「諸葛亮」「司馬懿」「周瑜」といった名前を聞いたことはありませんか?
これらはすべて、三国志に登場する天才軍師たちの名前です。
三国志といえば、関羽や張飛のような豪傑たちの武勇が思い浮かぶ方も多いでしょう。
でも実は、戦いの勝敗を決めていたのは、知略を巡らせた軍師たちの存在だったんです。
どんなに強い武将がいても、優れた策がなければ戦には勝てません。
逆に、巧みな計略ひとつで大軍を打ち破った例も数多くあります。
「名前は知ってるけど、具体的にどんな活躍をしたの?」「魏・呉・蜀それぞれにどんな軍師がいたの?」という疑問をお持ちの方も多いのではないでしょうか。
この記事では、三国志に登場する軍師たちを国別に一覧形式で詳しくご紹介します。
三国志の軍師ってどんな存在?

軍師の役割とは
軍師(ぐんし)とは、君主や将軍に戦略や作戦を進言する参謀のことです。
現代でいえば、会社の経営戦略を考えるブレーンや、スポーツチームの監督のような役割を担っていました。
軍師の主な仕事
- 戦争の作戦を立てる
- 敵の動きを予測する
- 政治や外交の方針を進言する
- 人材を推薦する
- 国の法律や制度を整える
なぜ軍師が重要だったの?
三国時代は、約100年にわたって魏・呉・蜀の三国が争った時代です。
どの国も限られた兵力と物資で戦わなければならなかったため、いかに効率よく勝つかが重要でした。
そのため、知略に優れた軍師の存在が国の命運を左右したんです。
実際に、軍師の進言ひとつで戦況が一変した例は数えきれません。
赤壁の戦いでは、周瑜の火計によって曹操の大軍が壊滅しました。
官渡の戦いでは、荀彧の進言で曹操が袁紹に勝利しています。
【魏】曹操を天下人にした名軍師たち
魏は三国の中で最も多くの優秀な人材を抱えていました。
その理由は、曹操が「唯才是挙(ただ才能だけを挙げよ)」という方針で、身分や出自に関係なく有能な人材を積極的に登用したからです。
荀彧(じゅんいく)── 魏の国づくりを支えた大黒柱
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 文若(ぶんじゃく) |
| 生没年 | 163年〜212年 |
| 出身地 | 豫州潁川郡 |
| 主な役職 | 尚書令 |
どんな人物?
荀彧は曹操から「我が子房(張良)」と称えられた、魏の最高参謀です。
若い頃から「王佐の才」と評価され、最初は袁紹に仕えていました。
しかし袁紹の器量に見切りをつけ、曹操のもとに移ったのです。
主な功績
- 献帝の擁立を進言:皇帝を保護することで、曹操に「漢の忠臣」という大義名分を与えた
- 人材の推挙:郭嘉、荀攸、程昱など多くの名参謀を曹操に紹介
- 留守を守る:曹操の不在時に本拠地を守り、呂布の反乱から魏を救った
荀彧の特徴は、戦術よりも国家戦略を得意としたこと。
目先の戦いではなく、国の将来を見据えた大局的な進言が多かったんです。
悲劇の最期
漢王朝に忠誠を誓っていた荀彧は、曹操が魏公になることに反対しました。
これが原因で曹操との関係が悪化し、最期は自害したとも伝えられています。
郭嘉(かくか)── 曹操が最も愛した天才参謀
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 奉孝(ほうこう) |
| 生没年 | 170年〜207年 |
| 出身地 | 豫州潁川郡 |
| 主な役職 | 軍師祭酒 |
どんな人物?
郭嘉は曹操から「わしの大業を成就させるのは、必ずやこの者だ」と絶賛された軍事の天才です。
荀彧の推薦で曹操に仕えると、初対面で意気投合。
郭嘉も「真に我が主君だ」と喜んだと記録されています。
主な功績
- 「十勝十敗」の論:袁紹との戦いで、曹操が勝てる10の理由を説いて士気を高めた
- 呂布攻略:下邳攻略で水攻めを進言し、呂布を捕らえることに成功
- 河北平定:袁紹死後の後継者争いを利用する策を立て、河北統一を実現
郭嘉の強みは、物事を見通す先見の明でした。
曹操は「わしの真意を理解しているのは奉孝だけだ」と語っています。
早すぎた死
207年、烏丸征伐の帰途で病に倒れ、わずか38歳で亡くなりました。
翌年の赤壁の戦いで大敗した曹操は、「もし奉孝がいてくれたなら、こんな負け方はしなかっただろう」と嘆いたといいます。
賈詡(かく)── 乱世を生き抜いた毒士
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 文和(ぶんか) |
| 生没年 | 147年〜223年 |
| 出身地 | 涼州武威郡 |
| 主な役職 | 太尉 |
どんな人物?
