日本の歴史で最初の皇位継承争いをご存じでしょうか?
初代・神武天皇が崩御した後、その後継者をめぐって兄弟間で激しい争いが起きました。
陰謀を企てた異母兄を弓矢で射殺し、見事に皇位を勝ち取ったのが第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう) なんです。
この記事では、古代日本の皇位継承争い「タギシミミの反逆」を制した綏靖天皇について、その系譜や興味深い伝承を詳しくご紹介します。
概要

綏靖天皇は、日本の第2代天皇です。
『日本書紀』では神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)、『古事記』では神沼河耳命(かんぬなかわみみのみこと) と記されています。
初代・神武天皇の第三皇子として生まれ、父帝の崩御後に起きた皇位継承争いを制して即位しました。
即位後は葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや) に都を遷し、在位33年で崩御したとされています。
ただし、綏靖天皇は「欠史八代」 の一人に数えられる天皇でもあります。欠史八代というのは、第2代から第9代までの天皇のことで、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため、実在性について諸説ある天皇たちのことなんですね。
とはいえ、綏靖天皇は他の7代と異なり皇位継承争いの詳細な記述が残されている点が特徴的です。
綏靖天皇の基本情報
- 諡号(しごう):綏靖天皇(「綏」も「靖」も「やすらか」の意味)
- 和風諡号:神渟名川耳天皇
- 在位期間:33年間
- 宮(都):葛城高丘宮(現在の奈良県御所市周辺)
- 陵(みささぎ):桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ/奈良県橿原市)
- 崩御時の年齢:『古事記』では45歳、『日本書紀』では84歳
系譜
綏靖天皇の家系を見ていくと、神々の血筋と深く結びついていることが分かります。
両親
父親は初代・神武天皇。東征を成し遂げて大和に王朝を築いた、日本建国の祖とされる天皇ですね。
母親は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)。この方は大国主神の子である事代主神(ことしろぬしのかみ) の娘にあたります。
つまり、綏靖天皇は天照大神の系譜(父方)と出雲の神々の系譜(母方)、両方の血を引いているわけなんです。
兄弟
神武天皇には複数の皇子がいました。
- 手研耳命(たぎしみみのみこと):異母兄。神武天皇の庶子(正妻以外の子)
- 神八井耳命(かむやいみみのみこと):同母兄。多氏などの祖先とされる
- 神渟名川耳尊:綏靖天皇本人
『古事記』ではさらに日子八井命(ひこやいのみこと) という同母長兄の名も挙げられています。
皇后と皇子
皇后は五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)。
興味深いのは、この方が綏靖天皇の叔母(母の妹) にあたるということ。事代主神の娘であり、母・媛蹈鞴五十鈴媛命の妹なんですね。当時はこうした近親婚も珍しくありませんでした。
ただし、皇后については文献によって異説もあります。
皇后に関する異説
- 磯城県主の娘・川派媛(『日本書紀』第1の一書)
- 春日県主大日諸命の女・糸織媛(『日本書紀』第2の一書)
- 師木県主の祖・河俣毘売(『古事記』)
そして皇子は磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)。
この方が後の第3代・安寧天皇となります。
伝承

綏靖天皇にまつわる伝承の中で最も有名なのが、皇位継承争い「タギシミミの反逆」です。
タギシミミの反逆
神武天皇76年3月11日、父帝が崩御しました。
このとき、朝政(政治の実務)の経験に長けていた異母兄の手研耳命(たぎしみみのみこと) が、皇位を狙って動き出したんです。
手研耳命は神武天皇の皇后であった媛蹈鞴五十鈴媛命を娶っていました。
当時、先代の后を娶ることは珍しくなく、これによって後継者としての立場を固めようとしたのでしょう。
しかし手研耳命は、それだけでは満足しませんでした。
異腹の弟である神八井耳命と神渟名川耳尊を殺害しようと企てたのです。
兄弟の反撃
この陰謀を知った二人の兄弟は、先手を打つことを決意しました。
神武天皇の山陵を築き終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃(やじり)を、矢部に箭(や)を作らせ、準備を整えていきます。
そして己卯年11月、片丘(現在の奈良県北葛城郡周辺)の大室に臥せっていた手研耳命を急襲。
ところがここで予想外の事態が起きました。
兄の神八井耳命は、緊張のあまり手足が震えて矢を射ることができなかったのです。
その瞬間、弟の神渟名川耳尊が兄から弓矢を取り、見事に手研耳命を射殺しました。
皇位継承
この一件の後、神八井耳命は自らの失態を深く恥じました。
そして「武勇に優れた弟こそが皇位にふさわしい」として、神渟名川耳尊に皇位を譲ったのです。
こうして神渟名川耳尊は即位し、綏靖天皇となりました。
一方、兄の神八井耳命は天皇を助けて神祇(神々を祀ること)を掌る役目を担うことになります。この神八井耳命は、後の多氏(おおうじ) など諸氏族の祖先とされています。
神道集に伝わる食人伝説
南北朝時代に編纂された『神道集』には、綏靖天皇にまつわる驚くべき話が記されています。
それによると、綏靖天皇には食人の趣味があり、朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたというのです。
困り果てた人々は、ある策を講じました。
「近いうちに火の雨が降る」という虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れた、というものです。
この話は、ペルシアの叙事詩『シャー・ナーメ』に登場する暴君ザッハークとの共通性が指摘されることもあります。ただし、これは後世に作られた伝説であり、正史である『日本書紀』『古事記』には記載がありません。
地方に残る伝承
綏靖天皇にまつわる伝承は、全国各地に残っています。
甲斐国(現在の山梨県)の伝承
甲斐国には特に多くの伝承が残っており、綏靖天皇の皇子・向山土本毘古王(むかいやまとほびこおう) が甲斐国を開拓したと伝えられています。
- 甲斐奈神社(甲府市):皇子が疏水工事を行い、開拓事業を進めた
- 佐久神社(甲府市):一面の湖水を切り開いて平土を得た
- 熊野神社(甲府市):開拓に際して守護神として奉斎した
ただし、この向山土本毘古王という人物は『古事記』『日本書紀』には記載がなく、実在については不明です。
その他の地方伝承
- 賀茂御祖神社(京都):綏靖天皇の御代に御生神事(現在の御蔭祭の起源)が始まったとされる
- 多坐弥志理都比古神社(奈良):綏靖天皇2年の創始と伝えられる
- 榛名神社(群馬):綏靖天皇の時代に創建されたとされる
まとめ
綏靖天皇は、日本最初の皇位継承争いを制して即位した第2代天皇です。
重要なポイント
- 初代・神武天皇の第三皇子として誕生
- 母は事代主神の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命
- 異母兄・手研耳命の陰謀を知り、先手を打って討伐
- 兄・神八井耳命から皇位を譲られて即位
- 葛城高丘宮に都を遷し、在位33年で崩御
- 「欠史八代」の一人だが、皇位継承争いの記述が詳細に残る
- 後世の『神道集』には食人伝説も伝わる
- 甲斐国をはじめ全国各地に関連する伝承が存在
「綏靖」という諡号は「安らかに落ち着く」という意味を持ちます。
激しい皇位継承争いを経て即位した天皇に、この名が贈られたのは興味深いですよね。
神話と歴史の境目に位置する綏靖天皇。
その伝承は、古代日本の権力闘争の激しさを今に伝えています。


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