の許しなき出陣

それでも尊氏は、天皇の許しを得ないまま軍勢を率いて関東に下向します。後醍醐天皇はやむなく8月2日、「征東将軍」の称号を尊氏に与えました。

圧倒的な反撃

尊氏は直義軍と合流すると、時行軍を立て続けに撃破しました。

日付戦場
8月9日遠江国橋本(静岡県湖西市)
8月中旬小夜の中山・駿河国清見関
8月17日箱根
8月18日相模川

諏訪頼重の自害と時行の脱出

8月19日、ついに時行は鎌倉を追われます。

諏訪頼重・時継親子をはじめ、時行を支えた多くの武将が勝長寿院で自害しました。『太平記』によれば、43人もの大名がここで命を絶ったといいます。

しかし、時行自身は再び脱出に成功しました。「逃げ上手」の本領発揮です。


南朝への帰順──仇敵打倒への執念

建武政権の崩壊

中先代の乱の鎮圧後、尊氏は鎌倉に留まり、独自に恩賞を分配し始めました。これは後醍醐天皇から見れば、完全な独立宣言でした。

両者の関係は急速に悪化し、ついに尊氏は後醍醐天皇と敵対。1336年に室町幕府を開き、南北朝時代が始まります。

時行の奏聞

この混乱の中、時行は驚くべき決断を下しました。父を死に追いやった後醍醐天皇に、赦免を願い出たのです。

『太平記』に記された時行の奏聞は、その執念を如実に物語っています。

「亡父・高時法師は、臣下としての道をわきまえず、ついに帝からのお咎めを蒙り滅亡しました。しかしながら、天の下した罰が道理にかなうものであることを存じておりますので、この時行、塵ほども帝をお恨み申しあげるつもりはございません」

「そもそも尊氏が今日ありますのも、ひとえに我が北条家による優遇のおかげです。それにも拘わらず、恩を蒙りながら恩を忘れ、天が治めるこの世にありながら天に背いています」

「北条家一門は敵をほかに求めることは全くなく、ひたすら尊氏、直義らに対して我が一門の恨みを晴らそうと思います」

この書状が書かれた時、時行はまだ15歳にも満たない少年でした。父の非を認めてでも、足利尊氏だけは絶対に許せないという強烈な意志がにじみ出ています。

なぜ足利尊氏だけを憎んだのか

時行が後醍醐天皇ではなく尊氏を憎んだ理由は、大きく二つ考えられます。

1. 恩を仇で返した裏切り

足利家は北条家の厚遇によって繁栄してきました。その恩義を受けながら主家を滅ぼしたことは、当時の価値観では最大級の不義でした。

2. 諏訪頼重への恩義

時行を救い、育ててくれた諏訪頼重は、尊氏との戦いで命を落としました。頼重は時行にとって、父親のような存在だったのです。


三度の鎌倉奪還

南朝に帰順した時行は、その後も尊氏との戦いを続けました。

二度目の鎌倉奪還(1337年)

延元2年/建武4年(1337年)、時行は伊豆で挙兵しました。

北畠顕家や新田義興(義貞の子)らと協力し、鎌倉を守る足利義詮を追い払い、二度目の鎌倉奪還に成功します。斯波家長を杉本城で敗死させるなど、大きな戦果を挙げました。

しかし、この支配も長くは続きませんでした。

三度目の鎌倉奪還(1352年)