賈詡は「乱武(毒のある武器)」とも呼ばれた策略家です。
複数の主君を渡り歩きながら、常に的確な進言で主君を勝利に導きました。
特筆すべきは、曹操を何度も窮地に追い込んだ敵将だったこと。
主な功績
- 宛城の戦い:張繍に仕えていた時代、曹操を急襲して大損害を与えた
- 後継者問題:曹丕が後継者になるよう、さりげなく助言
- 三公への昇進:77歳まで生き、太尉(最高位の一つ)にまで昇進
賈詡の特徴は、局面が動くここぞという時に的確な進言をすること。
普段は目立たないよう振る舞い、必要な時だけ力を発揮したのです。
司馬懿(しばい)── 諸葛亮のライバルにして晋の礎を築いた男
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 仲達(ちゅうたつ) |
| 生没年 | 179年〜251年 |
| 出身地 | 河内郡 |
| 主な役職 | 太傅 |
どんな人物?
司馬懿は曹操・曹丕・曹叡・曹芳の4代に仕えた魏の重鎮です。
最初は仕官を嫌がり、病気のふりをして曹操の招聘を断っていました。
しかし曹操に脅される形で仕官し、やがて魏を支える大黒柱となります。
主な功績
- 孟達の反乱鎮圧:電撃的な速攻で反乱を鎮圧
- 諸葛亮との対決:北伐を防ぎ、諸葛亮の野望を阻止
- 曹爽の排除:高平陵の変でクーデターを起こし、魏の実権を握った
司馬懿の強みは、忍耐力と長期的な視野でした。
諸葛亮との対決では、無理に戦わず持久戦に持ち込んで勝利しています。
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」
諸葛亮の死後、蜀軍が撤退を始めた時、司馬懿は追撃を開始しました。
しかし蜀軍が反転したのを見て「これは孔明の罠だ」と撤退。
実は諸葛亮はすでに死んでおり、この出来事から上記の故事が生まれました。
司馬懿は「生者の考えは読めるが、死者の考えは読めない」と笑ったそうです。
その他の魏の軍師たち
| 名前 | 字 | 特徴 |
|---|---|---|
| 荀攸 | 公達 | 荀彧の甥、戦術立案の達人 |
| 程昱 | 仲徳 | 武力も備えたオールラウンダー |
| 劉曄 | 子揚 | 曹操・曹丕・曹叡の三代に仕えた腹心 |
| 満寵 | 伯寧 | 法律と軍事の両面で活躍 |
【呉】長江を守った智将たち
呉は長江という天然の要害を活かし、魏や蜀と渡り合いました。
周瑜に始まり、魯粛、呂蒙、陸遜と続く軍師たちは「東呉四大都督」と呼ばれ、それぞれが呉の存亡を担う活躍をしています。
周瑜(しゅうゆ)── 赤壁の炎で曹操を退けた美周郎
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 公瑾(こうきん) |
| 生没年 | 175年〜210年 |
| 出身地 | 廬江郡 |
| 主な役職 | 大都督 |
どんな人物?
