【三国志最強の武将】呂布(りょふ)とは?その生涯・伝承・最期をやさしく解説!

神話・歴史・伝承

「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」

この言葉を聞いたことはありますか?

三国時代、数多くの英雄たちが覇を競う中で、個人の武勇において最強と称えられた男がいました。

その名は呂布(りょふ)

愛馬・赤兎馬にまたがり、劉備・関羽・張飛の三人を相手に互角以上に渡り合ったという伝説を持つ猛将です。しかし、その圧倒的な強さとは裏腹に、主君を次々と裏切る「反覆無常の将」としても知られています。

この記事では、三国志最強の武将・呂布の生涯や伝承、その魅力と悲劇について分かりやすくご紹介します。


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1. 概要

呂布(りょふ)は、中国後漢末期から三国時代初期にかけて活躍した武将・群雄です。

字(あざな)は奉先(ほうせん)。并州五原郡九原県(現在の中国・内モンゴル自治区包頭市付近)の出身で、北方の辺境地域で育ちました。

その腕力と弓馬の技術は群を抜いており、前漢時代に匈奴(きょうど)討伐で活躍した名将・李広になぞらえて「飛将(ひしょう)」と呼ばれたほどです。

『三国志演義』においては「三国志最強の人物」として描かれ、現代でもゲームや映画、小説で人気の高いキャラクターとなっています。

項目内容
生没年不詳〜198年(建安3年)
出身地并州五原郡九原県
奉先(ほうせん)
異名飛将(ひしょう)
愛馬赤兎馬(せきとば)

2. 偉業・功績

呂布の功績は、その圧倒的な武勇戦場での活躍に集約されます。

董卓暗殺

呂布の最大の功績といえるのが、暴君・董卓の暗殺でしょう。

董卓は後漢の実権を握り、暴政の限りを尽くしていた人物です。192年、司徒の王允らが企てた暗殺計画に呂布は加わり、自らの手で董卓を討ち取りました。

この功績により、呂布は奮武将軍に任じられ、温侯に封じられています。

黒山賊・張燕の撃破

袁紹のもとに身を寄せていた時期、呂布は黒山賊の頭目・張燕と戦いました。

張燕は精兵1万と騎馬数千を率いる強敵でしたが、呂布は配下の成廉・魏越とわずか数十騎で敵陣に突撃。1日に3〜4度も突撃を繰り返し、数十日後には張燕軍を撃破したのです。

この戦いの後、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」という称賛の言葉が生まれました。

徐州の支配

呂布は196年に劉備から徐州を奪い取り、一時は独立した勢力として君臨しています。袁術軍の大軍を撃退するなど、軍事的な才能を発揮しました。


3. 系譜

呂布の家族については、史書にあまり詳しく記録されていません。

確認できる家族

  • :姓名は不詳(一説に魏氏とも)
  • :名前は不詳。袁術の息子との婚約話があった

呂布が下邳城に包囲された際、妻は陳宮の作戦に反対し、呂布に忠告を与えたという記録が残っています。娘については、袁術との同盟のために婚約が進められましたが、最終的に破談となりました。

『三国志演義』での設定

小説『三国志演義』では、呂布の家族関係がより詳しく描かれています。

  • 正室:厳氏
  • 側室:曹豹の娘(早世)
  • :貂蝉(ちょうせん)※架空の人物

特に貂蝉は、王允の「連環の計」によって呂布と董卓の仲を裂いた美女として有名です。ただし、これは完全な創作であり、史実には登場しません。


4. 姿・見た目

呂布の外見について、正史には具体的な記述がほとんどありません。

ただし、弓術と馬術に秀で、非常に強い腕力を持っていたことは記録されています。

『三国志演義』での描写

小説では、呂布の姿が華やかに描かれています。

呂布の装備と外見

部位描写
三叉束髪紫金冠(さんさそくはつしきんかん)
西川紅錦百花袍(せいせんこうきんひゃっかほう)
獣面呑頭連環鎧(じゅうめんどんとうれんかんがい)
勒甲玲瓏獅蛮帯(ろっこうれいろうしばんたい)
武器方天画戟(ほうてんがげき)
愛馬赤兎馬

