ゲームやアニメ、漫画で「曹操」「劉備」「諸葛亮」といった名前を聞いたことはありませんか?
これらはすべて、約1800年前の中国で活躍した英雄たちの名前です。
当時の中国は魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)という三つの国に分かれて、激しい覇権争いを繰り広げていました。
「三国志って聞いたことはあるけど、どんな国があったの?」「それぞれの国の違いがよくわからない」という方も多いのではないでしょうか。
この記事では、三国志に登場する国々の特徴や成り立ち、主要な人物について、わかりやすく一覧形式でご紹介します。
三国志とは?時代の概要

三国時代の基本情報
三国時代とは、中国の歴史における時代区分の一つです。
後漢(ごかん)という統一王朝が衰退した後、中国が三つの国に分裂した時代を指します。
三国時代の期間
| 区分 | 年代 | 出来事 |
|---|---|---|
| 広義の三国時代 | 184年〜280年 | 黄巾の乱から西晋の統一まで |
| 狭義の三国時代 | 220年〜280年 | 魏の建国から呉の滅亡まで |
| 三国鼎立期間 | 229年〜263年 | 三国が正式に並立した期間 |
正確には、曹丕が魏を建国した220年から、西晋が呉を滅ぼして統一した280年までの約60年間とされています。
ただし、実際に三つの国が皇帝を名乗って並び立ったのは約40年間でした。
なぜ三つの国に分かれたの?
後漢王朝の末期、中国では黄巾の乱(こうきんのらん)という大規模な農民反乱が起きました。
この反乱をきっかけに、各地で力を持った武将たちが独立し、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の状態になったのです。
その混乱の中から、最終的に三人の英雄が勝ち残りました。
- 曹操(そうそう):華北を統一した政治家・軍事家
- 劉備(りゅうび):漢の皇室の血を引くと称した仁義の人
- 孫権(そんけん):長江流域を支配した若き君主
208年の赤壁の戦い(せきへきのたたかい)で曹操が敗北したことで、三者が並び立つ「天下三分」の状態が確立しました。
三国一覧|魏・蜀・呉の基本データ
まずは三国の基本情報を表で比較してみましょう。
| 項目 | 魏(ぎ) | 蜀(しょく) | 呉(ご) |
|---|---|---|---|
| 正式名称 | 曹魏(そうぎ) | 蜀漢(しょくかん) | 孫呉(そんご)・東呉 |
| 建国年 | 220年 | 221年 | 229年(称帝) |
| 滅亡年 | 265年 | 263年 | 280年 |
| 首都 | 洛陽(らくよう) | 成都(せいと) | 建業(けんぎょう)※現在の南京 |
| 創業者 | 曹操(曹丕が建国) | 劉備 | 孫権 |
| 人口 | 約440万人 | 約94万人 | 約230万人 |
| 支配地域 | 華北(中国北部) | 四川盆地(中国西南部) | 長江下流域(中国東南部) |
| 国力比 | 約6 | 約1 | 約2 |
三国の国力は対等ではありませんでした。
魏が圧倒的に強く、呉がそれに次ぎ、蜀は最も小さな国だったのです。
日本に例えると、魏が本州、呉が九州、蜀が四国くらいの規模感でした。
魏(ぎ)──最強の北方王朝
魏の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 魏(曹魏) |
| 期間 | 220年〜265年(45年間) |
| 首都 | 洛陽(後に許昌から遷都) |
| 領土 | 中国北部全域(黄河流域) |
| 特徴 | 三国最大の国力と人口を誇る |
どんな国だった?
