三国志のゲームやアニメで「曹操」「張遼」「司馬懿」という名前を聞いたことはありませんか?
これらはすべて、三国時代の「魏」という国に仕えた武将たちの名前です。
魏は三国(魏・蜀・呉)の中で最も広大な領土と人口を誇った大国でした。
その強さの秘密は、曹操が集めた優秀な人材にあります。
「名前は知っているけど、どんな人物なの?」「たくさんいすぎてよくわからない」という方も多いのではないでしょうか。
この記事では、三国志・魏に仕えた武将たちを、役割ごとにわかりやすく一覧形式で詳しくご紹介します。
魏ってどんな国?

三国最強の国
魏は、後漢末期の群雄・曹操が基盤を築き、息子の曹丕が220年に建国した国です。
現在の中国北部を支配し、三国の中で最大の領土と人口を持っていました。
蜀や呉と比べて圧倒的に国力が高く、「三国時代の覇権国」といえる存在だったんです。
なぜ魏には優秀な人材が集まったの?
曹操には「唯才是挙」(ただ才能のみを挙げる)という人材登用の方針がありました。
身分や出自にこだわらず、能力があれば積極的に登用したんです。
そのため、さまざまな背景を持つ優秀な人材が魏に集まりました。
敵から投降してきた武将も重用したため、元・呂布軍の張遼や元・袁紹軍の張郃なども活躍しています。
魏の武将の分類
魏の武将は、大きく以下のように分類できます。
武将の分類
- 曹操の親族武将:夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪など
- 五将軍(五子良将):張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃
- 護衛武将:典韋、許褚
- 軍師・謀臣:荀彧、郭嘉、賈詡、程昱、荀攸、司馬懿
- 後期の名将:鄧艾、鐘会など
それでは、それぞれの武将について詳しく見ていきましょう。
曹操の親族武将「曹氏・夏侯氏」
曹操の一族や親戚には、多くの名将がいました。
彼らは曹操の最も信頼できる側近として、重要な軍を任されています。
夏侯惇(かこうとん)──曹操が最も信頼した武将
基本情報
- 字:元譲(げんじょう)
- 生没年:不明〜220年
- 役職:大将軍
どんな人物?
曹操の従兄弟にあたる人物で、曹操が最も信頼を寄せた武将です。
曹操が挙兵した当初から付き従い、生涯を通じて曹操を支えました。
曹操は夏侯惇だけに、自分の馬車への同乗や寝室への出入りを許したといいます。
有名なエピソード
呂布軍との戦いで、流れ矢によって左目を失いました。
その際、自ら矢を引き抜いて「父母からもらった体、捨てることはできない」と言って、その眼球を飲み込んだという壮絶な逸話が残っています。
実は戦場での活躍よりも、後方支援や統治に優れた人物だったとされています。
学問を好み、清廉で慎み深い性格だったようです。
夏侯淵(かこうえん)──電光石火の速攻名将
基本情報
- 字:妙才(みょうさい)
- 生没年:不明〜219年
- 役職:征西将軍
どんな人物?
夏侯惇の遠縁の従弟で、曹操の妻の妹を正妻としていました。
「三日で五百里、六日で千里」と称えられた迅速な行軍を得意とし、各地で反乱を鎮圧しました。
特に涼州や漢中方面での活躍が目覚ましく、異民族との戦いでも武名を轟かせています。
最期
219年、漢中の定軍山で劉備軍と対峙した際、黄忠の奇襲を受けて戦死しました。
曹操は夏侯淵の死を聞いて深く悲しんだといいます。
曹仁(そうじん)──魏最強の守将
基本情報
- 字:子孝(しこう)
- 生没年:168年〜223年
- 役職:大将軍、大司馬
どんな人物?
曹操の従弟で、若い頃は乱暴者でしたが、曹操に従ってからは成長し、諸将の手本となる名将になりました。
特に防衛戦に優れ、赤壁の戦い後の江陵防衛戦や、関羽との樊城の戦いで見事な守備を見せています。
「天人」と称えられるほどの勇猛さも持ち合わせていました。
有名なエピソード
江陵での戦いで、部下の牛金が敵に包囲された際、曹仁はわずか数十騎で敵陣に突入し、牛金を救出しました。
さらに取り残された兵がいたため、再度敵陣に突入して全員を救い出したといいます。
曹洪(そうこう)──曹操の命を救った忠臣
基本情報
- 字:子廉(しれん)
- 生没年:不明〜232年
- 役職:驃騎将軍
どんな人物?
