三国志の英雄といえば、誰を思い浮かべますか?
劉備、諸葛亮、曹操……様々な名前が挙がりますが、「武神」として今も世界中で崇拝される人物がいます。
それが関羽(かんう)です。
義兄弟・劉備への忠義を貫き、敵である曹操さえも感嘆させたその生き様は、死後1800年以上経った今でも人々の心を打ち続けています。
この記事では、死して神となった忠烈の義士「関羽」について、その偉業や姿、伝承を分かりやすくご紹介します。
概要

関羽は、中国後漢末期から三国時代にかけて活躍した武将です。
蜀漢の初代皇帝・劉備に仕え、義兄弟として苦楽を共にしました。「万人の敵」と称えられるほどの武勇を誇り、同時代の多くの人物から賞賛を受けた名将なんです。
字(あざな)は雲長(うんちょう)。もともとは「長生」という字でしたが、後に改めました。
見事な髭を蓄えていたことから、諸葛亮からは親しみを込めて「髯(ひげ)」と呼ばれ、後世には「美髯公(びぜんこう)」という異名でも知られるようになります。
関羽の人生は、忠義と武勇に彩られたものでした。しかし、その最期は悲劇的なものとなります。荊州を守備していた219年、呉の孫権による策略にかかり、捕らえられて処刑されてしまったのです。
しかし、関羽の物語はここで終わりません。死後、その忠義と武勇を讃えられ、次第に神格化されていきました。現在では「関帝」「関聖帝君」として、中国はもちろん、日本、韓国、ベトナムなど世界各地で信仰の対象となっています。
偉業・功績
関羽の功績は数多くありますが、特に有名なものをご紹介しましょう。
顔良を討ち取った白馬の戦い
200年、曹操と袁紹が激突した官渡の戦いの前哨戦「白馬の戦い」で、関羽は伝説的な武功を挙げます。
当時、関羽は一時的に曹操のもとにいました。袁紹軍の猛将・顔良が白馬を包囲すると、関羽は張遼と共に先鋒として出陣。関羽は顔良の旗印を見つけるや、単騎で敵陣に突入し、万軍の中で顔良を討ち取ってその首を持ち帰ったのです。
袁紹軍の諸将は誰も関羽を止めることができませんでした。この功績により、関羽は「漢寿亭侯」に封じられます。
曹操への恩義を果たし劉備のもとへ
関羽の人柄を最もよく表すエピソードがあります。
曹操は関羽の武勇と人格を高く評価し、何とか自分の配下に留めようとしました。しかし関羽は張遼に対してこう語ります。
「曹公の厚遇には感謝している。しかし、私は劉備殿から大恩を受け、共に死ぬと誓った。この誓いを破ることはできない。必ず功を立てて曹公への恩に報いてから去る」
顔良を討ち取るという功績で恩義を果たした関羽は、曹操から賜った品々に封をし、書状を残して劉備のもとへ去りました。
曹操の部下たちは追撃を進言しましたが、曹操はこう言って止めたといいます。
「彼は彼で、主君のために行動しているにすぎない。追ってはならない」
敵であった曹操にさえ「天下の義士」と称えられた関羽。この出来事は、後世に語り継がれる関羽の忠義を象徴するエピソードとなりました。
荊州の統治と樊城の戦い
劉備が益州(現在の四川省)を手に入れた後、関羽は約7年間にわたって荊州の守備を任されます。
219年、関羽は北上して曹操軍の拠点・樊城を攻撃。この時、大雨による洪水を利用して曹操軍の援軍・于禁の七軍を壊滅させ、于禁を降伏させました。さらに副将の龐徳を斬り、その威名は中国全土に轟きます。
『三国志』には「威震華夏(威は華夏を震わす)」と記されています。曹操は都を移すことまで考えたほどでした。
系譜
関羽の家族について見ていきましょう。
出身と家系
関羽は司隷河東郡解県(現在の山西省運城市)の出身です。
清代に発見されたとされる墓碑の記録によると、以下のような家系だったとされています。
- 曾祖父:関審(光昭公)
- 祖父:関審(裕昌公)
- 父:関毅(成忠公)
