もし2500年前、圧倒的な大軍勢が海を越えて攻めてきたら、あなたならどうしますか?
古代ギリシャのアテネには、この絶体絶命の危機を「知恵と策略」で乗り越えた一人の男がいました。
その名はテミストクレス。
彼は名門出身ではなく、むしろ「成り上がり者」と見られていた人物です。しかし、その卓越した先見の明と大胆な戦略で、ギリシャ全土をペルシア帝国の支配から救いました。
この記事では、古代ギリシャ最強の策略家テミストクレスの偉業と波乱に満ちた生涯について詳しくご紹介します。
概要

テミストクレス(紀元前524年頃〜紀元前459年頃)は、古代ギリシャの都市国家アテネの政治家・軍人です。
紀元前493年にアテネのエポニュモス・アルコーン(執政官) に就任し、アテネを一大海軍国家へと成長させました。執政官というのは、当時のアテネで最も高い位の役職のこと。現代でいえば首相や大統領に近い存在ですね。
テミストクレスの最大の功績は、なんといってもペルシア戦争での勝利です。
特に紀元前480年のサラミスの海戦では、圧倒的に不利な状況から奇策を用いてペルシア艦隊を撃破。この勝利がなければ、ギリシャはペルシア帝国に征服されていたかもしれません。
ところが、戦争の英雄となった彼を待っていたのは、皮肉にも祖国からの追放でした。
偉業・功績
テミストクレスが成し遂げた功績は、古代史の中でも特筆すべきものばかりです。
アテネ海軍の創設
テミストクレスは、アテネが海軍力を持つべきだと早くから主張していました。
紀元前483年、アテネ領内のラウレイオン鉱山で大規模な銀鉱脈が発見されると、彼はこの銀を使って三段櫂船(トライリーム) を200隻建造することを提案します。
三段櫂船とは、3段に並んだ漕ぎ手が櫂(オール)を操る当時最新鋭の軍船のこと。速度が出やすく、敵船に体当たりする戦法に適していました。
本来この銀は市民に分配されるはずでしたが、テミストクレスは「隣国アイギナとの戦争に備えるため」と説得して建造を実現させたのです。
サラミスの海戦での勝利
紀元前480年、ペルシア王クセルクセス1世率いる大軍がギリシャに侵攻してきました。
陸上ではテルモピュライの戦いでスパルタ王レオニダス率いる300人が全滅。アテネの市民は都市を放棄して避難を余儀なくされます。
この絶望的な状況で、テミストクレスは驚くべき策を実行しました。
テミストクレスの策略
- ペルシア王に偽の密使を送り「ギリシャ連合軍は仲間割れしている」と伝えた
- 「今夜にも逃げ出すから、今攻めれば勝てる」とペルシア艦隊を誘い込んだ
- 狭いサラミス海峡に敵を引き入れ、数の優位を無効化した
結果、巨大なペルシア艦隊は狭い海峡で身動きが取れなくなり、機動力に優れたギリシャ艦隊に撃破されました。
この勝利によってペルシア軍の補給線は断たれ、翌年の陸戦での勝利につながったのです。
ピレウス港の建設
テミストクレスは執政官時代から、アテネの港を整備する計画を進めていました。
それまでのファレロン港に代わり、3つの天然の入り江を持つピレウス港を新たに建設。この港は防御にも適しており、後のアテネ海上帝国の基盤となりました。
系譜
テミストクレスの出自は、決して華々しいものではありませんでした。
家系と出生
- 父:ネオクレス(アテネの中小貴族)
- 母:名前は諸説あり(エウテルペまたはアブロトノン)
- 出身地:アッティカ地方のフレアリオイ
母親の出身地については、ハリカルナッソス、トラキア、アカルナニアなど複数の説があります。いずれにしても非アテネ人だったようで、テミストクレスは「混血児」として扱われることもあったそうです。
当時のアテネでは、両親ともにアテネ市民であることが重視されていました。そのため、彼は幼い頃から「よそ者」扱いされる苦労を経験しています。
妻と子どもたち