曹操の従弟で、曹操の危機を何度も救った忠義の武将です。
董卓配下の徐栄に敗れた際、馬を失った曹操に自分の馬を譲り、「天下に曹洪はいなくても良いが、あなた(曹操)がいなくてはならない」と言って曹操を逃がしました。
欲深い性格で知られ、曹丕の即位後には一時的に処刑されそうになりましたが、曹丕の母・卞皇后のとりなしで助かっています。
曹純(そうじゅん)──虎豹騎を率いた精鋭指揮官
基本情報
- 字:子和(しわ)
- 生没年:不明〜210年
- 役職:虎豹騎督
どんな人物?
曹仁の弟で、曹操直属の精鋭騎兵部隊「虎豹騎」の指揮官を務めました。
烏桓との戦いでは敵の首長・蹋頓を捕虜にし、長坂の戦いでは劉備を追撃して大きな戦果を挙げています。
学問好きで多くの学者を敬愛したため、人々から賞賛されました。
曹純の死後、曹操は「彼ほどの指揮官は得られない」として、虎豹騎の後任指揮官を任命しなかったといいます。
五将軍(五子良将)──魏が誇る五人の名将
「五将軍」または「五子良将」とは、曹操配下の外様武将の中で特に優れた五人を指します。
正史『三国志』魏書の「張楽于張徐伝」にまとめて記載されており、著者の陳寿は彼らを「最も優れた将軍たち」と評価しました。
蜀の「五虎大将軍」と対比されることが多いですが、実は五将軍の方が先に成立した由緒ある称号なんです。
張遼(ちょうりょう)──呉の子供を泣かせた最強将軍
基本情報
- 字:文遠(ぶんえん)
- 生没年:169年〜222年
- 役職:前将軍
- 元の主君:丁原→董卓→呂布
どんな人物?
五将軍の筆頭格とされる、魏が誇る最強の武将です。
元は呂布の配下でしたが、呂布が曹操に敗れた後、曹操に仕えるようになりました。
蜀の関羽とは敵味方を超えた友情があったとされ、関羽が曹操に一時的に仕えていた頃から親交がありました。
有名なエピソード:合肥の戦い
215年、孫権が10万もの大軍で合肥を攻めてきた際、張遼はわずか800の精鋭で敵陣に突撃しました。
敵将を討ち取り、孫権の本陣近くまで迫る大活躍を見せ、呉軍を撤退させています。
この戦いの後、呉では「張遼が来る」と言うと、泣く子も黙ったという逸話が残っています。
楽進(がくしん)──小柄な最古参の猛将
基本情報
- 字:文謙(ぶんけん)
- 生没年:不明〜218年
- 役職:右将軍
どんな人物?
曹操が兵を募った際、最初に駆けつけた最古参の武将です。
小柄な体格ながら度胸が据わっており、常に先陣を切って戦いました。
袁紹との戦いでは、敵の兵糧庫を守る大将を討ち取るなど、数々の武功を挙げています。
合肥の戦いでは張遼・李典と共に孫権軍を撃退しましたが、張遼とは仲が悪かったようです。
それでも、戦場では見事に協力して勝利を収めました。
于禁(うきん)──悲運の古参将軍
基本情報
- 字:文則(ぶんそく)
- 生没年:不明〜221年
- 役職:左将軍
- 元の主君:鮑信
どんな人物?
軍紀に厳格なことで知られた古参の将軍です。
元は鮑信の配下でしたが、鮑信が戦死した後、曹操に仕えました。
黄巾の乱から曹操の多くの戦いに参加し、呂布を捕らえた功績もあります。
悲劇の最期
219年、樊城で関羽と対峙した際、大雨による洪水で軍が壊滅し、降伏を余儀なくされました。
関羽が死んだ後は呉の捕虜となり、数年後にようやく魏に帰還。
しかし曹丕は、曹操の墓に于禁の降伏場面を描いた絵を見せ、于禁を辱めました。
于禁は恥辱のあまり病に伏し、まもなく亡くなっています。
張郃(ちょうこう)──蜀の前に立ちはだかった壁
基本情報
- 字:儁乂(しゅんがい)
- 生没年:不明〜231年
- 役職:車騎将軍
- 元の主君:袁紹
どんな人物?