魏は三国の中で最も強大な国でした。
中国の政治・経済の中心地である華北地方を支配し、人口は約440万人。
これは三国全体の約6割を占める圧倒的な数字です。
軍事力でも群を抜いており、推定で約44万人の兵力を動員できたとされています。
蜀の約10万人、呉の約23万人と比べると、その差は歴然でしょう。
魏の建国と歴史
魏の基礎を築いたのは曹操(そうそう)です。
曹操は後漢の皇帝・献帝を保護することで、朝廷の権威を利用しながら勢力を拡大しました。
200年の官渡の戦い(かんとのたたかい)で強敵・袁紹を破り、華北の支配権を確立します。
しかし、曹操自身は皇帝を名乗らず、「魏王」の位にとどまりました。
220年に曹操が死去すると、息子の曹丕(そうひ)が献帝から禅譲(ぜんじょう)を受けて皇帝に即位。
これにより後漢は滅亡し、魏が正式に建国されたのです。
魏の特色
魏は新しい制度を積極的に導入した国でした。
屯田制(とんでんせい)
戦乱で荒廃した土地を復興するため、農民や兵士に土地を耕させる制度。
これにより食糧生産を安定させました。
九品中正(きゅうひんちゅうせい)
人材登用のための制度。
地方の有力者が人物を9段階で評価し、それに基づいて官職を与えるシステムでした。
魏の主要人物
| 人物名 | 読み方 | 役割・特徴 |
|---|---|---|
| 曹操 | そうそう | 魏の基礎を築いた英雄。軍事・政治・文学に優れた万能の天才 |
| 曹丕 | そうひ | 魏の初代皇帝(文帝)。献帝から禅譲を受けて建国 |
| 曹叡 | そうえい | 第2代皇帝(明帝)。諸葛亮の北伐を退けた |
| 司馬懿 | しばい | 名軍師。諸葛亮と対峙し、後に孫の代で晋を建国 |
| 荀彧 | じゅんいく | 曹操の名参謀。内政・戦略の両面で活躍 |
| 張遼 | ちょうりょう | 魏の名将。合肥の戦いで孫権軍を撃退 |
魏の滅亡
魏の実権は次第に司馬氏一族に移っていきました。
249年、司馬懿がクーデターを起こして政権を掌握。
その孫の司馬炎(しばえん)が265年、最後の皇帝から禅譲を受けて晋(しん)を建国します。
こうして魏は45年間の歴史に幕を閉じました。
蜀(しょく)──義を重んじた小国

蜀の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 漢(蜀漢) |
| 期間 | 221年〜263年(42年間) |
| 首都 | 成都 |
| 領土 | 四川盆地、漢中地方 |
| 特徴 | 三国で最も国力が小さいが、人気は最も高い |
どんな国だった?
蜀は三国の中で最も小さな国でした。
人口は約94万人で、魏の5分の1程度。
兵力も約10万人と、軍事力でも大きく劣っていたのです。
しかし、三国志演義(さんごくしえんぎ)という小説では蜀が主役として描かれ、現代でも最も人気のある国となっています。
蜀の建国と歴史
蜀を建国したのは劉備(りゅうび)です。
劉備は漢王朝の血を引く末裔を自称し、「漢室復興」を掲げて戦いました。
関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)という義兄弟と共に各地を転戦。
207年には天才軍師・諸葛亮(しょかつりょう)を三顧の礼(さんこのれい)で迎え入れます。
208年の赤壁の戦いで曹操を破った後、劉備は荊州(けいしゅう)南部を獲得。
さらに211年からは益州(えきしゅう)に進出し、四川盆地を手に入れました。
221年、魏の曹丕が皇帝に即位すると、劉備もこれに対抗して皇帝を名乗ります。
国号は「漢」としましたが、四川の地にあったことから「蜀漢」や「蜀」と呼ばれるようになりました。
蜀の特色
