【三国志最強の軍師】諸葛亮(孔明)とは?その偉業・伝説・逸話をやさしく解説!

神話・歴史・伝承

「三顧の礼」「死せる孔明、生ける仲達を走らす」——これらの言葉を聞いたことはありませんか?

これらはすべて、中国史上最も有名な軍師・諸葛亮(しょかつりょう)にまつわる故事なんです。

知謀の限りを尽くして劉備を支え、蜀漢の建国に貢献したこの天才軍師は、後世の小説『三国志演義』では風を呼び、星を読み、まるで仙人のような超人的な存在として描かれるようになりました。

この記事では、「臥龍」と呼ばれた伝説の軍師・諸葛亮について、その生涯から伝承、発明品まで詳しくご紹介します。


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概要

諸葛亮(181年〜234年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて活躍した政治家・軍師です。

字(あざな)は孔明(こうめい)。琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県あたり)の出身で、蜀漢の建国者・劉備とその子・劉禅に仕えました。

若い頃から自らを春秋時代の名宰相・管仲や戦国時代の名将・楽毅になぞらえていたことから、周囲からは「臥龍(がりょう)」または「伏龍(ふくりゅう)」と呼ばれていました。どちらも「眠れる龍」という意味で、まだ世に出ていない大器を表す言葉なんですね。

諸葛亮の最大の功績は、劉備に「天下三分の計」を授けたこと。これは、曹操・孫権・劉備の三者で天下を分け合うという戦略で、まさにこの構想が「三国志」という時代の名前の由来になっています。

劉備の死後は丞相として蜀漢の国政を一手に担い、何度も北伐(曹魏への遠征)を行いましたが、志半ばで五丈原にて病没。享年54歳でした。

その死後、「忠武侯(ちゅうぶこう)」という諡号を贈られ、忠義と知恵の象徴として今なお敬愛されています。


偉業・功績

諸葛亮の功績は、軍事・政治・発明と多岐にわたります。

軍略家としての功績

  • 天下三分の計を提唱:荊州と益州を領有し、呉と同盟して魏に対抗するという大戦略を劉備に授けた
  • 赤壁の戦いでの外交成功:孫権を説得して孫劉同盟を成立させ、曹操の80万の大軍を撃退
  • 南蛮平定(南中平定):蜀の南方で起きた反乱を鎮圧し、地元の豪族・孟獲を心服させた
  • 五度の北伐:曹魏に対して繰り返し遠征を行い、魏の名将・司馬懿と互角以上に渡り合った

政治家としての功績

諸葛亮は軍師としてだけでなく、優れた行政官でもありました。

  • 法治主義の確立:厳格かつ公平な法律を制定し、賞罰を明確にした
  • 経済政策の推進:塩・鉄・蜀錦(絹織物)の生産を奨励し、国力を増強
  • 農業の振興:屯田制を実施し、都江堰などの水利施設を整備
  • 人材登用:蔣琬・費禕・姜維など、次世代の人材を育成

『三国志』の著者・陳寿は、諸葛亮を「管仲・蕭何に匹敵する名宰相」と評価しています。

発明家としての功績

諸葛亮は技術面でも優れた才能を発揮しました。

  • 木牛流馬(もくぎゅうりゅうば):北伐時に物資輸送に使用した運搬装置
  • 連弩(れんど):一度に10本の矢を連射できる改良型弩弓(「諸葛弩」とも呼ばれる)
  • 八陣図:兵法を応用した陣形術で、後世の将軍たちにも影響を与えた
  • 孔明灯(こうめいとう):軍事通信に使用された熱気球の原型

また、饅頭(まんじゅう)の発明者という伝説もあります。南蛮征伐の際、人の首を捧げる現地の風習を廃止するため、小麦粉で人の頭を模した食べ物を作らせたのが始まりとされています。


系譜

祖先

諸葛亮の祖先は、前漢時代の司隷校尉・諸葛豊にまでさかのぼります。

「諸葛」という珍しい姓の由来には諸説ありますが、一説によると、もともと琅邪郡の諸県に住んでいた葛氏が陽都県に移住した際、すでにそこにいた葛氏と区別するため「諸県の葛氏」→「諸葛」と呼ばれるようになったといわれています。

父母

  • 父:諸葛珪(しょかつけい)——泰山郡の丞(副長官)を務めた人物。諸葛亮が幼い頃に亡くなった
  • 母:章氏——諸葛亮が幼少期に死去。父は後に再婚している

兄弟姉妹

  • 諸葛瑾(しょかつきん)——兄。呉の孫権に仕え、大将軍にまで昇進した
  • 諸葛均(しょかつきん)——弟。蜀漢に仕え、長水校尉となった
  • 姉2人——長姉は蒯祺に、次姉は龐徳公の子・龐山民に嫁いだ