身長は一丈(約2.3メートル)とされていますが、これは誇張表現でしょう。

赤兎馬は「一日に千里を走る」といわれた名馬で、呂布の死後は関羽に与えられたとされています。

武器について

呂布の象徴的な武器「方天画戟(ほうてんがげき)」は、実は後世の創作である可能性が高いとされています。

方天画戟という武器が登場するのは宋代以降であり、三国時代には存在しなかったと考えられているのです。正史では単に「戟」を使ったと記録されています。


5. 特徴

呂布には、際立った特徴がいくつかあります。

圧倒的な武勇

呂布の最大の特徴は、個人の武力において三国時代最強とされることです。

  • 弓術・馬術に秀でていた
  • 腕力が非常に強かった
  • 騎兵を率いての戦闘指揮に優れていた

「飛将」の異名は、その素早い騎馬戦術と勇猛さを表しています。

反覆無常の性格

一方で、呂布は「裏切りの将」としても知られています。

呂布の主な裏切り

  1. 丁原を殺害 → 董卓に寝返る
  2. 董卓を暗殺 → 王允と組む
  3. 劉備を裏切る → 徐州を奪取

この行動から、『三国志演義』では張飛に「三姓家奴(三つの家の奴隷)」と罵られる場面があります。

陳寿は『三国志』の中で、呂布を「虎の強さを持ちながら英略を持たず、軽はずみで狡猾、裏切りを繰り返し、利益だけが眼中にあった」と厳しく評しています。

女性関係の問題

呂布は董卓の侍女と密通していたとされ、これが董卓暗殺の一因になったという説もあります。また、部下の妻に手を出すこともあったようで、これが配下の離反を招く原因となりました。


6. 伝承

呂布にまつわる伝承の中で、特に有名なものをご紹介します。

轅門射戟(えんもんしゃげき)

これは呂布の弓の腕前を示す有名な逸話です。

196年、袁術が紀霊率いる3万の大軍を送り、劉備を攻撃しようとしました。劉備は呂布に救援を求めます。

呂布は両軍を招いて宴を開き、こう言いました。

「私が戟(げき)を射るのをご覧なさい。当たったなら兵を引き、当たらなければ戦いを続けなさい」

そして軍営の門に戟を立てさせ、遠く離れた場所から見事に戟の小さな部分に矢を命中させたのです。

両軍は驚き、「将軍は天威である」と称え、戦いは回避されました。

三英戦呂布

『三国志演義』で最も有名な場面の一つが「三英戦呂布」です。

董卓討伐連合軍との戦いで、虎牢関を守る呂布に対し、劉備・関羽・張飛の三人が同時に挑みました。

三人がかりでも呂布を討ち取ることはできず、呂布は自ら退却したとされています。この場面は、呂布の武勇が三国志最強であることを印象づける名シーンとなっています。

貂蝉と連環の計

『三国志演義』では、司徒の王允が養女の貂蝉を使って呂布と董卓の仲を裂く「連環の計」が描かれています。

貂蝉は董卓に献上されながらも呂布と密かに通じ、二人の間に嫉妬と疑念を生じさせました。これが呂布の董卓暗殺の決意につながったとされています。

ただし、貂蝉は架空の人物であり、この物語は創作です。

最期の場面

198年、曹操と劉備の連合軍に攻められた呂布は、下邳城に籠城しました。

しかし、配下の侯成・宋憲・魏続が反乱を起こし、陳宮と高順を捕らえて曹操に降伏。呂布も捕らえられてしまいます。

曹操の前に引き出された呂布は命乞いをしましたが、劉備が「丁原や董卓のことをお忘れですか」と進言し、結局縛り首に処されました。


7. 出典・起源

呂布に関する記録は、複数の歴史書に残されています。

主な出典

正史

  • 『三国志』呂布伝(陳寿著、3世紀)
  • 『後漢書』呂布伝(范曄著、5世紀)

注釈・補足資料

  • 『英雄記』(王粲著)
  • 『献帝春秋』(袁暐著)
  • 『曹瞞伝』(作者不詳)

小説

  • 『三国志演義』(羅貫中著、14世紀)

評価の変遷

歴史書での呂布の評価は、基本的に厳しいものでした。陳寿は「歴史上、彼のような人物が破滅しなかったためしはない」と断じています。

しかし、京劇では呂布は「時代に愛されなかった悲哀」がクローズアップされ、美男役として演じられることが多くなりました。『呂布と貂蝉』は美男美女の悲恋物語として人気を博しています。

現代の創作作品では、その圧倒的な武勇が再評価され、ゲームや漫画で人気キャラクターとして描かれることが増えました。


8. まとめ

呂布は、三国時代最強の武勇を誇りながらも、その性格ゆえに破滅した悲劇の武将です。

呂布の重要ポイント

  • 三国志最強の武将として「飛将」の異名を持つ
  • 愛馬・赤兎馬とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と称賛された
  • 董卓暗殺という歴史的な功績を残した
  • 轅門射戟三英戦呂布など、武勇を示す伝説が多い
  • 反覆無常の性格から「三姓家奴」と蔑まれた
  • 最期は曹操に捕らえられ、縛り首で処刑された
  • 正史での評価は厳しいが、後世の創作では人気キャラクターに

呂布の生涯は、圧倒的な力を持ちながらも、信義を守れなかったがゆえに滅びた者の典型といえるでしょう。

しかし、その悲劇性こそが、現代でも多くの人を惹きつける魅力となっているのかもしれません。

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