「我こそは張益徳なり!命を惜しまぬ者は、かかってこい!」
この一喝で、数万の敵軍を退けたという伝説の武将がいます。
その名は張飛(ちょうひ)。三国時代を代表する豪傑であり、劉備・関羽とともに乱世を駆け抜けた英雄です。
『三国志演義』では、その破天荒な性格と圧倒的な武勇で読者を魅了し、2000年近く経った今でも庶民に愛され続けています。
この記事では、三国志きっての猛将・張飛について、その偉業から意外な人物像、そして悲劇的な最期まで詳しくご紹介します。
概要

張飛(ちょうひ)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて活躍した蜀漢(しょくかん)の武将です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 張飛(ちょうひ) |
| 字(あざな) | 益徳(えきとく)※演義では翼徳(よくとく) |
| 別名 | 燕人張飛(えんじんちょうひ)、桓侯(かんこう) |
| 生没年 | ?年〜221年 |
| 出身地 | 幽州涿郡涿県(現在の河北省涿州市) |
| 最終官位 | 車騎将軍・司隷校尉・西郷侯 |
| 諡号(おくりな) | 桓侯 |
字の「益徳」の「益」は、実は「鷁(げき)」という空を飛ぶ水鳥の通仮字(当て字)なんです。「飛」という名前と対応させているわけですね。
劉備が黄巾の乱で義勇兵を募った時から付き従い、関羽とともに劉備を支え続けました。その武勇は敵国である魏の軍師・程昱からも「一万人に匹敵する」と絶賛されるほどでした。
偉業・功績
張飛の功績は、戦場での圧倒的な武勇に集約されます。
長坂橋の大喝(ちょうはんきょうのだいかつ)
張飛最大の見せ場といえば、長坂橋での仁王立ちでしょう。
208年、曹操の大軍に追われた劉備軍は壊滅寸前でした。劉備は妻子を捨てて逃げざるを得ない状況に追い込まれます。
このとき、殿(しんがり=退却する味方を守るため最後尾で敵を食い止める役目)を務めたのが張飛でした。
彼はわずか20騎ほどを率いて長坂橋に陣取り、橋を落として川を背に構えました。そして目を怒らせ、矛を横たえてこう叫んだのです。
「身は張益徳なり。来たりて共に死を決せん!」
その声は雷のように響き渡りました。張飛の武名を知る曹操軍は、誰一人として近づこうとしなかったといいます。
この活躍によって、劉備は無事に逃げ延びることができました。
厳顔(げんがん)を義で解放
214年、劉備の益州攻略に参加した張飛は、江州で巴郡太守の厳顔を生け捕りにしました。
張飛が「なぜ降伏せず抵抗したのか」と詰問すると、厳顔はこう答えます。
「我が州には首を斬られる将軍はいても、降伏する将軍はおらぬ!」
怒った張飛が処刑を命じると、厳顔は顔色一つ変えずに言い放ちました。
「首を斬りたければ斬れ。何を怒っているのだ」
この堂々たる態度に感服した張飛は、厳顔を解放して賓客として丁重にもてなしたのです。
張郃(ちょうこう)を撃破
215年、曹操軍の名将・張郃が巴西郡に侵攻してきました。張飛は50日以上にわたって対峙した後、精鋭1万人を率いて山道の狭い場所で奇襲を仕掛けます。
地形を活かした作戦が見事に的中し、張郃軍は前後が分断されて各個撃破されました。張郃はわずか数十人の部下とともに山を徒歩で逃げ帰るほどの大敗を喫したのです。
系譜
張飛の家族関係は、意外にも蜀漢の皇室と深く結びついています。
妻
夏侯氏(かこうし)という女性で、なんと曹操軍の名将・夏侯淵の姪にあたります。
200年、張飛が薪を採りに来ていた当時13〜14歳の彼女を見初めて妻としました。敵将の親族を妻に迎えるという、戦乱の世ならではの数奇な縁です。
子供たち
- 長男・張苞(ちょうほう):若くして亡くなった
- 次男・張紹(ちょうしょう):父の爵位を継ぎ、侍中・尚書僕射を務めた
- 長女:劉禅(りゅうぜん)の皇后となり、敬哀皇后と呼ばれた
- 次女:姉の死後、同じく劉禅の皇后となった(張皇后)
孫
張遵(ちょうじゅん)は張苞の子で、尚書を務めました。263年、蜀が魏に攻められた際、諸葛亮の子・諸葛瞻とともに綿竹で戦い、壮絶な戦死を遂げています。
姿・見た目
張飛の外見は、『三国志演義』で印象的に描かれています。
演義での描写
| 特徴 | 説明 |
|---|---|
| 身長 | 八尺(約184cm) |
| 頭部 | 豹のようにゴツゴツした頭 |
| 目 | ギョロリとした丸い目 |
| 顎(あご) | 燕のように張ったエラ |
| 髭(ひげ) | 虎のような立派な髭 |
| 声 | 巨大な雷のよう |
| 勢い | 暴れ馬のよう |
「豹頭環眼、燕頷虎鬚(ひょうとうかんがん、えんかんこしゅ)」という四字熟語で表現されることもあります。
武器
張飛の得物は「丈八蛇矛(じょうはちだぼう)」と呼ばれる長い矛です。
丈八とは約4.15メートルを意味し、蛇のようにうねった穂先を持つ矛だったとされています。この重い武器を自在に振るう姿は、まさに鬼神のごとくだったでしょう。
特徴