諸葛亮・諸葛瑾・諸葛誕(従弟)の三人がそれぞれ蜀・呉・魏に仕えたことから、当時の人々は「蜀はその龍を得、呉はその虎を得、魏はその狗を得たり」と評したそうです。

諸葛亮の妻は、沔南の名士・黄承彦の娘です。

『襄陽記』によると、黄承彦は諸葛亮にこう言ったといいます。

「私には醜い娘がいる。黄色い髪で肌は黒いが、才能は君に釣り合うだろう」

諸葛亮はこれを快諾して娶りました。当時の人々はこれを笑い、「孔明の嫁選びを真似るな。黄承彦の醜女をもらうことになるぞ」とはやし立てたそうです。

ただし、この「醜い」というのは謙遜だったのかもしれません。民間では彼女を黄月英(こうげつえい)と呼び、木牛流馬の発明を手伝ったという伝承も残っています。

子孫

  • 諸葛瞻(しょかつせん)——長男。蜀漢滅亡時、魏軍と戦って戦死
  • 諸葛尚(しょかつしょう)——孫。父・諸葛瞻とともに戦死
  • 諸葛京(しょかつけい)——孫。蜀漢滅亡後、西晋に仕えて江州刺史となった

現在、中国浙江省蘭渓市には「諸葛八卦村」という村があり、住民の約8割が「諸葛」姓を名乗っています。彼らは諸葛亮の子孫を称しており、家系図『諸葛氏宗譜』を代々受け継いでいるそうです。


姿・見た目

歴史書の記述

『三国志』によると、諸葛亮は身長八尺(約184cm〜192cm)の偉丈夫だったとされています。

当時の中国人の平均身長を考えると、かなりの長身だったことがわかりますね。容姿については「堂々たる風貌」と記されており、その姿を見た人々は感嘆したといいます。

小説・演劇での描写

『三国志演義』や京劇では、諸葛亮は独特のスタイルで描かれます。

  • 綸巾(かんきん):絹でできた頭巾をかぶっている
  • 鶴氅(かくしょう):道士が着るような鶴の羽毛の外套
  • 羽扇(うせん):白い鶴の羽で作った扇を常に手にしている
  • 四輪車:戦場でも素朴な車に乗って軍を指揮する

この「羽扇綸巾」のスタイルは、冷静沈着で超然とした知略家としての諸葛亮像を象徴するものとなっています。

実際、司馬懿が諸葛亮の様子を探らせたところ、「素色の車に乗り、葛巾をかぶり、羽扇を持って三軍を指揮していた」と報告を受け、「まさに名士である」と感嘆したと伝わっています。


特徴

性格

諸葛亮の性格は、忠義と謙虚さに特徴づけられます。

  • 忠誠心:劉備の死後も劉禅を補佐し続け、「鞠躬尽瘁、死して後已む」(身を粉にして尽くし、死ぬまでやめない)という姿勢を貫いた
  • 清廉潔白:私財を蓄えず、自ら質素な生活を送った。死後、遺言通り副葬品なしで葬られた
  • 公正無私:親しい部下でも失敗すれば処罰し(馬謖の斬首)、自らも敗戦の責任を取って降格を受け入れた
  • 謙虚さ:北伐での成功を褒められても「漢室が復興していない以上、喜ぶことはできない」と答えた

能力

諸葛亮の能力は、政治・軍事・外交・技術と多方面にわたります。

政治面

  • 法律の整備と公正な運用
  • 農業・産業の振興による国力増強
  • 人材の発掘と育成

軍事面

  • 緻密な戦略立案
  • 兵站(物資補給)の管理
  • 新兵器・新戦術の開発

外交面

  • 呉との同盟締結・維持
  • 南方異民族との和解

弱点

一方で、陳寿は諸葛亮について「臨機応変の軍略は得意とするところではなかったのではないか」とも評しています。

これは、諸葛亮が堅実・慎重な戦い方を好み、奇策や冒険的な戦法を避けたことを指しているようです。ただし、これは弱点というよりも、弱小の蜀を守るための戦略的判断だったとも解釈されています。


伝承

諸葛亮にまつわる有名な伝承をいくつかご紹介します。

三顧の礼(さんこのれい)

劉備が諸葛亮を軍師として迎えるまでの話です。

207年、まだ無名だった諸葛亮のもとを、劉備は自ら三度訪ねました。最初の二度は会うことができませんでしたが、三度目にしてようやく面会が叶い、諸葛亮は有名な「天下三分の計」を披露しました。

この故事から、「三顧の礼」は目上の者が礼を尽くして人材を招くことのたとえとして使われるようになりました。

死せる孔明、生ける仲達を走らす

234年、五丈原の戦いで諸葛亮が病死した後の出来事です。

蜀軍は諸葛亮の死を秘密にして撤退を開始しました。魏の司馬懿(仲達)が追撃してきたところ、蜀軍が反転して戦闘態勢を取ったため、「諸葛亮は生きていたのか!」と驚いた司馬懿は慌てて退却しました。