蜀の強みは優秀な人材と地の利でした。
諸葛亮の治世
劉備の死後、蜀の実権を握った諸葛亮は、厳格だが公平な法律「蜀科」を制定。
農業振興や少数民族との友好関係構築など、国力増強に努めました。
天然の要害
四川盆地は山に囲まれた天然の要塞。
秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)が魏との国境を守り、攻め込まれにくい地形でした。
産業振興
塩と鉄の専売制を実施し、財政を確保。
また、蜀錦(しょくきん)と呼ばれる高級絹織物は魏や呉に輸出され、重要な収入源となっていました。
蜀の主要人物
| 人物名 | 読み方 | 役割・特徴 |
|---|---|---|
| 劉備 | りゅうび | 蜀の建国者。仁義を重んじた君主 |
| 劉禅 | りゅうぜん | 第2代皇帝。凡庸な君主として知られる |
| 諸葛亮 | しょかつりょう | 天才軍師。「孔明」の字でも有名 |
| 関羽 | かんう | 義の武将。後世では神として祀られる |
| 張飛 | ちょうひ | 豪傑。劉備・関羽と義兄弟の契りを結んだ |
| 趙雲 | ちょううん | 忠義の武将。劉備の子を救った逸話で有名 |
| 姜維 | きょうい | 諸葛亮の後継者。北伐を継続した |
蜀の滅亡
諸葛亮は魏を倒すため、北伐(ほくばつ)と呼ばれる軍事遠征を5回実施しました。
しかし、国力差を覆すことはできず、234年に五丈原(ごじょうげん)で病没します。
諸葛亮の死後、蜀は次第に衰退。
皇帝・劉禅は宦官(かんがん)の黄皓に政治を任せきりにし、国政は乱れていきました。
263年、魏の大軍が侵攻すると、劉禅は戦わずして降伏。
蜀は42年間の歴史に幕を閉じ、三国最初の滅亡国となりました。
呉(ご)──水軍を誇る南方の大国
呉の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 正式名称 | 呉(孫呉・東呉) |
| 期間 | 222年〜280年(58年間) |
| 首都 | 建業(現在の南京)、武昌 |
| 領土 | 長江流域、華南地方 |
| 特徴 | 三国で最も長く存続した国 |
どんな国だった?
呉は長江(ちょうこう)流域を支配した国です。
人口は約230万人で、蜀の約2.5倍。
長江という天然の防衛線を持ち、強力な水軍を誇っていました。
三国の中で最も長く存続し、滅亡したのは280年のこと。
魏が滅んでから15年も後まで国を維持していたのです。
呉の建国と歴史
呉の基礎を築いたのは孫堅(そんけん)です。
孫堅は後漢末の動乱で頭角を現した武将でしたが、若くして戦死。
長男の孫策(そんさく)が跡を継ぎ、江東地方を平定しました。
しかし、孫策も26歳で暗殺されてしまいます。
弟の孫権(そんけん)がわずか18歳で後を継ぎ、周瑜(しゅうゆ)や魯粛(ろしゅく)といった優秀な家臣に支えられながら国を発展させました。
208年の赤壁の戦いでは、劉備と同盟を結んで曹操の大軍を撃破。
これにより呉の独立は確保されました。
229年、孫権は正式に皇帝を名乗り、呉が三国目の皇帝を持つ国として成立したのです。
呉の特色
呉の最大の強みは水軍と地理的優位性でした。
長江の防衛
長江は天然の要害として機能し、魏の侵攻を何度も退けました。
合肥(がっぴ)や寿春(じゅしゅん)への呉の攻撃は失敗が多かったものの、逆に魏も長江を越えることができなかったのです。
造船業の発達
呉は優れた造船技術を持ち、海上交易も盛んでした。
台湾や東南アジア方面への進出も試みています。
江南開発
呉の時代に長江以南の地域が本格的に開発されました。
これは後の中国史において、南方が経済の中心地となる礎を築いたといえるでしょう。
