「傾国の美女」という言葉を聞いたことはありますか?
国を傾けるほどの美しさを持つ女性のことを指すこの言葉は、まさに一人の女性から生まれました。
唐王朝の絶頂期、皇帝を夢中にさせ、やがて国を揺るがす大乱の引き金となった女性。それが楊貴妃(ようきひ)です。
彼女の物語は、白居易の『長恨歌』をはじめ、数々の文学や伝説に彩られ、千年以上もの間、人々の心をつかんで離しません。
この記事では、中国四大美人の一人として名高い楊貴妃について、その生涯と伝説をやさしく解説します。
概要

楊貴妃は、8世紀の中国・唐王朝に実在した女性です。
本名は楊玉環(ようぎょくかん)といい、「貴妃」というのは皇帝の妃としての位を表す称号なんですね。
彼女は中国古代四大美人の一人に数えられています。四大美人とは、中国の長い歴史の中で「最も美しかった」とされる4人の女性のこと。西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃がその4人です。
楊貴妃は第6代皇帝・玄宗(げんそう)に深く愛されました。しかし、その寵愛があまりにも深すぎたことが、やがて唐王朝を揺るがす大事件へとつながっていくのです。
姿・見た目
楊貴妃の美しさは、どのようなものだったのでしょうか?
古い文献によると、彼女の特徴はこのように伝えられています。
楊貴妃の容姿
- 髪は艶やかで黒々としていた
- 肌はきめ細かく、雪のように白かった
- ふくよかで豊かな体型をしていた
- 立ち居振る舞いが優雅だった
白居易の『長恨歌』には、「温泉水滑らかにして凝脂を洗う」という有名な一節があります。これは、彼女の肌が脂を固めたように滑らかで美しかったことを表現しているんですね。
また、楊貴妃は「ふくよかな美人」の代表として知られています。
同じく四大美人の趙飛燕(ちょうひえん)がほっそりとした体型だったことから、「環肥燕痩(かんぴえんそう)」という言葉が生まれました。これは「楊貴妃はふくよか、趙飛燕はほっそり」という意味で、美人にもいろいろなタイプがあることを表しています。
玄宗皇帝との出会い

楊貴妃と玄宗皇帝の関係には、少し複雑な経緯があります。
実は楊貴妃は最初、玄宗の息子の妻だったのです。
二人の関係の始まり
- 楊玉環は17歳で玄宗の第18皇子・寿王に嫁いだ
- 数年後、玄宗の最愛の妃・武恵妃が亡くなる
- 悲しみに暮れる玄宗の目に、息子の妻である楊玉環が留まる
- 玄宗は彼女を一度女道士(道教の尼僧)にさせた
- その後、正式に自分の妃として迎え入れた
息子から妻を奪う形になることを避けるため、一度女道士にするという手順を踏んだわけですね。745年、楊玉環は27歳で「貴妃」に冊立されました。このとき玄宗は61歳でした。
以降、玄宗は政治よりも楊貴妃との時間を優先するようになります。「開元の治」と呼ばれた唐王朝の黄金期を築いた名君が、晩年は一人の女性に溺れていったのです。
楊一族の繁栄と安史の乱
楊貴妃が寵愛を受けるようになると、その一族も急速に力を持ち始めます。
楊一族の出世
- 三人の姉がそれぞれ「韓国夫人」「虢国夫人」「秦国夫人」に封じられる
- 従兄の楊国忠(ようこくちゅう)が宰相にまで上り詰める
- 五つの楊家の屋敷は豪華を極めた
しかし、この楊一族の横暴が、やがて大きな災いを招くことになります。
755年、范陽節度使の安禄山(あんろくざん)が反乱を起こしました。「安史の乱」と呼ばれるこの反乱は、楊国忠と安禄山の対立が引き金でした。
反乱軍が都・長安に迫ると、玄宗は楊貴妃たちを連れて蜀(現在の四川省)へ逃亡を図ります。
馬嵬駅の悲劇
756年7月、玄宗一行は馬嵬駅(ばかいえき)という場所にたどり着きました。
ここで悲劇が起こります。
護衛の兵士たちが反乱を起こしたのです。彼らは「この乱の原因は楊一族だ」と主張し、まず楊国忠を殺害しました。
そして兵士たちは、玄宗に対してさらなる要求を突きつけます。
「楊貴妃を処刑せよ」
玄宗は「貴妃に罪はない」と庇いましたが、兵士たちは引き下がりませんでした。ついに玄宗は、愛する人に死を命じるしかなくなったのです。
楊貴妃は仏堂の梨の木の下で、白い布で首を絞められて亡くなりました。享年38歳でした。
白居易の『長恨歌』には、この場面がこう詠まれています。
「六軍発せず奈何ともすべからず、宛転たる蛾眉馬前に死す」
伝説と伝承

