三国志「呉」の武将一覧|四大都督から江東十二虎臣まで完全解説

神話・歴史・伝承

三国志といえば、曹操の「魏」や劉備の「蜀」が注目されがちですよね。

でも実は、孫権が率いた「呉」には、周瑜や陸遜といった天才軍師から、甘寧や周泰のような猛将まで、個性豊かな武将たちが勢ぞろいしていたんです。

魏には「五子良将」、蜀には「五虎将」がいますが、呉には 「四大都督」「江東十二虎臣」 と呼ばれる名将たちがいました。

この記事では、三国志に登場する呉の武将たちを、役割や活躍エピソードとともに詳しくご紹介します。


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呉ってどんな国?

三国の中での呉の位置づけ

三国時代(220年〜280年)において、呉は長江(揚子江)の南側、現在の中国南東部を支配した国です。

孫堅・孫策・孫権の三代にわたって築き上げられた国で、水軍の強さでは三国随一を誇りました。

呉の特徴をまとめると

  • 首都:建業(現在の南京)
  • 強み:長江を利用した水軍戦術
  • 弱み:人口が魏に比べて少ない
  • 滅亡:280年、晋に降伏

なぜ呉は長く存続できたの?

呉が約60年も国を維持できた理由は、優秀な軍事指導者たちの存在にあります。

周瑜から陸遜へと続く「都督」のリレーによって、赤壁の戦いや夷陵の戦いといった決定的な勝利を収めました。

また、江東十二虎臣と呼ばれる勇将たちが前線で奮闘し、魏や蜀の侵攻を何度も食い止めたんです。


孫家三代──呉を築いた君主たち

呉の歴史は、孫堅から始まります。まずは国を築いた孫家の三代を見ていきましょう。

孫堅(そんけん)──呉の基礎を作った猛将

項目内容
文台(ぶんだい)
生没年155年〜191年
役割呉の創始者、孫策・孫権の父

どんな人物?

「江東の虎」と呼ばれた猛将です。黄巾の乱や董卓討伐で大活躍し、洛陽に一番乗りを果たしました。

玉璽(皇帝の印)を発見したという伝説でも有名ですね。残念ながら、荊州の劉表との戦いで戦死してしまいます。

孫策(そんさく)──小覇王と呼ばれた天才

項目内容
伯符(はくふ)
生没年175年〜200年
異名小覇王

どんな人物?

父・孫堅の死後、わずか数年で江東(長江下流域)を制圧した軍事の天才です。

その快進撃ぶりから、かつての覇王・項羽になぞらえて「小覇王」と呼ばれました。周瑜とは親友で、美女姉妹の大喬・小喬をそれぞれ妻にしたエピソードも有名です。

26歳という若さで暗殺されてしまいますが、彼が築いた地盤が後の呉建国につながりました。

孫権(そんけん)──呉を建国した名君

項目内容
仲謀(ちゅうぼう)
生没年182年〜252年
在位229年〜252年(呉の初代皇帝)

どんな人物?

兄・孫策の跡を継いで、わずか18歳で呉の指導者となりました。

孫権の最大の強みは 人材を見抜く目 です。周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜といった名将を適材適所に配置し、赤壁の戦いで曹操を破り、夷陵の戦いで劉備を退けました。

229年に皇帝に即位し、呉を正式に建国します。晩年は後継者問題で混乱を招きましたが、在位期間は三国の君主の中で最も長いんです。


四大都督──呉を支えた軍事の天才たち

「都督」とは、呉の軍事を統括する最高司令官のことです。

周瑜、魯粛、呂蒙、陸遜の4人は 「四大都督」 と呼ばれ、それぞれが呉の存亡をかけた戦いで活躍しました。

周瑜(しゅうゆ)──赤壁の英雄

項目内容
公瑾(こうきん)
生没年175年〜210年
主な功績赤壁の戦いで曹操を撃破
異名美周郎

どんな人物?

容姿端麗で頭脳明晰、音楽にも精通していた完璧超人です。孫策とは幼なじみで、生涯の親友でした。

赤壁の戦い(208年) では、圧倒的兵力を誇る曹操軍に対し、火攻めの奇策で大勝利を収めます。この勝利がなければ、三国時代は始まらなかったかもしれません。

三国志演義では諸葛亮のライバルとして描かれていますが、正史では36歳の若さで病死するまで、呉の軍事を一手に担った大黒柱でした。

魯粛(ろしゅく)──孫劉同盟の立役者

項目内容
子敬(しけい)
生没年172年〜217年
主な功績孫劉同盟の締結、荊州問題の調整

どんな人物?

