岩に描かれた一頭の羊が、西洋美術の歴史を大きく変えることになるとは、誰が想像できたでしょうか?
13世紀のイタリア。羊飼いの少年が岩に描いた絵を、たまたま通りかかった巨匠が目にします。その絵があまりに生き生きとしていたため、巨匠は少年を弟子にすることを決意しました。
この少年こそが、後に「西洋絵画の父」と呼ばれることになるジョット・ディ・ボンドーネなんです。
この記事では、伝説に彩られた天才画家ジョットの功績や生涯、そして彼にまつわる興味深い逸話を分かりやすくご紹介します。
概要

ジョット・ディ・ボンドーネ(1267年頃〜1337年)は、中世後期のイタリアを代表する画家・建築家です。
フィレンツェ近郊の出身で、それまで西洋絵画を支配していた「ビザンティン様式」という硬い表現から絵画を解放し、人間らしい感情や立体感のある描写を確立しました。
同時代の画家ジョヴァンニ・ヴィッラーニは、ジョットについてこう記しています。
「この時代における最大の巨匠である。ジョットが描く人物やそのポーズは、この上なく自然に見える」
ルネサンス期の伝記作家ヴァザーリも、「200年以上にわたって忘れ去られていた絵画技術を現代に蘇らせた画家」と絶賛しているんです。
彼の革新的な表現は、後のルネサンス芸術に多大な影響を与え、マサッチオやミケランジェロといった巨匠たちも、ジョットの作品を熱心に研究しました。
偉業・功績
ジョットが成し遂げた功績は、一言でいうと「絵画に人間性を取り戻した」ことなんです。
絵画革命の内容
ジョット以前の西洋絵画は、ビザンティン様式が主流でした。この様式では、人物は平面的で、決まりきったポーズで描かれ、感情表現も乏しかったんですね。
ジョットは、こうした伝統を打ち破り、次のような革新をもたらしました。
ジョットがもたらした革新
- 立体的な人物表現:彫刻のような陰影で奥行きを表現
- 自然な感情描写:悲しみ、驚き、喜びといった人間らしい表情
- 空間の奥行き:遠近法を用いた舞台のような構図
- 衣服の重量感:それまでの様式的なドレープではなく、自然に垂れ下がる衣服
代表作『キリストの哀悼』
ジョットの最高傑作とされるのが、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれた『キリストの哀悼』(1305年頃)です。
この作品では、十字架から降ろされたイエスを抱きかかえる聖母マリアが、目を細め唇を噛み締めて悲しみに暮れています。両手を後ろに投げ出して嘆くヨハネ、空で泣き叫ぶ天使たち。
見る者の心を揺さぶるこの感情表現は、当時としては革命的だったんですね。
詩人ダンテは『神曲』の中で、ジョットの功績をこう称えています。
「チマブーエは絵画の覇者たらんとせしが、今やジョットの名声高く、彼の名は霞みぬ」
系譜・出生
ジョットの出生については、実は多くの謎に包まれているんです。
出生地の謎
伝統的には、フィレンツェ近郊のコッレ・ディ・ロマニャーノという場所で、農家の息子として生まれたとされています。1850年以降は、近くのヴェスピニャーノ村にある城館が生誕地だという説も唱えられました。
しかし最近の研究では、フィレンツェで鍛冶屋の息子として生まれたという説も有力になっています。
家族構成
確かな情報
- 父親の名前は「ボンドーネ」
- 公式記録には「裕福な人物」と記載
- 「ジョット」は本名とされるが、「アンブロジョット」や「アンジェロット」の略称という説も
1287年頃、20歳前後で「シウタ」と呼ばれる女性と結婚。夫妻の間には8人以上の子供が生まれ、息子のフランチェスコは父と同じく画家になりました。
姿・見た目
ジョットの外見については、興味深い記録と発見があります。
文献に残る記述
ルネサンス期の作家ボッカッチョは、ジョットについてこう語っています。
「フィレンツェには、彼ほど醜い男はいなかった」
子供たちも普通の外見だったそうで、友人のダンテがこんな冗談を言ったエピソードが残っています。
ダンテがスクロヴェーニ礼拝堂を訪ね、足元で遊ぶジョットの子供たちを見て尋ねました。
「これほど美しい絵画を描く男の子供が、どうしてこんなにも普通なんだ?」
するとジョットはこう返したそうです。
「暗闘で子供を作ったからさ」
ヴァザーリによれば、ジョットは常にウィットに富んだ男だったとのことです。
骨から判明した姿
1970年代、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付近で骨が発掘されました。2000年の法医学調査で、この骨からは当時の絵の具に使われていたヒ素と鉛の痕跡が見つかったんです。
骨から推定された特徴は驚くべきものでした。
発掘された骨から判明した特徴
- 身長は約120cm(非常に小柄)
- 先天性の小人症だった可能性
- 死亡時の年齢は約70歳
- 首の骨から、長時間上を向いていた形跡(天井画制作のため?)