元は袁紹の配下でしたが、官渡の戦いの際に曹操に投降しました。
状況に応じた柔軟な用兵を得意とし、劉備は張郃を非常に警戒していたといいます。
曹操の時代から曹叡の時代まで長く活躍し、諸葛亮の北伐に対しても最前線で戦い続けました。
最期
231年、諸葛亮軍が撤退する際、司馬懿の命令で追撃に向かいました。
しかし、伏兵に弓矢を浴びせられて戦死。
五将軍の中で唯一の戦死者となりました。
曹叡は張郃の死を深く悲しんだといいます。
徐晃(じょこう)──驕らぬ名将
基本情報
- 字:公明(こうめい)
- 生没年:不明〜227年
- 役職:右将軍
- 元の主君:楊奉
どんな人物?
元は楊奉の配下でしたが、曹操に帰順を勧めたところ聞き入れられず、楊奉が曹操に敗れた後に仕官しました。
曹操軍のほとんどの戦場に登場し、常に武功を挙げた名将です。
どんなに活躍しても驕ることがなく、寡黙で誠実な人柄だったといいます。
有名なエピソード
219年の樊城の戦いでは、長距離の進軍の後に関羽軍を正面から打ち破りました。
曹操は徐晃の功績を称え、古の名将・周亜夫の再来と褒め称えています。
関羽とは旧知の仲でしたが、戦場では情に流されず、公私を分けて戦いました。
護衛武将──曹操を守った猛将たち
曹操の身辺を守る護衛として、二人の猛将が知られています。
典韋(てんい)──曹操を救った壮絶な最期
基本情報
- 字:不明
- 生没年:不明〜197年
- 役職:校尉
どんな人物?
並外れた腕力を持つ猛将で、80斤(約20kg)もある双戟を軽々と振り回したといいます。
曹操の護衛として常に傍に仕え、その武勇と忠義心は群を抜いていました。
壮絶な最期
197年、張繍が曹操に降伏した後、謀反を起こしました(宛城の戦い)。
夜襲を受けた曹操は逃げ出しましたが、典韋は敵を食い止めるために一人で奮戦。
武器が折れると両腕で敵兵を叩き殺し、全身に傷を負いながらも戦い続けました。
最後は立ったまま絶命し、敵兵は近づくことができなかったといいます。
曹操は典韋の死を深く悼み、息子の曹昂や甥の曹安民よりも典韋の死を悲しんだとされています。
許褚(きょちょ)──虎痴と呼ばれた怪力武将
基本情報
- 字:仲康(ちゅうこう)
- 生没年:不明〜不明
- 役職:武衛将軍
どんな人物?
典韋の後任として曹操の護衛を務めた武将で、その怪力から「虎痴」(虎のように強く、愚直な男)と呼ばれました。
身長は8尺(約185cm)、腰回りは10囲もあったという巨漢で、常に曹操の傍に控えていました。
有名なエピソード
馬超との会談の際、曹操の護衛として同席した許褚を見て、馬超は「あれが虎痴か」と言い、暗殺を断念したといいます。
潼関の戦いでは馬超と一騎打ちを演じ、互角に渡り合いました。
鎧を脱ぎ捨てて「裸衣血戦」した逸話は有名です。
五大謀臣──魏を支えた知恵者たち

曹操の下には、多くの優秀な軍師・謀臣が集まりました。
特に有名な五人を「五大謀臣」と呼びます。
荀彧(じゅんいく)──王佐の才
基本情報
- 字:文若(ぶんじゃく)
- 生没年:163年〜212年
- 役職:尚書令
どんな人物?
若い頃から「王佐の才」(王を補佐する才能)と称えられた天才です。
元は袁紹に仕えていましたが、その器量に愛想を尽かして曹操の元に移りました。
曹操は荀彧を「わが子房(張良)だ」と喜び、絶大な信頼を寄せています。
功績
荀彧の最大の功績は、優秀な人材を次々と曹操に推挙したことです。
郭嘉・程昱・荀攸など、多くの名参謀が荀彧の推薦で曹操陣営に加わりました。
また、献帝を擁立して許都に迎える策を進言し、曹操の覇業の基盤を築きました。
悲劇の最期
荀彧は漢王朝への忠誠心が強く、曹操が魏公に就任しようとした際に反対しました。
これにより曹操と対立し、212年に病死(または自殺)しています。
郭嘉(かくか)──天才軍師の早すぎる死
基本情報
- 字:奉孝(ほうこう)
- 生没年:170年〜207年
- 役職:軍師祭酒
どんな人物?