周瑜に「この人は天下を狙える器だ」と評価され、孫権に推挙された戦略家です。

魯粛は早い段階から 「天下二分の計」 を提唱しました。曹操に対抗するため、劉備との同盟を主導したのも魯粛です。

演義では周瑜と諸葛亮の間で右往左往するお人好しとして描かれがちですが、正史では気骨ある交渉で関羽と渡り合い、荊州南部の割譲を引き出した辣腕の外交官でした。

呂蒙(りょもう)──努力で成り上がった名将

項目内容
子明(しめい)
生没年178年〜219年
主な功績荊州奪還、関羽を討伐
故事成語「呉下の阿蒙」「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」

どんな人物?

貧しい家の出身で、最初は学問もなく武勇だけの将でした。

ところが孫権に「学問を学べ」と勧められると猛勉強し、見違えるほどの知将に成長。かつて「呉下の阿蒙(田舎者の蒙ちゃん)」と呼んでいた魯粛が、再会した呂蒙に驚いて言った言葉が「士別れて三日なれば刮目して相待すべし」です。

219年、白衣渡江の計略で関羽の背後を突き、荊州を奪還。関羽を捕らえて処刑しますが、直後に病死してしまいました。

陸遜(りくそん)──夷陵の戦いの英雄

項目内容
伯言(はくげん)
生没年183年〜245年
主な功績夷陵の戦いで劉備を撃破、石亭の戦いで魏軍を破る

どんな人物?

呉の名門・陸家の出身で、孫策の娘を妻にしました。

関羽討伐では呂蒙を補佐し、関羽を油断させる手紙を送って成功に貢献。そして222年の 夷陵の戦い では、関羽の仇討ちに燃える劉備の大軍を火攻めで壊滅させます。

四大都督の中で最も長く活躍し、丞相にまで上り詰めました。ただ晩年は、孫権の後継者争いに巻き込まれ、孫権からの叱責を受けて憤死という悲劇的な最期を迎えています。


江東十二虎臣──呉を支えた猛将たち

正史『三国志』では、呉の12人の武将を一つの伝にまとめ、 「江表の虎臣」 と称えています。

魏の「五子良将」、蜀の「五虎将」に対応する呉の名将グループです。

十二虎臣の一覧表

名前主な功績
程普徳謀孫堅以来の古参、赤壁で副都督
黄蓋公覆赤壁の火攻めを実行
韓当義公三代に仕えた歴戦の将
蒋欽公奕孫策・孫権に仕えた勇将
周泰幼平孫権を何度も救った護衛
陳武子烈合肥の戦いで戦死した勇者
董襲元代濡須口で船と運命を共にした
甘寧興霸呉一の猛将、百騎夜襲で有名
凌統公績合肥で孫権を守り抜いた
徐盛文向偽の城壁で曹丕を退けた
潘璋文珪関羽捕縛に貢献
丁奉承淵四代に仕えた呉の長老