呉の主要人物
| 人物名 | 読み方 | 役割・特徴 |
|---|---|---|
| 孫堅 | そんけん | 呉の礎を築いた武将。「江東の虎」と呼ばれた |
| 孫策 | そんさく | 孫堅の長男。江東を平定した「小覇王」 |
| 孫権 | そんけん | 呉の建国者。50年以上にわたり国を治めた |
| 周瑜 | しゅうゆ | 名将。赤壁の戦いで曹操を破った立役者 |
| 魯粛 | ろしゅく | 外交の名手。劉備との同盟を推進 |
| 陸遜 | りくそん | 名将。夷陵の戦いで劉備軍を撃破 |
| 呂蒙 | りょもう | 荊州を奪取し、関羽を討ち取った将軍 |
呉の滅亡
孫権は252年に70歳で死去。
その後は幼い皇帝が続き、権臣同士の争いで国は乱れていきました。
諸葛恪(しょかつかく)、孫峻(そんしゅん)、孫綝(そんりん)といった権臣が次々と実権を握り、政治は混乱。
最後の皇帝・孫皓(そんこう)は暴君として知られ、人心は離れていきました。
280年、西晋の大軍が水陸両面から侵攻。
長江の防衛線も突破され、孫皓は降伏します。
これにより三国時代は終わりを告げ、中国は約60年ぶりに統一されました。
三国を比較|それぞれの国の特徴
政治体制の違い
| 国 | 政治の特徴 | 正統性の根拠 |
|---|---|---|
| 魏 | 能力主義・改革志向 | 後漢皇帝からの禅譲 |
| 蜀 | 法治主義・仁政 | 漢王朝の血統継承 |
| 呉 | 豪族連合・地方分権的 | 独自の建国 |
魏は後漢の皇帝から禅譲を受けたため、正史『三国志』では正統王朝として扱われています。
九品中正などの新制度を導入し、改革的な政治を行いました。
蜀は漢王朝の正統な後継者を自称。
諸葛亮による厳格だが公平な法治が特徴でした。
呉は地方豪族の連合政権的な性格が強く、孫権の個人的なカリスマに依存する部分がありました。
軍事力の違い
| 国 | 推定兵力 | 主な戦術 |
|---|---|---|
| 魏 | 約44万人 | 持久戦・情報戦・騎兵 |
| 蜀 | 約10万人 | 奇襲・山岳戦 |
| 呉 | 約23万人 | 水軍・火攻め・防御戦 |
魏は圧倒的な兵力を背景に、司馬懿のような持久戦を得意としました。
蜀は兵力で劣るため、諸葛亮の策略や山岳地形を活かした戦いが中心。
呉は水軍を最大限に活用し、赤壁の戦いでは火攻めで大勝利を収めています。
経済の違い
| 国 | 主な産業 | 特産品 |
|---|---|---|
| 魏 | 農業(屯田制) | 穀物、鉄器 |
| 蜀 | 塩・鉄の専売、織物 | 蜀錦(高級絹) |
| 呉 | 造船、海上交易 | 陶器、塩 |
三国時代の重要な戦い

三国志といえば、数々の名勝負が知られています。
主要な戦いを時系列で見てみましょう。
主要な戦い一覧
| 年代 | 戦いの名前 | 対戦カード | 結果 |
|---|---|---|---|
| 200年 | 官渡の戦い | 曹操 vs 袁紹 | 曹操の勝利 |
| 208年 | 赤壁の戦い | 曹操 vs 孫権・劉備連合 | 連合軍の勝利 |
| 211年 | 合肥の戦い | 曹操 vs 孫権 | 曹操軍の勝利 |
| 214年 | 漢中の戦い | 曹操 vs 劉備 | 劉備の勝利 |
| 222年 | 夷陵の戦い | 劉備 vs 孫権 | 孫権の勝利 |
| 228年 | 街亭の戦い | 諸葛亮 vs 司馬懿 | 魏の勝利 |
| 234年 | 五丈原の戦い | 諸葛亮 vs 司馬懿 | 引き分け(諸葛亮病没) |
赤壁の戦い──三国鼎立を決定づけた大決戦
208年、華北を統一した曹操は約20万の大軍を率いて南下。