- 前歯の磨り減り方は、絵筆を頻繁に歯で挟んでいた痕跡と一致
サンタ・クローチェ聖堂には、フレスコ画に描かれた小人がジョットの自画像だという伝承があり、この発見はその伝承を裏付けるものでした。
ただし、この骨がジョットのものかどうかについては、イタリア以外の研究者からは懐疑的な見方もあります。
特徴
ジョットの芸術には、いくつかの明確な特徴があります。
描写の特徴
人物表現
- 類型化されていない個性的な顔
- 細やかな観察に基づく三次元的な表情とポーズ
- 自然な形と重さを持つ衣服
空間表現
- 遠近法を用いた奥行きのある構図
- 舞台のセットのような背景
- 見る者をその場面に引き込む配置
具体的な描写例
『キリストの哀悼』における描写を見ると、ジョットの特徴がよく分かります。
追放されたヨアキムが悲しげに丘へ戻る場面では、二人の若い羊飼いが横目でお互いを見合っています。『幼児虐殺』では、赤ん坊を母親から奪い取る兵士が、肩をすくめて恥ずかしそうな顔をしているんです。
19世紀のイギリスの批評家ラスキンは、こう評しました。
「彼は聖母マリアと聖ヨセフとキリストを描いた。しかし本質的には、ママとパパと赤ちゃんを描いたのだ」
つまりジョットは、聖書の世界ではなく、人間の世界を描いたということなんですね。
伝承
ジョットには、いくつもの興味深い伝説が語り継がれています。
羊の伝説
最も有名なのが、ジョットが画家になるきっかけとなった「羊の伝説」です。
ヴァザーリの『画家・彫刻家・建築家列伝』によると、ジョットは快活で知的な羊飼いの少年でした。彼は毎日、羊の番をしながら岩に羊の絵を描いていたそうです。
ある日、当時の巨匠チマブーエがたまたま通りかかり、その絵を目にしました。羊があまりに生き生きと描かれていたため、チマブーエは感嘆し、父親に掛け合って少年を弟子にしたのです。
ただし現在の研究者の多くは、この話は伝説に過ぎないと考えています。ジョットがチマブーエの弟子ではなかったことを示す古い記録も残っているからです。
ハエの絵の逸話
もう一つ有名なのが、「ハエの絵」の逸話です。
ある日、チマブーエが工房を留守にしている間に、若きジョットはいたずら心を起こしました。師匠の作品に描かれた人物の顔に、小さなハエを描き加えたのです。
戻ってきたチマブーエは、そのハエを本物だと思い、何度も絵筆で追い払おうとしました。それほどジョットの描いたハエはリアルだったんですね。
ただしこの逸話も、古代ギリシャの画家ゼウクシスが描いたブドウに鳥がつつきに来たという話と似ているため、創作の可能性があります。
完璧な円の逸話
教皇ベネディクトゥス11世がジョットの技量を確かめようと、使者を送って何か描くよう求めたときの話です。
ジョットは赤い絵の具を取ると、コンパスも使わずに完璧な円を一筆で描き上げました。そしてそれを持って帰って教皇に見せるよう使者に頼んだのです。
使者は馬鹿にされたと思いましたが、教皇と宮廷の人々はジョットの卓越した技量に驚嘆したといいます。
紋章の逸話
晩年のジョットについて、作家サケッティが記録した逸話もあります。
ある市民がジョットに、自分の家紋を盾に描いてほしいと依頼しました。しかしジョットが描いたのは、剣、槍、短剣、鎧で「完全武装した」盾だったのです。
ジョットは依頼主にこう言いました。
「世間をもう少し知ってから紋章を語りなさい。まるでバイエルン公爵のような口ぶりだ」
怒った依頼主は訴訟を起こしましたが、ジョットが反訴して2フローリンを勝ち取ったそうです。
出典・起源
ジョットに関する情報は、主に以下の文献から伝わっています。
主要な文献
ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』(16世紀)
ルネサンス期の画家・伝記作家ヴァザーリによる伝記集。ジョットの生涯や逸話の多くはこの本が出典となっています。ただし、執筆がジョットの死後200年以上経ってからのため、伝説的な要素も含まれているとされます。
ダンテ・アリギエーリ『神曲』煉獄篇(14世紀初頭)
ジョットの同時代人であるダンテが、作中でジョットの名声を称えています。
ジョヴァンニ・ヴィッラーニの年代記(14世紀)
フィレンツェの銀行家で年代記作家だったヴィッラーニによる、ジョットへの評価が記録されています。
ロレンツォ・ギベルティの記録(15世紀)
初期ルネサンスの彫刻家ギベルティが、ジョットの作品について記録を残しています。
作品の帰属問題
ジョットの作品については、実は多くの議論があります。
特にアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂上堂の『聖フランチェスコ伝』のフレスコ画は、長らくジョットの代表作とされてきました。しかし1912年にドイツの美術史家リンテランが異議を唱えて以来、作者については議論が続いています。
2002年の技術的調査では、アッシジとパドヴァの作品の制作技法に大きな違いがあることが判明。現在では、アッシジの壁画は複数のローマの画家によるもので、ジョット作ではない可能性が高いとされています。
一方、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画がジョットの作品であることは、ほぼ確実視されています。
まとめ
ジョットは、中世の硬直した絵画表現を打ち破り、人間性あふれる新しい芸術を切り開いた「西洋絵画の父」です。
重要なポイント
- 1267年頃にフィレンツェ近郊で生まれ、1337年に没した中世後期の画家・建築家
- ビザンティン様式から脱却し、立体的で感情豊かな人物表現を確立
- 代表作はパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂の壁画(1305年頃)
- 羊飼いの少年がチマブーエに見出されたという「羊の伝説」で有名
- ハエの絵や完璧な円など、その技量を示す数々の逸話が残る
- ダンテ、マサッチオ、ミケランジェロなど後世の芸術家に多大な影響を与えた
- イタリア・ルネサンスの先駆者として、美術史上最も重要な画家の一人
羊飼いの少年から「西洋絵画の父」へ。ジョットの生涯は、才能と革新の物語として、今なお人々を魅了し続けています。
参考文献
- ジョルジョ・ヴァザーリ『画家・彫刻家・建築家列伝』
- ダンテ・アリギエーリ『神曲』煉獄篇
- 小学館『世界美術大全集』西洋編


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