古参三将──程普・黄蓋・韓当

この3人は孫堅の時代から仕えた最古参の武将です。演義では「祖茂」を加えて四天王として描かれることもあります。

程普は十二虎臣の筆頭格で、赤壁の戦いでは周瑜と並ぶ副都督を務めました。呉の諸将から「程公」と呼ばれて尊敬を集めた人物です。

黄蓋は赤壁の戦いで、偽りの降伏を装って曹操軍に火攻めを仕掛けた「苦肉の計」で有名。矢を受けて川に落ちましたが、韓当に救われて生き延びました。

韓当は弓馬に優れた武将で、孫堅・孫策・孫権の三代に仕え続けました。夷陵の戦いにも参加しており、活躍期間が非常に長い将軍です。

孫権の護衛──周泰

周泰は、孫権が若い頃から側に仕えた武将です。

ある時、山賊の襲撃を受けた孫権を守るため、単身で敵に立ち向かい、全身に12か所もの傷を負いながら孫権を守り抜きました。

孫権は後に宴席で周泰の傷跡を一つ一つ指さしながら「この傷はあの時のものだ」と語り、涙を流して感謝したといいます。

呉一の猛将──甘寧

甘寧は、元々は長江で暴れ回っていた「錦帆賊」の頭目でした。

派手な鈴を体につけ、錦の帆を張った船で略奪を行っていたことからその名がついています。後に改心して孫権に仕え、数々の武功を立てました。

最も有名なのが 百騎夜襲 です。わずか100人ほどの精鋭で曹操の陣営に夜襲をかけ、大混乱に陥れて無事に帰還しました。

孫権は「曹操に張遼がいるなら、私には甘寧がいる」と称えたといいます。

父の仇と和解──凌統

凌統の父・凌操は、甘寧の矢に射殺されています。

つまり凌統と甘寧は仇同士なのですが、孫権の説得もあって、やがて二人は和解しました。

合肥の戦いでは、張遼の奇襲で孫権が危機に陥った際、凌統が300人の親衛隊を率いて奮戦。全員が戦死する中、自身も重傷を負いながら孫権を逃がすことに成功しています。

呉末期を支えた──丁奉

丁奉は、十二虎臣の中で最も長く活躍した武将です。

孫権・孫亮・孫休・孫皓の四代に仕え、252年の 東興の戦い では雪の中を短い武器で突撃し、魏軍を大破しました。

また、権臣・孫綝を誅殺するなど、呉末期の政治にも深く関わった人物です。


その他の重要な武将たち

十二虎臣や四大都督以外にも、呉には多くの名将がいました。

太史慈(たいしじ)──孫策のライバル

項目内容
子義(しぎ)
生没年166年〜206年

弓の名手として知られる猛将です。

孫策と一騎打ちを演じ、その武勇を認められて配下に加わりました。「大丈夫たるもの、何ぞ二君に仕えんや」という言葉でも有名です。

朱然(しゅぜん)──江陵を守った名将

項目内容
義封(ぎほう)
生没年182年〜249年

呂蒙と幼なじみで、関羽討伐にも参加しました。

夷陵の戦い後、魏の大軍に江陵を包囲されますが、半年にわたって城を守り抜いた名将です。

諸葛瑾(しょかつきん)──諸葛亮の兄

項目内容
子瑜(しゆ)
生没年174年〜241年

蜀の丞相・諸葛亮の兄です。

孫権の信頼が厚く、外交官として蜀との交渉に当たりました。弟と敵対する立場になっても、私情を挟まず国のために働いた人物です。

陸抗(りくこう)──呉最後の名将

項目内容
幼節(ようせつ)
生没年226年〜274年

陸遜の次男で、呉末期を支えた名将です。

晋の名将・羊祜とは互いに認め合う好敵手で、酒を贈り合うほどの関係でした。陸抗の死後、羊祜は呉征伐を上奏し、やがて呉は滅亡に向かいます。


呉の武将 完全一覧表

最後に、主要な呉の武将を一覧表にまとめました。

君主・皇族

名前役割
孫堅文台呉の創始者
孫策伯符江東を平定
孫権仲謀呉の初代皇帝
孫尚香劉備の妻となった孫権の妹

四大都督

名前在任期間
周瑜公瑾〜210年
魯粛子敬210年〜217年
呂蒙子明217年〜219年
陸遜伯言219年〜245年

江東十二虎臣

名前特徴
程普徳謀古参筆頭、赤壁の副都督
黄蓋公覆苦肉の計を実行
韓当義公弓馬に優れた歴戦の将
蒋欽公奕清廉な人柄で知られる
周泰幼平孫権の護衛、全身傷だらけ
陳武子烈合肥で戦死
董襲元代濡須口で殉死
甘寧興霸百騎夜襲の猛将
凌統公績甘寧と和解、合肥で奮戦
徐盛文向疑城の計で曹丕を退ける
潘璋文珪関羽捕縛に貢献
丁奉承淵四代に仕えた長老

その他の重要武将

名前役割
太史慈子義弓の名手、孫策と一騎打ち
朱然義封江陵を守り抜いた名将
諸葛瑾子瑜諸葛亮の兄、外交官
張昭子布呉の内政を担った重臣
朱治君理孫家を支えた恩人
呂範子衡孫策の挙兵を支援
陸抗幼節陸遜の子、呉最後の名将
諸葛恪元遜諸葛瑾の子、東興で大勝

まとめ

呉の武将たちは、魏や蜀に比べて地味な印象を持たれがちですが、実は個性豊かな人材が揃っていました。

呉が60年も存続できた理由

  • 周瑜から陸遜へと続く優秀な都督のリレー
  • 江東十二虎臣という勇猛な武将たち
  • 孫権の人材登用能力

赤壁の戦いで曹操を破り、夷陵の戦いで劉備を退けた呉は、決して「弱い国」ではありませんでした。

長江という天然の要害と、それを守る名将たちがいたからこそ、三国時代は三つ巴の形で長く続いたのです。

興味を持った武将がいたら、ぜひその人物が活躍するエピソードを深掘りしてみてください。三国志の世界がさらに広がるはずです。

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