長江を越えて天下統一を目指しました。
これに対し、孫権と劉備は同盟を結んで迎え撃ちます。
連合軍の総大将・周瑜は、黄蓋(こうがい)の偽装降伏作戦を採用。
曹操軍の船団に火を放ち、大混乱に陥れました。
この敗北で曹操の南下は阻止され、三国が並び立つ基盤ができたのです。
夷陵の戦い──蜀の衰退を招いた復讐戦
222年、劉備は関羽の仇を討つため、孫権に対して大軍を率いて出陣。
しかし、呉の若き将・陸遜の火攻めにより大敗を喫しました。
この敗戦で蜀は多くの兵力を失い、劉備も翌年に病死。
蜀の衰退を決定づける出来事となりました。
三国時代の終わり──晋による統一
三国の滅亡順序
| 順番 | 国名 | 滅亡年 | 滅亡の経緯 |
|---|---|---|---|
| 1位 | 蜀 | 263年 | 魏に降伏 |
| 2位 | 魏 | 265年 | 晋に禅譲 |
| 3位 | 呉 | 280年 | 晋に降伏 |
最初に滅んだのは蜀でした。
263年、魏の鍾会(しょうかい)・鄧艾(とうがい)らが侵攻し、わずか数ヶ月で首都・成都が陥落。
次に魏が消滅しますが、これは外部からの侵略ではありません。
265年、司馬炎が皇帝から禅譲を受けて晋(西晋)を建国したのです。
最後まで残った呉は280年、晋の大軍により滅亡。
約60年に及ぶ分裂時代が終わり、中国は再び統一されました。
三国志が現代に与える影響
エンターテイメントへの影響
三国志は現代でも絶大な人気を誇っています。
ゲーム
- コーエーテクモの「三國志」シリーズ
- 「真・三國無双」シリーズ
- 「Fate/Grand Order」(武将がサーヴァントとして登場)
- 「パズル&ドラゴンズ」
アニメ・漫画
- 「キングダム」(三国志の前の時代を描く)
- 「横山光輝 三国志」
- 「蒼天航路」
- 「パリピ孔明」
小説
- 吉川英治「三国志」
- 北方謙三「三国志」
日本での三国志人気
日本では三国志が特に人気があります。
江戸時代に「通俗三国志」として翻訳されて以来、多くの作品が生まれてきました。
特にゲームの「三國志」シリーズは世界的なヒットとなり、三国志ファンを増やし続けています。
テーブルトークRPG「クトゥルフ神話TRPG」が日本で人気なのと同様に、三国志も日本独自の文化として定着しているといえるでしょう。
ビジネスへの影響
三国志の故事成語は、現代のビジネスシーンでも活用されています。
| 故事成語 | 意味 | 由来 |
|---|---|---|
| 三顧の礼 | 何度も足を運んで人材を招く | 劉備が諸葛亮を3度訪ねた故事 |
| 泣いて馬謖を斬る | 私情を捨てて規律を守る | 諸葛亮が愛弟子を処刑した故事 |
| 白眉 | 兄弟の中で最も優れた者 | 馬良が眉に白い毛があった故事 |
| 苦肉の策 | 自分を犠牲にした計略 | 黄蓋の偽装降伏作戦 |
まとめ
三国志に登場する魏・蜀・呉の三国は、それぞれ異なる特徴を持った国家でした。
魏は最大の国力と人口を誇り、改革的な政治で華北を支配。
蜀は小国ながら優秀な人材と地の利を活かし、義を重んじた国として人気を集めています。
呉は水軍を誇り、長江を天然の要害として三国で最も長く存続しました。
三国志の魅力は、単なる戦争の記録ではありません。
曹操の野望、劉備の仁義、孫権の堅実さなど、それぞれの英雄たちが自分の信じる道を歩んだ姿が、現代の私たちにも多くの示唆を与えてくれるのです。
興味を持った国や人物がいたら、ぜひ三国志の物語を深く探ってみてください。
約1800年前の英雄たちの生き様が、きっとあなたの心に響くはずです。


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