ただし、これらの情報は後世に付け加えられた可能性もあり、正史には記載がありません。
妻子
正史『三国志』には妻の名前は記録されていません。民間伝承では胡氏という女性が妻だったとされています。
関羽には確認できる息子が二人います。
- 関平:関羽と共に戦い、関羽と同じく臨沮で捕らえられて処刑された
- 関興:若くして才能を認められ、諸葛亮に重用されたが、二十数歳で早世
また、孫権が自分の息子との婚姻を申し込んできた娘がいましたが、関羽はこれを断っています。この娘は民間伝承では「関銀屏」と呼ばれています。
小説『三国志演義』には三男の関索も登場しますが、正史には記載がなく、実在しない人物と考えられています。
子孫のその後
関興の息子・関統は劉禅の娘(公主)と結婚し、虎賁中郎将を務めました。関統に子がなかったため、庶子の関彝が後を継いでいます。
一説によると、蜀漢滅亡後の263年、関羽に父を殺された龐徳の息子・龐会が関羽の一族を皆殺しにしたとも言われていますが、この記録の信憑性には疑問が呈されています。
姿・見た目
関羽の外見は、非常に印象的なものでした。
正史の記述
正史『三国志』には、関羽の具体的な外見についての詳しい記述はありません。ただし、諸葛亮が関羽を「髯(ひげ)」と呼んでいたことから、立派な髭を蓄えていたことは確かです。
『三国志演義』での描写
小説『三国志演義』では、関羽の姿がより詳しく描かれています。
| 部位 | 特徴 |
|---|---|
| 身長 | 9尺(約208cm〜220cm) |
| 髭 | 2尺(約46cm〜48cm)の美しい髭 |
| 顔色 | 熟した棗(なつめ)のような赤い顔 |
| 目 | 丹鳳眼(鋭く切れ長の目) |
| 眉 | 蚕のようなしなやかな眉 |
この「赤い顔」という特徴は、京劇などの伝統芸能でも採用され、赤は忠義と勇猛の象徴として関羽のトレードマークになりました。
服装と武器
『三国志演義』では、関羽は緑色の衣を身にまとい、金色の鎧を着けた姿で描かれます。
愛用の武器は青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)。「冷艶鋸」とも呼ばれ、重さは82斤(約18〜50kg)もあったとされています。ただし、偃月刀は宋代以降に登場した武器であり、実際の関羽が使用していたのは環首刀(片手剣の一種)だった可能性が高いです。
愛馬は赤兎馬(せきとば)。もともとは呂布の馬でしたが、呂布の死後に曹操の手に渡り、曹操から関羽に贈られました。一日に千里を駆けるという名馬で、『三国志演義』では関羽の死後、食事を取らなくなり後を追うように死んだとされています。
特徴

関羽の人物像には、いくつかの際立った特徴があります。
文武両道の士
関羽は武勇だけでなく、学問にも通じていました。
儒教の経典『春秋左氏伝』を好み、ほぼ暗唱できるほどだったと記録されています。呉の呂蒙も「この人は背が高く学問を好み、左伝をほぼ諳んじることができる」と評しています。
単なる武人ではなく、教養ある知将としての一面も持っていたんですね。
驚異的な胆力
関羽の胆力を示す有名なエピソードがあります。
樊城の戦いで毒矢を受けた関羽。毒が骨にまで染み込んでいたため、医者は「腕を切開して骨から毒を削り取る必要がある」と告げます。
関羽は宴会の最中にその場で手術を受けることを決意。腕から血が流れ出る中、顔色一つ変えずに酒を飲み、肉を食べ、談笑を続けたといいます。
『三国志演義』では、この手術を行ったのが名医・華佗とされていますが、これは創作です。
士卒を愛し、士大夫を軽んじる
関羽は部下の兵士たちには優しく接しましたが、一方で身分の高い士大夫(官僚階級)に対しては礼を欠くことがありました。
正史には「関羽は士卒を善く待遇したが、士大夫を軽んじた」と記されています。この性格が、荊州の同僚である糜芳や士仁との不和を生み、最終的には彼らの裏切りを招く一因となってしまいます。