正平7年/文和元年(1352年)、室町幕府内部で「観応の擾乱」と呼ばれる内紛が勃発します。

尊氏と弟・直義の対立が武力衝突にまで発展したのです。この混乱に乗じて、南朝は全国的な反撃を開始しました。

時行は新田義興らと共に武蔵野合戦で戦い、初代鎌倉公方・足利基氏を破って三度目の鎌倉奪還を果たします。

しかし、これが時行最後の栄光となりました。


宿命の終焉

処刑

正平8年/文和2年(1353年)5月20日、時行はついに足利方に捕らえられます。

鎌倉の龍ノ口(現在の神奈川県藤沢市片瀬)で処刑され、その生涯を閉じました。享年は推定24歳とされています。

興味深いことに、この日は鎌倉幕府が滅亡してからちょうど20年を迎える2日前でした。時行は20年間、諦めることなく尊氏と戦い続けたのです。

斬首という処刑方法

時行の処刑は「斬首」でした。

切腹が武士の名誉ある死に方とされていた時代において、斬首は罪人の処刑方法です。これは足利方が時行を「反逆者」として扱ったことを意味しています。

尊氏のその後

尊氏は時行の死から約5年後の延文3年/正平13年(1358年)に病死しました。

彼が開いた室町幕府は、その後約240年間続くことになります。一方で、尊氏自身は南北朝の争乱が収まるのを見届けることなく世を去りました。


二人の関係の歴史的意義

中先代の乱がもたらしたもの

時行が起こした中先代の乱は、日本史に大きな影響を与えました。

この乱がなければ、尊氏は京都に留まり、後醍醐天皇と敵対する機会がなかったかもしれません。尊氏が鎌倉に下向し、そのまま独自の行動を取り始めたことが、建武政権崩壊と室町幕府成立の引き金となったのです。

つまり、5歳(または10歳前後)の少年が起こした反乱が、日本の武家政治の歴史を大きく変えたと言えるでしょう。

歴史的評価の変遷

北条時行の評価は、時代によって大きく異なります。

室町幕府の時代には、後醍醐天皇に対して乱を起こした「反逆者」として厳しく批判されました。

一方で、後醍醐天皇の南朝が日本の正統とされた明治維新後は、尊氏が批判の対象となり、時行は攻撃されませんでした。南朝方として尊氏と戦い続けた姿が評価されたのです。

現代では、勝者でも敗者でもなく、激動の時代を必死に生き抜いた若き武将として、より客観的な評価がなされるようになっています。


現代文化への影響

『逃げ上手の若君』の大ヒット

松井優征による漫画『逃げ上手の若君』は、2021年から『週刊少年ジャンプ』で連載を開始し、2024年にはアニメ化されて大きな話題となりました。

この作品は、「戦って死ぬことこそが武士の誉れ」とされた時代において、「逃げて生き延びる」ことで英雄となった時行の生涯を描いています。

尊氏は主人公の宿敵として、圧倒的なカリスマ性と不気味な存在感を持つキャラクターとして描かれています。穏やかな表情の裏に潜む野望と狂気が、物語に緊張感を与えています。

これまで知られていなかった英雄

『逃げ上手の若君』が画期的だったのは、それまであまり一般に知られていなかった北条時行を主人公に据えたことです。

教科書では「中先代の乱」という名前で触れられる程度の出来事が、一人の少年の視点から描かれることで、多くの人々の興味を引きつけました。


まとめ

北条時行と足利尊氏の関係は、日本史における最も劇的な因縁の一つです。

重要なポイント

  • 足利氏は代々北条氏の恩顧を受け、婚姻関係で結ばれていた
  • 尊氏は主家である北条氏を裏切り、鎌倉幕府を滅亡させた
  • 時行は5歳(または10歳前後)で「中先代の乱」を起こし、鎌倉を一時奪還
  • 父を死に追いやった後醍醐天皇に帰順してでも、尊氏への復讐を選んだ
  • 生涯で三度の鎌倉奪還を果たしたが、最終的には捕らえられて処刑された
  • 鎌倉幕府滅亡から20年間、尊氏と戦い続けた

時行の物語は、単なる敗者の悲劇ではありません。

圧倒的な強者に立ち向かい、何度敗れても立ち上がり続けた姿は、現代の私たちの心にも響くものがあります。「逃げること」を戦略として使い、最後まで諦めなかった少年の生涯は、新しい形の英雄像を示しているのかもしれません。

『逃げ上手の若君』をきっかけに、ぜひ鎌倉末期から南北朝時代の歴史にも触れてみてください。教科書では語られない、熱い人間ドラマがそこにはあります。

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