楊貴妃の死後、彼女をめぐる多くの伝説が生まれました。
長恨歌の伝説
白居易が死後50年ほど経って詠んだ『長恨歌』には、不思議な話が含まれています。
玄宗が道士に楊貴妃の魂を探させたところ、海上の蓬莱山で仙女となった楊貴妃を見つけたというのです。楊貴妃は道士に小箱とかんざしを託し、こう伝えました。
「天にあっては願わくは比翼の鳥となり、地にあっては願わくは連理の枝とならん」
二人で一対となって永遠に寄り添いたいという、愛の誓いの言葉です。
日本渡来伝説
興味深いことに、楊貴妃が日本に逃れたという伝説も存在します。
この伝説によると、馬嵬駅で死んだのは実は身代わりで、本物の楊貴妃は密かに海を渡って日本にたどり着いたとされています。
山口県長門市の二尊院には、楊貴妃の墓と伝わる五輪塔があります。これは山口県指定有形文化財にもなっているんですよ。
熱田神宮との関係
愛知県の熱田神宮にも、楊貴妃にまつわる伝説があります。
この伝説では、楊貴妃は実は熱田大神の化身だったとされています。唐が日本に攻め込もうとしたとき、熱田大神が楊貴妃に姿を変えて玄宗を惑わせ、出兵を取りやめさせたというのです。安史の乱で楊貴妃が亡くなると、神は熱田に戻った。だから日本に墓があるのだ、と。
こうした伝説が日本各地に残っているのは、『長恨歌』で詠われた蓬莱山が日本のことだと考えられてきたからなんですね。
後世への影響
楊貴妃の物語は、中国のみならず日本でも深く愛されてきました。
文学作品
- 白居易『長恨歌』(唐代の長編詩)
- 陳鴻『長恨歌伝』(唐代の小説)
- 洪昇『長生殿』(清代の戯曲)
日本への影響
- 能楽「楊貴妃」
- 『源氏物語』の桐壺の巻(楊貴妃の物語が下敷きになっている)
- 京都・泉涌寺の「楊貴妃観音」
特に『源氏物語』は、冒頭の桐壺更衣と帝の悲恋に、玄宗と楊貴妃の物語を重ね合わせています。紫式部も『長恨歌』を読んで感銘を受けたのでしょう。
また、楊貴妃が好んだという茘枝(ライチ)のエピソードも有名です。南方でしか採れないライチを、早馬を乗り継いで都まで届けさせたという話は、杜牧の詩「一騎紅塵妃子笑う、人の是れ茘枝の来たるを知る無し」で詠まれています。
まとめ
楊貴妃は、唐王朝の栄華と衰退を象徴する伝説の美女です。
重要なポイント
- 中国古代四大美人の一人で、ふくよかな美人の代表
- 玄宗皇帝に深く愛され、「貴妃」の位を与えられた
- 一族の繁栄が安史の乱を招く一因となった
- 馬嵬駅で悲劇的な最期を遂げた
- 日本渡来伝説など、死後も多くの伝説が生まれた
- 『長恨歌』をはじめ、後世の文学に大きな影響を与えた
彼女の物語は「傾国の美女」として語られることが多いですが、『長恨歌』が詠い上げたのは、むしろ永遠の愛の物語でした。
千年以上経った今も、楊貴妃の伝説は多くの人の心を揺さぶり続けています。


コメント