剛毅だが傲慢
陳寿は『三国志』で関羽を「剛にして自ら矜る(誇る)」と評しています。
黄忠が後将軍に任命された際、関羽は「老兵と同格になるものか」と不満を漏らしました。また、馬超が劉備に帰順した際には、諸葛亮に「馬超は誰と比べられるか」と手紙を送るなど、プライドの高さがうかがえます。
この傲慢さは、敵である呉の陸遜にも見抜かれていました。陸遜は「関羽はその勇気を誇り、人を見下す傾向がある」と分析し、これを利用して関羽を油断させたのです。
伝承
関羽にまつわる伝承は数多く存在します。史実と創作が入り混じっていますが、いずれも関羽の人物像を豊かにするものばかりです。
桃園の誓い
『三国志演義』の冒頭を飾る名場面「桃園結義」。
劉備、関羽、張飛の三人が桃の花咲く園で義兄弟の契りを結び、「同年同月同日に死なん」と誓い合うシーンです。この時から劉備が長兄、関羽が次兄、張飛が末弟とされました。
ただし、これは小説の創作であり、正史には記載がありません。正史では「兄弟のように親しかった」とあるだけで、正式な義兄弟の契りを交わしたという記録はないのです。
五関突破・六将斬殺
『三国志演義』で最も人気のあるエピソードの一つです。
曹操のもとを去り、劉備を探して旅立った関羽。しかし通行手形を持っていなかったため、各地の関所で止められます。関羽は東嶺関、洛陽、汜水関、滎陽、黄河の渡し、滑州と五つの関所を突破し、行く手を阻んだ六人の将を斬り倒しながら劉備のもとへ向かいました。
これも小説の創作ですが、関羽の忠義と武勇を象徴するエピソードとして広く知られています。
華容道での放免
赤壁の戦いで大敗した曹操が、華容道という隘路を通って逃げようとした時のことです。
待ち伏せていたのは関羽でした。曹操軍はすでに疲弊しきっており、抵抗する力は残っていません。しかし関羽は、かつて曹操から受けた恩義を思い出し、曹操を見逃してしまいます。
諸葛亮はこれを厳しく咎めますが、劉備のとりなしで関羽は死罪を免れます。このエピソードも『三国志演義』の創作ですが、関羽の義理堅さを表す物語として人気があります。
関羽の霊が呂蒙を祟り殺す
『三国志演義』では、関羽を策略にかけた呂蒙に対する復讐譚が語られます。
孫権が関羽討伐の祝宴を開いた際、上座に座った呂蒙が突然杯を地面に叩きつけ、孫権の胸倉をつかんでこう叫びます。
「碧眼の小童、紫髯の鼠め!我が誰か分かるか。我こそは漢の寿亭侯、関雲長なり!」
関羽の魂が乗り移った呂蒙は、その後全身の穴から血を吹き出して死んだとされています。
また、関羽の首を受け取った曹操が「別れて久しいが、お変わりなかったか」と声をかけると、その首は目と口を開いて曹操を睨みつけ、曹操を恐怖に陥れたともいわれています。
関帝として神格化される
関羽の死後、その霊が玉泉山の普浄という僧の前に現れたという伝説があります。
関羽の霊は呉への恨みを語りますが、普浄の説法を聞いて悟りを開き、仏法に帰依したとされています。これが後の「伽藍神(がらんしん)」としての関羽信仰の起源の一つとなりました。
出典・起源
関羽に関する史料と、信仰の成立について見ていきましょう。
正史『三国志』
関羽についての最も信頼できる史料は、陳寿が著した『三国志』です。
『三国志』蜀書の「関張馬黄趙伝」に関羽の伝記が収められています。5世紀には裴松之が注釈を加え、『蜀記』『魏書』『江表伝』『傅子』『典略』などの他の文献からの情報も補足されました。
陳寿は関羽と張飛についてこう評しています。
「関羽と張飛は万人の敵と称され、当世の虎臣であった。関羽は曹公への恩に報い、張飛は厳顔を義により釈放し、ともに国士の風があった。しかし関羽は剛にして自ら矜り、張飛は暴にして恩なく、その短所により身を滅ぼしたのは道理である」
