古代中国の神話には、天下を乱した悪神たちの物語が数多く残されています。
その中でも「三苗(さんびょう)」は、伝説の聖王・堯(ぎょう)に対して反乱を起こし、四罪(しざい)の一人として名を連ねた存在です。
長江流域に勢力を築き、強大な力を持っていたこの集団は、なぜ「悪神」として語り継がれることになったのでしょうか。
この記事では、中国神話における三苗の正体、堯や舜との戦い、そして子孫たちのその後について詳しくご紹介します。
概要

三苗は、中国神話に登場する悪神であり、共工(きょうこう)・驩兜(かんとう)・鯀(こん) とともに「四罪」の一人に数えられています。
堯の時代に反乱を企てたことで断罪され、その後の子孫たちは南方へ逃れて「三苗国」を建てたとされています。『山海経(せんがいきょう)』や『史記』といった古典文献にその記録が残されており、古代中国の神話体系において重要な位置を占める存在です。
三苗とは何者なのか
三苗の正体については、複数の解釈が存在します。
部族・国家としての三苗
最も一般的な解釈では、三苗は黄帝から堯・舜・禹の時代にかけて存在した古代の部族、または国家だとされています。
「有苗(ゆうびょう)」「有苗氏」「苗民(びょうみん)」とも呼ばれ、主に長江の中下流域、特に洞庭湖と鄱陽湖(はようこ)の間に分布していたと考えられています。
三氏の子孫という説
もう一つの解釈として、三苗は「三つの氏族の苗裔(子孫)」を意味するという説があります。
三苗に該当するとされる三氏
- 帝鴻氏(ていこうし)の渾敦(こんとん)
- 少昊氏(しょうこうし)の窮奇(きゅうき)
- 縉雲氏(しんうんし)の饕餮(とうてつ)
興味深いことに、この三者は「四凶(しきょう)」として別に名が挙げられている存在でもあります。四罪と四凶は混同されやすいのですが、実際には異なる神々を指しているんですね。
堯との戦い ― 丹水の戦い
三苗が「悪神」として語られるようになった最大の理由は、聖王・堯に対する反乱です。
反乱の経緯
三苗の首領である驩兜(かんとう) は、堯の息子・丹朱(たんしゅ)と同一人物だとする説があります。驩兜は三苗の論戚誼(ろんせきぎ)と手を組み、堯に対して反乱を企てました。
反乱の理由として伝えられているのは、堯が舜に帝位を譲ろうとしたことへの反発です。自分の血族ではなく、徳のある舜を後継者に選んだ堯の決断に、三苗は納得できなかったのでしょう。
丹水での敗北
堯は兵を率いて三苗を討伐し、丹水(たんすい) という川のほとりで大きな戦いが行われました。激しい戦闘の末、三苗は敗北を喫します。
敗れた後、一部の者たちは西北の三危山(さんきざん) へ流放され、首領の驩兜は崇山(すうざん) へ追放されたと伝わっています。
舜・禹の時代 ― 続く抵抗と最終的な衰退

堯の時代に敗北した三苗でしたが、その勢力はすぐには消えませんでした。
舜の時代
舜が部族連盟の首領となった後、三苗は次第に江水・漢水(長江流域) 一帯へ南下し、再び強大な勢力を築きます。舜に対しても服従しない姿勢を見せましたが、舜は戦争によらず三苗を臣服させることに成功したと伝えられています。
ただし争いを避けるため、舜は三苗を遠方の三危山へ移住させました。それでも三苗の一部は南方地域に残ったようです。
禹との決戦
治水で名高い禹(う)の時代になると、三苗は再び反抗の姿勢を見せます。
『墨子(ぼくし)』には「禹誓(うせい)」という禹の誓師の言葉が記録されており、これは三苗討伐の際に行われたものだとされています。
禹と三苗との間で行われた戦いは、なんと70日間にも及ぶ大戦となりました。最終的に禹が勝利を収め、三苗はここに衰退していきます。
以後、歴史書に三苗の活動が記されることはほとんどなくなりました。
四罪としての三苗
三苗は、中国神話における「四罪」の一人として位置づけられています。
四罪とは
四罪とは、天下に災いをもたらした四柱の悪神の総称です。
四罪に数えられる神々
| 神名 | 主な罪状 | 子孫の行方 |
|---|---|---|
| 共工(きょうこう) | 洪水を引き起こした | 北狄(ほくてき)になった |
| 驩兜(かんとう) | 堯に対する反乱 | 南蛮(なんばん)になった |
| 鯀(こん) | 治水に失敗した | 東夷(とうい)になった |
| 三苗(さんびょう) | 堯に対する反乱 | 西戎(せいじゅう)になった |
『史記』舜本紀によれば、四罪の子孫たちはそれぞれ中国の四方位に住む異民族の祖となったとされています。三苗の子孫は西方に住む西戎になったというわけです。
四凶との違い
四罪と混同されやすいのが「四凶」ですが、両者は別の神々を指しています。四凶は渾敦・窮奇・饕餮・檮杌(とうこつ)の四者であり、四罪とは構成メンバーが異なるんですね。
三苗国と子孫たち
丹水の戦いで敗れた後、三苗の子孫たちはどうなったのでしょうか。
南方への落延び
敗北後、三苗の子孫たちは南方へ逃れ、三苗国を建てたと伝えられています。この国の様子や位置は『山海経』などに記されており、南海に存在したとされています。
西羌との関係
『後漢書』西羌伝には、興味深い記述があります。
それによれば、西羌(せいきょう) という民族の源流は三苗であり、西羌を含む中国の四方に住む全ての異民族は「華夏(かか)の苗裔(子孫)」だと主張されているんです。
つまり、異民族もすべて元をたどれば中華文明圏の人々の子孫だという考え方ですね。
現代のミャオ族との関係
近現代において、三苗と現代のミャオ族(苗族) との関連を指摘する説があります。
類似点
『淮南子(えなんじ)』には、三苗人が「髽首(さしゅ)」、つまり麻と髪を一緒に巻いて髷を結う風習を持っていたという記述があります。現在の貴州省にある岜沙(バシャ)のミャオ族にも同様の風習が見られることから、両者の関連性が注目されてきました。
否定的な見解
しかし、多くの学者はこの関連性に否定的です。
陳国均、章炳麟、凌純声、芮逸夫といった研究者たちは、古代の三苗と現代のミャオ族は直接的な関係がないと主張しています。
「三苗」と「苗族」は名前が似ているだけで、数千年の時を隔てた両者を安易に結びつけることはできないというわけです。詳しい関連性については、現在も議論が続いています。
まとめ
三苗は、中国神話において堯・舜・禹という三代の聖王に抵抗し続けた反逆者として描かれる存在です。
三苗について押さえておきたいポイント
- 共工・驩兜・鯀とともに四罪の一人に数えられる悪神
- 長江中下流域、洞庭湖と鄱陽湖の間に勢力を持っていた
- 堯が舜に帝位を譲ることに反発し、丹水の戦いで敗北
- 舜の時代に再び勢力を拡大するも、禹との70日間の大戦で衰退
- 子孫は南方へ逃れて三苗国を建てた
- 『史記』では子孫が西戎になったとされる
- 現代のミャオ族との関連は議論が分かれている
四罪の中でも三苗は、単なる個人ではなく部族・国家として長期間にわたって抵抗を続けた点で特異な存在といえるでしょう。その物語は、古代中国における権力闘争や民族の興亡を今に伝える貴重な神話なのです。


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