周瑜は孫策の親友であり、呉の軍事を一手に担った名将です。
容姿端麗で音楽にも精通していたことから「美周郎」と呼ばれました。
「曲に誤りあれば周郎顧みる」という言葉は、彼の音楽への造詣の深さを示しています。
主な功績
- 江東平定:孫策とともに江東を統一
- 赤壁の戦い:火計で曹操の大軍を撃破し、三国鼎立の基礎を築いた
- 南郡攻略:曹仁を破り、南郡を奪取
赤壁の戦いでは、曹操軍80万(実際は20万程度)に対し、呉蜀連合軍はわずか5万。
周瑜は黄蓋の偽りの降伏と火攻めを組み合わせ、歴史的な大逆転勝利を収めました。
三国志演義での扱い
演義では諸葛亮の引き立て役として描かれ、「既生瑜、何生亮(すでに瑜を生みながら、なぜ亮を生んだのか)」と嘆いて死ぬ場面が有名です。
しかし正史では、赤壁の勝利は周瑜の功績であり、諸葛亮の活躍は記されていません。
魯粛(ろしゅく)── 天下二分を構想した戦略家
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 子敬(しけい) |
| 生没年 | 172年〜217年 |
| 出身地 | 臨淮郡 |
| 主な役職 | 横江将軍 |
どんな人物?
魯粛は周瑜に推薦されて孫権に仕えた戦略家です。
豪族出身で財力があり、周瑜から援助を求められた際、倉庫にあった3000斛の米をまるごと提供したというエピソードがあります。
主な功績
- 天下二分の計:曹操と対決するため、孫劉同盟を推進
- 荊州問題の調整:劉備との関係を調整し、同盟を維持
- 周瑜の後継者:大都督として呉軍を統率
演義では周瑜と諸葛亮の間で右往左往するお人よしとして描かれていますが、正史では気骨ある交渉人でした。
関羽と単独で会談し、荊州の一部返還を約束させた実績もあります。
呂蒙(りょもう)── 学問で身を立てた叩き上げの将軍
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 子明(しめい) |
| 生没年 | 178年〜220年 |
| 出身地 | 汝南郡 |
| 主な役職 | 大都督 |
どんな人物?
呂蒙は武勇一辺倒の武将から、学問を修めて知将に成長した人物です。
孫権から学問を勧められ、猛勉強の末に見違えるほどの識見を身につけました。
このことから「呉下の阿蒙」「士別三日、刮目して相待つ」という故事が生まれています。
主な功績
- 荊州奪還:白衣(商人の服)を着た兵を商船に乗せて奇襲し、関羽を破った
- 関羽捕縛:関羽を追い詰め、捕らえて処刑
呂蒙の荊州攻略は見事な作戦でした。
関羽の警備兵を油断させ、無血で城を次々と落としていったのです。
陸遜(りくそん)── 夷陵の炎で劉備を退けた最後の大都督
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 伯言(はくげん) |
| 生没年 | 183年〜245年 |
| 出身地 | 呉郡 |
| 主な役職 | 大都督・丞相 |
どんな人物?
陸遜は呉の名門「呉の四姓」の出身で、文武両道の名将です。
若くして孫権に仕え、呂蒙の荊州攻略に参画。
関羽討伐の方策を立て、その成功に貢献しました。
主な功績
- 夷陵の戦い:関羽の仇を討とうとする劉備の大軍を火計で撃破
- 石亭の戦い:魏軍を大敗させ、呉の威信を高めた
夷陵の戦いでは、劉備の大軍に対して徹底的に守りを固め、敵が疲弊するのを待ちました。
そして機を見て火攻めを仕掛け、蜀軍を壊滅させたのです。
周瑜、魯粛、呂蒙に続く第四の大都督として、陸遜は呉を支え続けました。
【蜀】劉備の夢を追い続けた参謀たち

蜀は三国の中で最も小さな国でしたが、諸葛亮をはじめとする優秀な軍師たちが国を支えました。
諸葛亮(しょかつりょう)── 三国志最高の軍師
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 孔明(こうめい) |
| 生没年 | 181年〜234年 |
| 出身地 | 徐州琅邪郡 |
| 主な役職 | 丞相 |
| 異名 | 臥龍(がりゅう)・伏龍(ふくりゅう) |
どんな人物?