小説『三国志演義』
14世紀に成立した『三国志演義』は、関羽の物語を大きく膨らませました。
羅貫中によって整理されたこの小説は、それまでの講談や元曲、民間伝説を集大成したものです。「桃園の誓い」「五関突破」「華容道」など、現在広く知られる関羽のエピソードの多くはこの小説に由来します。
『三国志演義』では、関羽は「五虎大将」の筆頭として位置づけられ、史実以上に華々しい活躍が描かれています。
関羽信仰の成立
関羽の神格化は、唐代から始まりました。
仏教における関羽
隋代の天台宗の祖・智顗(ちぎ)が玉泉山で寺を建てる際、関羽の霊が現れて土地を提供し、守護神になることを申し出たとされています。これにより、関羽は仏教の伽藍神(伽藍菩薩)として祀られるようになりました。
道教における関羽
宋代以降、関羽は道教でも重要な神として位置づけられます。解州の塩湖が塩を産出しなくなった際、張天師が関羽の霊を呼び出して戦神・蚩尤を退治させ、塩の生産を回復させたという伝説があります。
国家による神格化
宋代の皇帝たちは、北方民族の脅威にさらされるたびに関羽に高い称号を贈りました。
| 時代 | 君主 | 封号 |
|---|---|---|
| 蜀漢 | 劉禅 | 壮繆侯 |
| 北宋 | 徽宗 | 忠惠公 → 武安王 |
| 南宋 | 孝宗 | 壮繆義勇武安英済王 |
| 明 | 万暦帝 | 三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君 |
| 清 | 光緒帝 | 忠義神武霊佑仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝 |
清代には、孔子を祀る「文廟」と並んで、関羽を祀る「武廟」が各地に建てられました。関羽は「武聖」として、「文聖」孔子と並び称されるようになったのです。
関羽信仰が広まった理由
関羽が商売の神としても信仰される背景には、山西商人(晋商)の存在があります。
関羽の故郷・解県は古くから塩の産地でした。塩商人として成功した山西商人たちは、同郷の英雄・関羽を守護神として崇敬し、商売に出かける際には必ず関帝廟で祈願しました。
商売で最も大切なのは「約束を守る信義」です。劉備への忠義を貫いた関羽の姿は、まさにその理想を体現していました。こうして関羽は財神(商売の神)としても信仰されるようになったのです。
まとめ
関羽は、三国時代を代表する武将であり、死後は神として崇められるようになった稀有な存在です。
重要なポイント
- 劉備に仕えた忠義の武将:義兄弟として苦楽を共にし、曹操の厚遇も振り切って劉備のもとへ帰った
- 「万人の敵」と称された武勇:白馬の戦いで顔良を討ち取り、樊城の戦いでは于禁の七軍を壊滅させた
- 文武両道の士:『春秋左氏伝』を暗唱できるほどの教養人でもあった
- 象徴的な外見:9尺の長身、2尺の美髯、赤い顔が特徴
- 剛毅だが傲慢な性格:その短所が最終的には身を滅ぼす原因となった
- 死後に神格化:武聖、伽藍菩薩、財神として現在も世界中で信仰される
- 『三国志演義』での活躍:「桃園の誓い」「五関突破」など数々の名場面が創作された
関羽が今なお愛される理由は、その人間らしさにあるのかもしれません。
完璧な英雄ではなく、傲慢さゆえに失敗することもある。しかし、忠義と信義を貫く姿勢は決して揺るがない。そんな関羽の生き様が、1800年以上の時を超えて人々の心を打ち続けているのです。
横浜中華街や神戸南京町の関帝廟を訪れる機会があれば、ぜひ関羽の像に手を合わせてみてください。赤い顔に長い髭、青龍偃月刀を携えたその姿は、今も変わらず私たちを見守っています。


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