実は蜀軍は諸葛亮の木像を立てて、まだ生きているように見せかけていたのです。このことから「死んだ諸葛亮が生きている司馬懿を走らせた」という言い伝えが生まれました。

泣いて馬謖を斬る

228年の第一次北伐で、諸葛亮は信頼していた馬謖に街亭の守備を任せました。しかし馬謖は諸葛亮の指示に背いて山の上に布陣し、水源を断たれて大敗。この敗北により北伐は失敗に終わりました。

諸葛亮は涙を流しながらも軍法に従って馬謖を処刑し、自らも三階級の降格処分を受けました。この故事は「私情を捨てて規律を守ること」のたとえとして使われます。

七縦七擒(しちしょうしちきん)

225年の南蛮征伐で、諸葛亮は反乱軍の首領・孟獲を七度捕らえ、七度放しました。

これは参軍・馬謖の「力で押さえつけるより心を服させるべき」という進言に従ったもの。七度目に捕らえられた孟獲は、ついに心から降伏し、「我らは二度と反乱を起こしません」と誓ったといいます。

空城の計

『三国志演義』で有名なエピソードですが、史実かどうかは疑問視されています。

街亭の敗戦後、司馬懿の大軍が迫る中、諸葛亮はわずかな兵しかいない城に残されました。そこで彼は城門を開け放ち、自らは城壁の上で悠々と琴を弾いて見せたのです。

「何か罠があるに違いない」と疑った司馬懿は、軍を引き上げて去っていきました。

この話は郭沖という人物が伝えた逸話ですが、歴史家の裴松之は「作り話である」と注釈をつけています。

孔明灯の発明

諸葛亮が平陽で司馬懿に包囲された際、援軍を呼ぶために発明したとされるのが「孔明灯」です。

紙で作った袋の中で火を焚き、熱気で空に浮かばせて通信手段としました。これは熱気球の原型ともいわれ、現在でも中国や台湾ではお祭りの際に孔明灯を飛ばす風習が残っています。


出典・起源

正史での扱い

諸葛亮に関する最も信頼性の高い史料は、3世紀に陳寿が編纂した『三国志』です。

陳寿自身がかつて蜀漢に仕えており、諸葛亮の著作を編集した経験もあったため、『蜀書・諸葛亮伝』は詳細かつ信頼性の高い記述となっています。

5世紀には裴松之が『三国志』に注釈を加え、『襄陽記』『漢晋春秋』『魏略』などの他の史料から情報を補いました。

『三国志演義』での神格化

時代が下るにつれ、諸葛亮の伝説はどんどん誇張されていきました。

宋代には講談の中で諸葛亮は神仙のような力を持つ存在として語られ始め、元代の『三国志平話』では豆を撒いて兵士を作り出したり、風雨を自在に操ったりする姿が描かれています。

14世紀の小説『三国志演義』では、この傾向がさらに強まりました。

『三国志演義』での諸葛亮の超人的な活躍

  • 東南の風を呼ぶ:赤壁の戦いで、七星壇で祈祷して風向きを変えた
  • 草船で矢を借りる:霧の中で藁人形を乗せた船を出し、曹操軍から10万本の矢を奪取
  • 星を読んで寿命を知る:天文を観察して人の生死を予知した
  • 延命の儀式:死期が迫った際、七星灯で寿命を延ばそうとした(魏延の乱入で失敗)

魯迅はこうした描写について「諸葛亮の知恵を描こうとして、かえって妖怪じみてしまった」と批評しています。

琅邪と道教の関係

諸葛亮の出身地・琅邪は、古くから多くの方士(道士)を輩出した地域でした。

秦の始皇帝に仕えた徐福や、孫策を呪ったとされる于吉なども琅邪の出身です。この土地柄が、後世の人々が諸葛亮を神仙的な存在として描く素地になったのかもしれません。

毛宗崗の「三絶」評価

清代の文学者・毛宗崗は『三国志演義』を評価する中で、三人の登場人物を「三絶」と称しました。

  • 智絶(知恵の極み):諸葛亮
  • 義絶(義理の極み):関羽
  • 奸絶(奸智の極み):曹操

この評価は、諸葛亮が中国文化において「知恵の象徴」として確固たる地位を占めていることを示しています。


まとめ

諸葛亮は、三国時代を代表する政治家・軍師であり、中国文化における知恵と忠義の象徴です。

重要なポイント

  • 字は孔明、「臥龍」「伏龍」の異名を持つ蜀漢の丞相
  • 劉備に「天下三分の計」を授け、蜀漢建国の立役者となった
  • 政治・軍事・発明と多方面で優れた才能を発揮
  • 清廉潔白な人柄で、「鞠躬尽瘁、死して後已む」の精神を体現
  • 後世の『三国志演義』では神仙的な超人として描かれた
  • 「三顧の礼」「死せる孔明」など、多くの故事成語を生み出した
  • 現在も武侯祠で祀られ、子孫を称する人々が暮らす村も存在する

諸葛亮の生涯は、才能と忠誠心があれば一介の書生でも歴史を動かせることを示しています。彼が残した「出師表」の一節——「鞠躬尽瘁、死して後已む」——は、今なお多くの人々の座右の銘となっているのです。

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