諸葛亮は三国志で最も有名な軍師であり、知恵の象徴として今も語り継がれる人物です。
若い頃は荊州の隆中で農耕生活を送りながら、天下の情勢を研究していました。
「臥龍(伏龍)」と呼ばれ、劉備が三度訪ねてようやく仕官を決めた「三顧の礼」は有名ですね。
主な功績
- 天下三分の計:劉備に天下統一への道筋を示した
- 孫劉同盟の締結:呉との同盟を実現し、赤壁の戦いへの道を開いた
- 蜀の建国:益州を平定し、蜀漢を建国
- 南蛮平定:七度捕らえて七度解放する「七縦七擒」で南方を安定させた
- 北伐:魏を倒すため、五度にわたる北伐を敢行
劉備の死後は丞相として国政を担い、「出師表」を上奏して北伐を開始。
しかし志半ばで五丈原に病没しました。享年54。
諸葛亮の発明品
- 木牛流馬:山道で物資を運ぶための輸送機械
- 連弩:連発式の弩(いしゆみ)
- 八陣図:陣形の配置法
正史と演義の違い
演義では神がかり的な天才として描かれていますが、正史では政治家として高く評価されています。
軍事面では「応変の将略は、その長ずるところに非ず(臨機応変な軍略は得意ではなかった)」と評されることも。
しかし、荒廃した蜀をまとめ上げた政治手腕は、古代中国の名宰相・管仲や蕭何に匹敵すると称えられました。
龐統(ほうとう)── 鳳雛と呼ばれた夭折の天才
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 士元(しげん) |
| 生没年 | 179年〜214年 |
| 出身地 | 荊州襄陽郡 |
| 主な役職 | 軍師中郎将 |
| 異名 | 鳳雛(ほうすう) |
どんな人物?
龐統は諸葛亮と並び称された天才軍師です。
「臥龍・鳳雛」と呼ばれ、「どちらか一人を得れば天下を取れる」と評されていました。
外見は冴えなかったようですが、人物鑑定で有名な司馬徽に才能を認められ、名声を得ました。
主な功績
- 益州攻略の立案:劉備に益州を取るよう強く進言し、蜀建国の道筋をつけた
- 連環の計:演義では、赤壁の戦いで曹操の船を鎖で繋がせる策を授けたとされる
悲劇の死
益州攻略の途中、落鳳坡(らくほうは)という場所で流れ矢に当たり、36歳の若さで戦死しました。
陳寿は龐統を「魏の荀彧の兄弟に匹敵する」と高く評価しています。
もし長生きしていれば、諸葛亮の負担も軽減されたかもしれません。
法正(ほうせい)── 劉備が最も頼りにした軍師
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 孝直(こうちょく) |
| 生没年 | 176年〜220年 |
| 出身地 | 扶風郡 |
| 主な役職 | 尚書令・護軍将軍 |
どんな人物?
法正はもともと益州の劉璋に仕えていましたが、内部から劉備に協力した人物です。
性格は「偏狭で復讐心が強い」と評されましたが、その軍略は諸葛亮も認めるほどでした。
主な功績
- 益州攻略:内応者として劉備の入蜀を成功させた
- 漢中攻略:定軍山の戦いで夏侯淵を破る作戦を立案
- 蜀科の制定:諸葛亮らとともに蜀の法律を整備
諸葛亮との関係
夷陵の戦いで劉備が大敗した時、諸葛亮は「法正が生きていたら、陛下を止められただろう」と嘆きました。
法正の死を惜しむこの言葉から、諸葛亮が法正の才能を高く評価していたことがわかります。
姜維(きょうい)── 諸葛亮の遺志を継いだ将軍
基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 字 | 伯約(はくやく) |
| 生没年 | 202年〜264年 |
| 出身地 | 天水郡 |
| 主な役職 | 大将軍 |
どんな人物?
姜維はもともと魏の将でしたが、諸葛亮の北伐時に蜀に降りました。
諸葛亮は姜維の才能を見抜き、「軍事に通じ、胆力があり、漢室に心を寄せている」と絶賛。
丞相府に迎え入れ、後継者として育てました。
主な功績
- 北伐の継続:諸葛亮の死後も、11度にわたる北伐を敢行
- 鄧艾との戦い:魏の名将・鄧艾と何度も激戦を繰り広げた
姜維は蜀滅亡後も魏の将軍・鍾会を唆して反乱を起こさせるなど、最後まで蜀の復興を諦めませんでした。
三国最強の軍師は誰?