テミストクレスにはアルキッペという妻がおり、多くの子どもをもうけました。
主な息子たち
- アルケプトリス(後にマグネシアの長官を継承)
- ポリュエウクトス
- クレオファントス(プラトンの著作にも登場)
- ネオクレス(若くして馬に噛まれ死亡)
- ディオクレス
娘たち
- ムネシプトレマ(キュベレ神殿の女祭司になった)
- イタリア
- シュバリス
- ニコマケ
- アジア
興味深いことに、テミストクレスの子孫は長く繁栄しました。1世紀の歴史家プルタルコスは、アテネでテミストクレスの直系の子孫に会ったと記録しています。なんと600年以上も続く名家だったのです。
姿・見た目
テミストクレスの外見については、古代の彫刻や文献からある程度推測できます。
肖像について
現存する最も有名なテミストクレスの胸像は、ローマ時代に作られたものです。紀元前470年頃のギリシャ彫刻を模したもので、「厳格様式(セヴィア・スタイル)」と呼ばれる表現で作られています。
この胸像は「ヨーロッパ人個人の最初の真の肖像」 とも評されており、歴史的価値が非常に高いものです。
記録に残る人物像
古代の文献によると、テミストクレスは以下のような印象を人々に与えていたようです。
- 機転が利き、言葉巧みな話し手
- 野心家で自己顕示欲が強い
- 社交的で、庶民から貴族まで幅広く付き合えた
- 賄賂も辞さない現実主義者
名門出身ではなかったからこそ、彼は努力と才覚で頭角を現す必要がありました。その経験が、後の政治手腕につながったのでしょう。
特徴
テミストクレスを語る上で欠かせないのが、その独特な性格と能力です。
卓越した先見の明
歴史家トゥキュディデスは、テミストクレスについてこう評しています。
「彼は天性の才能において、最も疑いようのない天才の証を示した人物である」
特に将来を見通す力は群を抜いていました。マラトンの戦い(紀元前490年)でギリシャが勝利した時、多くの人が喜ぶ中、テミストクレスだけは「ペルシアは必ずまた攻めてくる」と警告し、海軍増強を訴え続けたのです。
民衆派の政治家
テミストクレスは、貴族ではなく一般市民の支持を基盤とした政治家でした。
当時のアテネでは珍しく、彼は市場や港、酒場にまで足を運び、庶民の名前を一人一人覚えて回ったといいます。これは現代の選挙運動に通じるやり方ですね。
複雑な性格
テミストクレスには、光と影の両面がありました。
長所
- 危機に際して冷静な判断ができる
- 複雑な状況でも最善策を見つけ出す
- 交渉や説得に長けている
短所
- 名誉欲が強すぎる
- 賄賂を受け取ることもあった
- 自分の功績を誇示しすぎる傾向があった
プルタルコスによれば、テミストクレスは「仕事を山のように溜め込み、一気に片付けることで自分の能力の高さを見せつけようとした」そうです。
逸話・エピソード
テミストクレスの生涯には、数々の興味深いエピソードが残されています。
ライバル・アリステイデスとの確執
テミストクレスには生涯のライバルがいました。「正義の人」と呼ばれた政治家アリステイデスです。
プルタルコスによると、二人の対立のきっかけは、同じ美少年ステシラオスをめぐる恋愛だったといいます。真偽はともかく、二人は政治的にも完全に対照的でした。
| テミストクレス | アリステイデス | |
|---|---|---|
| 出自 | 中小貴族 | 名門貴族 |
| 政策 | 海軍重視 | 陸軍重視 |
| 性格 | 策略家 | 清廉潔白 |
| 支持基盤 | 庶民層 | 貴族層 |
紀元前482年、二人の対立は陶片追放(オストラキスモス) という投票にまで発展します。これは、市民が陶器の破片に追放したい人物の名前を書いて投票する制度。結果、アリステイデスが追放され、テミストクレスの海軍政策が採用されました。
しかし皮肉なことに、後にテミストクレス自身もこの制度で追放されることになるのです。