張飛の性格には、明確な二面性がありました。
士大夫には敬意を払う
張飛は、学問や教養のある士大夫(したいふ)と呼ばれる知識人層には、深い敬意を持って接しました。
名士たちと交流することを好み、彼らに親しんでいたといいます。これは意外に思われるかもしれませんが、庶民から出世した張飛にとって、知識人への尊敬は自然なことだったのかもしれません。
兵卒には暴虐
一方で、身分の低い兵士たちへの扱いは非常に厳しいものでした。
- 死刑の執行が多すぎる
- 部下を頻繁に鞭打つ
- 鞭打った当人を自分の近くに置く
劉備はこの点を常に心配し、「お前は刑罰が過ぎる。鞭打った者をそばに置くのは禍の元だ」と何度も戒めました。しかし張飛は改めることができませんでした。
関羽との対比
興味深いことに、義兄弟の関羽とは正反対の性格だったのです。
| 比較項目 | 張飛 | 関羽 |
|---|---|---|
| 士大夫への態度 | 敬意を払い親しむ | 傲慢で対抗意識を持つ |
| 兵卒への態度 | 厳しく暴虐 | 優しく思いやる |
二人とも庶民から出世した身でしたが、その表れ方が真逆だったというわけです。
万人の敵
張飛の武勇は、敵味方を問わず高く評価されていました。
曹操の軍師・程昱や郭嘉は「関羽・張飛は万人の敵である」と評し、呉の周瑜も「劉備に関羽・張飛という熊虎の将がいる」と警戒しています。
「万人の敵」とは、一人で一万人の兵に匹敵するという意味の最高の賛辞なのです。
伝承

張飛にまつわる伝説や民間伝承は、中国各地に残っています。
庶民に愛された英雄
中国では、こんな言葉が伝わっています。
「劉備は尊敬され、関羽は尊敬され、張飛は愛される」
関羽が「義」の象徴として神格化されたのに対し、張飛は庶民に親しまれる存在として愛されてきました。
その理由は、張飛の豪快で暴れん坊な姿が、庶民の喜ぶ英雄像そのものだったからです。聖人君子より、破天荒に大暴れする姿に人々は喝采を送ったのでしょう。
京劇での人気
張飛が登場する場面で特に人気なのは、次の二つです。
- 督郵を鞭打つ場面:腐敗した役人を懲らしめる痛快さ
- 長坂橋で仁王立ちする場面:一人で大軍を退ける勇壮さ
いずれも「大向こう受け」する名場面として、今でも演じられています。
張飛廟と張飛柏
張飛の死後、その首は長江に投げ捨てられました。伝説によると、漁師がこれを拾い上げて埋葬したのが張飛廟(ちょうひびょう)の起源とされています。
また、張飛が自ら植えたと伝えられる張飛柏(ちょうひはく)という木も残っており、2000年近く経った今も多くの観光客が訪れる名所となっています。
落語『野ざらし』の原型
明代の笑話集『笑府』には、張飛が登場する滑稽な話があります。
ある男が野ざらしの骸骨を供養したところ、夜に楊貴妃の霊が現れてお礼に来ました。それを聞いた隣の男も真似をしたところ、現れたのは張飛の霊だったという話です。
「俺は張飛だ。お礼に夜を共にしよう」と言われて仰天する、というオチ。この話が日本に伝わり、落語の『野ざらし』の原型になったとされています。
出典・起源
張飛に関する記録は、様々な歴史書や文学作品に残されています。
正史『三国志』
陳寿(ちんじゅ)が著した『三国志』蜀書「関張馬黄趙伝」が、張飛に関する最も信頼できる史料です。
陳寿は張飛について次のように評しています。
「関羽・張飛は万人の敵と称され、世の虎臣であった。関羽は曹操への恩に報い、張飛は厳顔の義に感じてその縄を解いた。ともに国士の風格があった。しかし関羽は剛毅すぎて傲慢であり、張飛は乱暴で部下に恩愛をかけなかった。この短所が仇となって最期を遂げた。これは道理である」
『三国志平話』
宋・元代に成立した講談本で、庶民向けに三国志の物語を語ったものです。ここでの張飛は、正史以上に活躍が強調され、痛快な英雄として描かれています。
『三国志演義』
14世紀に成立した小説で、張飛のイメージを決定づけた作品です。
- 桃園の誓い(劉備・関羽との義兄弟の契り)
- 虎牢関での呂布との一騎打ち
- 長坂橋での大喝
など、数々の名場面が創作されました。
演義での張飛は、字が「翼徳」とされ、肉屋の出身という設定が加えられています。また、酒好きで失敗することもある人間味あふれるキャラクターとして描かれているのが特徴です。
まとめ
張飛は、三国時代を代表する猛将であり、2000年にわたって民衆に愛され続けてきた英雄です。
重要なポイント
- 劉備の挙兵から最期まで付き従った忠臣
- 「万人の敵」と称された圧倒的な武勇
- 長坂橋の大喝は三国志屈指の名場面
- 士大夫には敬意を払い、兵卒には厳しかった二面性
- 関羽が「尊敬」されるのに対し、張飛は「愛される」存在
- 部下への暴虐が祟り、221年に暗殺される悲劇的な最期
- 各地に残る廟や史跡が、今も人気を物語る
関羽が「義」の神として崇められたのに対し、張飛は庶民のヒーローとして親しまれてきました。
その豪快さ、破天荒さ、そして人間的な弱さ——張飛の魅力は、完璧な英雄ではない「愛すべき豪傑」という点にあるのかもしれません。


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