日本史の授業で「吾妻鏡」と「増鏡」という名前を聞いたことはありませんか?
どちらも「鏡」という文字がついていて、なんとなく似た時代を扱っているような気がしますよね。
でも実は、この2つはまったく性格の異なる歴史書なんです。
「名前は似ているけど、何が違うの?」「どっちがどっちか覚えられない」という方も多いのではないでしょうか。
この記事では、吾妻鏡と増鏡の違いをわかりやすく解説していきます。
吾妻鏡と増鏡を一言で言うと?

まずは結論から。
- 吾妻鏡:鎌倉幕府が編纂した「武家の歴史書」
- 増鏡:京都の貴族が書いた「朝廷の歴史物語」
同じ「鏡」がついていても、立場も視点も書き方もまったく違うのです。
吾妻鏡とは?
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 吾妻鏡(東鑑とも書く) |
| 成立時期 | 鎌倉時代末期(1300年頃) |
| 扱う時代 | 1180年〜1266年(約87年間) |
| 巻数 | 52巻(現存は51巻) |
| 編纂者 | 鎌倉幕府の関係者(北条氏周辺) |
| 文体 | 日記体の和漢混交文 |
吾妻鏡の特徴
吾妻鏡は、鎌倉幕府が自分たちの歴史を記録した公式の歴史書です。
「吾妻(あづま)」という言葉は、京都から見た「東国」、つまり関東地方のこと。
ヤマトタケルが妻を思って「吾妻はや(我が妻よ)」と嘆いた故事に由来しています。
内容は、源頼朝の挙兵から6代将軍・宗尊親王が京都に送還されるまでの出来事を、日記のような形式で記録しています。
特徴的なのは、あくまで武家の視点で書かれていること。
朝廷や貴族の動きは、幕府と関係がない限りほとんど記載されていません。
吾妻鏡を愛読した徳川家康
吾妻鏡は戦国武将たちに広く読まれました。
特に徳川家康は愛読者として有名で、武士としての心得や統治の術を学んだと言われています。
家康は散逸していた吾妻鏡の写本を集め、1605年に出版して普及に努めたほどです。
増鏡とは?
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 増鏡(ますかがみ) |
| 成立時期 | 南北朝時代(1338年〜1376年頃) |
| 扱う時代 | 1180年〜1333年(約153年間) |
| 巻数 | 17巻(増補本は19巻・20巻) |
| 作者 | 不詳(二条良基説が有力) |
| 文体 | 和文(源氏物語の影響が強い) |
増鏡の特徴
増鏡は、朝廷を中心とした優雅な貴族社会の歴史を描いた物語です。
「四鏡(しきょう)」と呼ばれる歴史物語シリーズの最後の作品で、大鏡・今鏡・水鏡に続く位置づけになります。
内容は、後鳥羽天皇の誕生から後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すまでの約150年間。
承久の乱や元寇など、武家と朝廷の対立も描かれますが、あくまで公家の視点から見た歴史です。
文章は源氏物語の影響を強く受けた典雅な文体で書かれており、文学作品としての価値も高く評価されています。
「増鏡」の名前の由来
「増(ます)鏡」は「真澄(ますみ)の鏡」の略で、「よく澄んだ鏡」という意味。
過去をありのままに映し出す鏡、という願いが込められているとされています。
また、大鏡・今鏡・水鏡の「三鏡」に一つ増やすという意味も含まれているかもしれません。
吾妻鏡と増鏡の違いを徹底比較

比較一覧表
| 比較項目 | 吾妻鏡 | 増鏡 |
|---|---|---|
| 分類 | 歴史書(記録) | 歴史物語(文学) |
| 視点 | 武家(鎌倉幕府) | 朝廷(公家社会) |
| 扱う時代 | 1180年〜1266年 | 1180年〜1333年 |
| 成立時期 | 1300年頃 | 1338年〜1376年頃 |
| 編纂者 | 幕府関係者 | 不詳(貴族) |
| 文体 | 日記体・和漢混交文 | 物語体・和文 |
| 四鏡に含まれるか | 含まれない | 含まれる |
違いのポイントを詳しく解説
1. 立場と視点がまったく違う
吾妻鏡は鎌倉幕府が自らの正当性を示すために編纂した歴史書。
一方、増鏡は朝廷側の貴族が書いた歴史物語です。
同じ事件でも、どちらの立場から見るかで描き方が変わります。
たとえば承久の乱は、吾妻鏡では幕府の勝利として、増鏡では朝廷の悲劇として描かれています。
2. 記録か物語か
吾妻鏡は日記形式の記録として書かれています。
「何年何月何日に何が起きた」という事実を淡々と積み重ねていくスタイル。
増鏡は物語形式で、100歳を超える老尼が昔話を語るという設定になっています。
源氏物語を思わせる文学的な表現が多く使われているのも特徴です。
3. 「四鏡」との関係
増鏡は四鏡の一つとして、大鏡・今鏡・水鏡と並ぶ存在です。
四鏡はすべて朝廷の歴史を扱い、老人が昔を語るという共通の形式を持っています。
吾妻鏡は「鏡」という名前がついていますが、四鏡には含まれません。
四鏡にならって東国の歴史を記したことから「鏡」の名がついたと考えられています。
なぜ同じ「鏡」なのに別物なの?
「鏡」は「歴史を映し出すもの」の意味
当時、歴史書に「鏡」をつけるのは一種の流行でした。
鏡が物事をありのままに映し出すように、過去の出来事を正確に伝える書物という意味が込められていたのです。
大鏡が書かれて以降、「今を映す鏡」「昔を映す鏡」「未来を増やす鏡」など、さまざまな「鏡」が生まれました。
吾妻鏡もその流れで、東国(吾妻)の歴史を映し出す鏡という意味でつけられたと考えられています。
武家と公家、それぞれの「歴史」
吾妻鏡と増鏡が異なる理由は、編纂者の立場が違うからです。
鎌倉幕府は、朝廷とは別に独自の歴史を残したかった。
一方、京都の貴族たちは、武家政権の時代でも朝廷中心の歴史観を守りたかった。
つまり、同じ時代を別々の視点で記録した結果、2つの「鏡」が生まれたのです。
覚え方のコツ
試験対策として、2つの違いを覚えるコツをご紹介します。
- 吾妻鏡:「吾妻=東国=鎌倉=武家」と連想
- 増鏡:「増=四鏡に増やした=朝廷の歴史物語」と連想
また、成立順は「だいこんみずまし」(大鏡→今鏡→水鏡→増鏡)という語呂合わせで覚えられます。
吾妻鏡は四鏡に入らないので、この語呂には含まれないと覚えておきましょう。
まとめ
吾妻鏡と増鏡の違いをまとめると、以下のようになります。
吾妻鏡
- 鎌倉幕府が編纂した武家の歴史書
- 日記形式で事実を記録
- 東国(鎌倉)の視点
- 四鏡には含まれない
増鏡
- 貴族が書いた朝廷の歴史物語
- 物語形式で優雅な文体
- 京都(朝廷)の視点
- 四鏡の最後の作品
同じ「鏡」という名前でも、立場も視点も性格もまったく異なることがわかりましたね。
どちらも鎌倉時代を知るうえで欠かせない貴重な史料です。
武家と公家、2つの視点から当時の日本を見てみると、より立体的に歴史を理解できるのではないでしょうか。


コメント