三国志ファンの間で永遠のテーマとなっている「最強軍師」論争。
各軍師の得意分野を整理してみましょう。
タイプ別分類
国家戦略型
大局的な視点で国の将来を見据える軍師
- 荀彧(魏)
- 魯粛(呉)
- 諸葛亮(蜀)
戦術立案型
戦場での作戦を考える軍師
- 郭嘉(魏)
- 周瑜(呉)
- 法正(蜀)
オールラウンダー型
政治・軍事の両方で活躍する軍師
- 司馬懿(魏)
- 陸遜(呉)
- 龐統(蜀)
総合評価
正史での功績を基準に考えると、以下のような評価ができます。
政治力No.1:諸葛亮
不安定な蜀を安定させた政治手腕は、三国随一と評価されています。
軍事力No.1:周瑜
赤壁での大勝利は、三国志最大の番狂わせでした。
総合力No.1:司馬懿
軍事・政治の両面で活躍し、最終的に天下を統一する晋の基礎を築きました。
ただし、これはあくまで一つの見方です。
三国志の魅力は、それぞれの軍師に個性と魅力があること。
ぜひ自分なりの「最強軍師」を見つけてみてください。
三国志 軍師一覧表【国別まとめ】
魏の軍師
| 名前 | 字 | 得意分野 | 代表的な功績 |
|---|---|---|---|
| 荀彧 | 文若 | 国家戦略 | 献帝擁立、人材推挙 |
| 郭嘉 | 奉孝 | 軍事戦略 | 十勝十敗の論、河北平定 |
| 荀攸 | 公達 | 戦術立案 | 官渡の戦いでの献策 |
| 賈詡 | 文和 | 謀略 | 宛城の戦い、後継者問題 |
| 程昱 | 仲徳 | 軍政両面 | 兗州防衛 |
| 司馬懿 | 仲達 | 総合 | 諸葛亮との対決、高平陵の変 |
| 劉曄 | 子揚 | 軍事 | 曹氏三代への助言 |
呉の軍師
| 名前 | 字 | 得意分野 | 代表的な功績 |
|---|---|---|---|
| 周瑜 | 公瑾 | 軍事 | 赤壁の戦い |
| 魯粛 | 子敬 | 外交・戦略 | 天下二分の計、孫劉同盟 |
| 呂蒙 | 子明 | 軍事 | 荊州奪還、関羽討伐 |
| 陸遜 | 伯言 | 軍政両面 | 夷陵の戦い、石亭の戦い |
| 張昭 | 子布 | 政治 | 孫呉の国政を統括 |
| 諸葛瑾 | 子瑜 | 外交 | 蜀との交渉(諸葛亮の兄) |
蜀の軍師
| 名前 | 字 | 得意分野 | 代表的な功績 |
|---|---|---|---|
| 諸葛亮 | 孔明 | 政治・戦略 | 蜀建国、南蛮平定、北伐 |
| 龐統 | 士元 | 軍事 | 益州攻略の立案 |
| 法正 | 孝直 | 軍事 | 漢中攻略 |
| 姜維 | 伯約 | 軍事 | 北伐の継続 |
| 徐庶 | 元直 | 軍事 | 劉備初期の参謀(後に魏へ) |
| 馬良 | 季常 | 政治 | 異民族との交渉 |
まとめ
三国志の軍師たちは、単なる戦争の参謀ではありませんでした。
彼らは国の将来を見据え、人材を発掘し、法律を整え、外交を担い、そして戦場で知略を巡らせたのです。
魏の軍師たちは、曹操という乱世の英雄を支え、中原統一を成し遂げました。
荀彧の国家戦略、郭嘉の先見の明、司馬懿の忍耐力。
それぞれの才能が組み合わさり、最大勢力・魏を作り上げたのです。
呉の軍師たちは、長江を盾に大国・魏と渡り合いました。
周瑜の赤壁、陸遜の夷陵。
二度にわたる大勝利は、いずれも知略によるものでした。
蜀の軍師たちは、小国ながらも漢王朝再興の夢を追い続けました。
諸葛亮の政治力、法正の軍略、姜維の執念。
彼らの努力があればこそ、蜀は40年以上も存続できたのです。
三国志を読む醍醐味の一つは、これらの軍師たちの知恵比べを楽しむこと。
ゲームや小説、映画など、三国志を題材にした作品を楽しむ際にも、軍師たちの活躍に注目してみてください。
きっと新しい発見があるはずです。


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