曹操が最も信頼した軍師で、「わしの真意を理解しているのは奉孝だけだ」と言わしめた天才です。
元は袁紹の元を訪れましたが、その人格に失望して去り、荀彧の推薦で曹操に仕えました。
曹操と初めて会った際、互いに「これぞ真の主君」「この者が大業を成す」と認め合ったといいます。
功績
袁紹との官渡の戦いでは、勝利に向けた的確な分析を行いました。
また、袁紹の死後、その息子たちを攻めずに放置すれば内紛で自滅すると予言し、その通りになっています。
烏桓征伐では、険しい道を進んで奇襲する大胆な策を進言し、見事に成功させました。
早すぎる死
207年、烏桓征伐の帰途で病に倒れ、38歳の若さで亡くなりました。
曹操は深く悲しみ、「天下泰平の暁には、後事を彼に託すつもりだった」と嘆いています。
翌年の赤壁の大敗後、曹操は「奉孝がいてくれたなら、こんな負け戦はしなかった」と郭嘉の死を悔やみました。
荀攸(じゅんゆう)──沈黙の知将
基本情報
- 字:公達(こうたつ)
- 生没年:157年〜214年
- 役職:尚書令
どんな人物?
荀彧の年上の甥(叔父が荀彧)で、軍事面での参謀として活躍しました。
13歳の時、祖父の墓守りを申し出た男の顔色がおかしいと見抜き、調べさせたところ殺人犯だったという逸話があります。
若い頃から人を見抜く眼力に優れていたんです。
特徴
荀攸は自分の功績を誇ることがなく、策略を他人に話すこともありませんでした。
曹操は「外見は愚かに見えるが、内に知恵があり、外見は臆病に見えるが、内に勇気がある」と評価しています。
12の秘策を編み出したとされますが、その内容は荀攸の死と共に失われました。
賈詡(かく)──乱世を生き抜いた毒士
基本情報
- 字:文和(ぶんわ)
- 生没年:147年〜223年
- 役職:太尉
どんな人物?
董卓→李傕→段煨→張繍と主君を変え、最後に曹操に仕えた参謀です。
「毒士」の異名を持ち、明哲保身の達人として知られています。
曹操を何度も苦しめた後に投降しましたが、その才能を買われて重用されました。
功績
官渡の戦いでは、撤退を考えていた曹操を励まし、戦い続けるよう進言しました。
潼関の戦いでは、韓遂と馬超の仲を離間させる策を授けています。
後継者問題では、袁紹と劉表が後継者選びを誤って滅んだ例を挙げ、曹操に曹丕を後継者にするよう暗に進言しました。
程昱(ていいく)──剛毅な智将
基本情報
- 字:仲徳(ちゅうとく)
- 生没年:141年〜220年
- 役職:衛尉
どんな人物?
曹操配下で最も古参の軍師の一人で、剛毅な性格で知られています。
元の名は「程立」でしたが、若い頃に泰山で太陽を掲げる夢を見たことから、曹操が「日を掲げる」意味の「昱」の字に改名させました。
功績
呂布の謀反で兗州の大半が離反した際、荀彧と共に三城を死守し、曹操の帰還を待ちました。
この時の活躍がなければ、曹操は滅んでいたかもしれません。
また、劉備を徐州に派遣することに反対し、劉備が裏切ると予言しましたが、聞き入れられませんでした。
結果は程昱の予言通りになり、曹操は後悔しています。
司馬懿──魏を乗っ取った名将
司馬懿(しばい)──三国時代最後の勝者
基本情報
- 字:仲達(ちゅうたつ)
- 生没年:179年〜251年
- 役職:太傅
どんな人物?