オリンピックでの栄光
サラミスの海戦の後、テミストクレスがオリンピック競技会を訪れた時のこと。
観客たちは競技そっちのけで彼に注目し、外国からの訪問者に「あれがテミストクレスだ」と指さして紹介したといいます。
テミストクレス自身も「今日、私はギリシャのために働いた報いを十分に受け取った」と友人に語ったそうです。
セリフォス島の男との問答
あるとき、小さなセリフォス島出身の男がテミストクレスに言いました。
「あなたが有名なのは、アテネ出身だからだ。自分の力じゃない」
テミストクレスは即座に切り返しました。
「たしかに、私がセリフォス出身だったら有名にはなれなかっただろう。だが君がアテネ出身でも、やはり有名にはなれなかっただろうね」
ペルシアへの亡命
陶片追放でアテネを追われた後、テミストクレスは各地を転々とします。
最終的に彼が身を寄せたのは、皮肉にもかつて戦った敵国ペルシアでした。
ペルシア王アルタクセルクセス1世に謁見したテミストクレスは、サラミスの海戦後に密かにペルシア王に恩を売っていたことを持ち出し、厚遇を勝ち取ります。
1年間でペルシア語を習得した彼は、小アジアのマグネシアという都市の長官に任命されました。そこからの収入は莫大で、「パンのためにマグネシア、酒のためにランプサコス、おかずのためにミュウス」と、複数の都市から収入を得ていたといいます。
出典・起源
テミストクレスについての情報は、複数の古代文献から得られています。
主な史料
ヘロドトス『歴史』
「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは、ペルシア戦争について詳細に記録しました。テミストクレスのサラミスでの活躍も、主にこの史料から知ることができます。
トゥキュディデス『戦史』
ペロポネソス戦争を記録した歴史家トゥキュディデスは、テミストクレスの能力を高く評価しています。彼の記述には、テミストクレスの最期についての貴重な情報も含まれています。
プルタルコス『対比列伝』
1世紀の伝記作家プルタルコスは、テミストクレスの生涯を詳しく記録しました。逸話やエピソードの多くは、この史料に依っています。
考古学的証拠
テミストクレスの名前が刻まれた陶片(オストラコン)は、実際にアテネで発掘されています。「ネオクレスの子テミストクレス」と刻まれたこれらの陶片は、陶片追放が実際に行われた証拠です。
また、マグネシアで発行されたとされるテミストクレスの貨幣も発見されています。これは史上初めて統治者本人の肖像を刻んだ貨幣の一つとして、歴史的に重要な意味を持っています。
まとめ
テミストクレスは、古代ギリシャの運命を変えた稀代の戦略家です。
重要なポイント
- 紀元前524年頃〜紀元前459年頃に活躍したアテネの政治家・軍人
- 三段櫂船200隻を建造し、アテネを海軍大国に育て上げた
- サラミスの海戦で奇策を用いてペルシア艦隊を撃破
- この勝利がなければ、ギリシャ文明は存続できなかった可能性がある
- 卓越した先見の明と政治的手腕を持つ一方、野心家で名誉欲が強い一面も
- 陶片追放でアテネを追われ、最終的にペルシアに亡命
- マグネシアの長官として余生を送り、65歳頃に死去
テミストクレスの生涯は、栄光と悲劇が交錯する波乱に満ちたものでした。祖国を救った英雄が、その祖国から追放されるという皮肉な結末。しかし彼の功績は、2500年経った今も色褪せることなく語り継がれています。
プルタルコスの言葉を借りれば、テミストクレスは「ギリシャの救済に最も貢献した人物」でした。その評価は、現代の歴史家たちも支持しています。
参考文献
- プルタルコス『対比列伝』
- ヘロドトス『歴史』
- トゥキュディデス『戦史』
- ディオドロス・シクルス『歴史叢書』


コメント