政治・軍事の両面で卓越した能力を持ち、最終的に魏の実権を握った人物です。
当初は曹操からの仕官要請を病気を装って断っていましたが、脅迫されて仕えるようになりました。
曹操は司馬懿の野心を見抜いており、「狼顧の相(振り返る時に体ごと向く相、野心家の相)」があると警戒していたといいます。
諸葛亮との対決
蜀の諸葛亮が北伐を開始すると、司馬懿は対蜀戦線の総司令官に任命されました。
234年の五丈原の戦いでは、諸葛亮の挑発にも応じず持久戦に徹し、最終的に諸葛亮を病死に追い込んでいます。
撤退する蜀軍を見て「諸葛亮は天下の奇才だ」と賞賛しました。
魏の実権掌握
249年、政敵の曹爽が皇帝と共に墓参りに出かけた隙を突いてクーデターを起こし(高平陵の変)、魏の実権を掌握しました。
司馬懿の死後、孫の司馬炎が魏から禅譲を受けて晋を建国。
三国時代を終わらせ、中国を統一しました。
後期の名将たち
魏の後期にも、優秀な将軍が活躍しています。
鄧艾(とうがい)──蜀を滅ぼした名将
基本情報
- 字:士載(しさい)
- 生没年:197年〜264年
- 役職:征西将軍
どんな人物?
農業政策や運河開発で功績を挙げた後、軍事面でも活躍した将軍です。
蜀を滅ぼした最大の功労者で、険しい山道を切り開いて奇襲攻撃を成功させ、蜀の都・成都を陥落させました。
しかし、功績を誇り独断で行動したため、讒言により処刑されています。
鐘会(しょうかい)──野心家の名将
基本情報
- 字:士季(しき)
- 生没年:225年〜264年
- 役職:鎮西将軍
どんな人物?
若い頃から才能を認められ、司馬昭の信任を得て蜀征伐軍の総大将に任命されました。
しかし、蜀を滅ぼした後に独立を企て、反乱を起こして失敗。
部下に殺されています。
魏の武将 一覧表

親族武将(曹氏・夏侯氏)
| 武将名 | 字 | 特徴 |
|---|---|---|
| 夏侯惇 | 元譲 | 曹操の最側近、隻眼の将軍 |
| 夏侯淵 | 妙才 | 速攻を得意とする名将 |
| 曹仁 | 子孝 | 魏最強の守将、大司馬 |
| 曹洪 | 子廉 | 曹操の命を救った忠臣 |
| 曹純 | 子和 | 虎豹騎を率いた精鋭指揮官 |
| 夏侯尚 | 伯仁 | 曹丕の親友、荊州方面で活躍 |
| 曹真 | 子丹 | 蜀との戦いで活躍、大司馬 |
| 曹休 | 文烈 | 呉との戦いで活躍 |
五将軍(五子良将)
| 武将名 | 字 | 元の主君 | 特徴 |
|---|---|---|---|
| 張遼 | 文遠 | 呂布 | 五将軍筆頭、合肥の英雄 |
| 楽進 | 文謙 | なし | 最古参、小柄な猛将 |
| 于禁 | 文則 | 鮑信 | 軍紀に厳格、悲劇の最期 |
| 張郃 | 儁乂 | 袁紹 | 柔軟な用兵、蜀の壁 |
| 徐晃 | 公明 | 楊奉 | 驕らぬ名将、関羽を破る |
護衛武将
| 武将名 | 字 | 特徴 |
|---|---|---|
| 典韋 | 不明 | 曹操を守って壮絶な戦死 |
| 許褚 | 仲康 | 「虎痴」、馬超と互角に戦う |
軍師・謀臣
| 人物名 | 字 | 特徴 |
|---|---|---|
| 荀彧 | 文若 | 「王佐の才」、人材発掘の名人 |
| 郭嘉 | 奉孝 | 天才軍師、38歳で早世 |
| 荀攸 | 公達 | 沈黙の知将、12の秘策 |
| 賈詡 | 文和 | 「毒士」、明哲保身の達人 |
| 程昱 | 仲徳 | 剛毅な古参軍師 |
| 司馬懿 | 仲達 | 諸葛亮のライバル、後に魏を簒奪 |
まとめ
魏の武将たちは、曹操という優れた君主の下で、それぞれの才能を発揮しました。
魏の武将の特徴
- 多様な出自:親族だけでなく、敵から投降した武将も重用
- 文武両道:武力だけでなく、知略に優れた人物も多数
- 個性豊か:忠義の士から野心家まで、さまざまなタイプが存在
曹操の「唯才是挙」の精神が、多彩な人材を魏に集めたといえるでしょう。
三国志の魅力は、こうした個性豊かな武将たちのドラマにあります。
興味を持った武将がいたら、ぜひその人物の詳しい物語も調べてみてください。
きっと新たな発見があるはずです。


コメント