「三国志」に登場する諸葛孔明のような、頭脳明晰な軍師に憧れたことはありませんか?
実は、孔明よりも400年以上前に、中国史上最高の軍師と称される人物がいました。それが張良(ちょうりょう)です。
彼は美しい容姿を持ちながら、冷静な判断力で主君・劉邦を数々の危機から救い、漢王朝の建国に貢献しました。さらに不思議なことに、張良には「神秘的な老人との出会い」という伝説的なエピソードがあるんです。
この記事では、天才軍師・張良の生涯と、彼にまつわる興味深い伝説についてご紹介します。
概要

張良は、紀元前3世紀から紀元前2世紀にかけて活躍した中国の軍略家です。
字(あざな)は子房(しぼう)、諡(おくりな)は文成侯(ぶんせいこう)と呼ばれました。
秦の始皇帝が中国を統一した後の混乱期に、後に漢王朝を建国する劉邦(りゅうほう)に仕え、その覇業を大きく助けた人物なんです。
「漢初三傑」の一人
劉邦は天下統一後、こう語りました。
「帷幄(いあく:陣幕の中)で策を練り、千里の外で勝利を決するのは、私は張良に及ばない」
張良は、蕭何(しょうか)、韓信(かんしん)とともに「漢初三傑(かんしょさんけつ)」と称され、中でも知略の面で最も優れていたとされています。
彼は戦場で直接戦うことはほとんどありませんでしたが、劉邦に的確な助言を与え続け、最終的に天下統一へと導いたんですね。
偉業・功績
張良の功績は、劉邦を勝利に導いた数々の策略にあります。
主な功績
鴻門の会(こうもんのかい)での機転
- 劉邦が最大のライバル・項羽(こうう)に殺されそうになった危機的な宴会で、張良の冷静な判断が劉邦の命を救いました
- この時、張良は武将の樊噲(はんかい)を呼んで助けを求めるなど、臨機応変に対応したんです
重要な政治判断
- 儒者の酈食其(れきいき)が「昔の六国を復活させよう」と提案した時、張良は「八つの理由」を挙げて反対しました
- もしこの策が実行されていたら、劉邦の天下統一は失敗していたでしょう
韓信の反乱防止
- 斉を平定した韓信が「仮の王にしてほしい」と要求した時、怒った劉邦を素早くなだめ、韓信を味方につけ続けることに成功しました
都の選定
- 多くの臣下が洛陽を推す中、張良は関中の長安を都とするよう進言しました
- 「金城千里(きんじょうせんり)」つまり、険しい山々に守られた豊かな土地という理由からです
反乱の阻止
- 天下統一後、臣下たちが不満で謀反を企てていることを見抜き、皇帝が最も憎んでいた雍歯(ようし)に先に褒賞を与えるよう提案
- これにより「あの雍歯ですら褒賞されるなら、自分たちも大丈夫だ」と臣下たちを安心させ、反乱を未然に防ぎました
系譜
張良は、韓(かん)という国の名門貴族の家に生まれました。
家系の栄光
祖父・張開地(ちょうかいち)
- 韓の昭侯、宣恵王、襄哀王の三代にわたって宰相(さいしょう:最高位の役職)を務めました
父・張平(ちょうへい)
- 韓の釐王と桓恵王の二代にわたって宰相を務めました
つまり、張良の家は五代にわたって韓の宰相という、超エリート一族だったんですね。
祖国の滅亡
しかし、張良の父が亡くなってから20年後の紀元前230年、秦の軍隊によって韓は滅ぼされてしまいます。
この時、張良はまだ若く、官職に就いていませんでした。生年は不明ですが、紀元前250年以前に生まれたと考えられています。
祖国を失った張良は、秦への復讐を誓います。彼は家に300人もの召使いがいる裕福な暮らしでしたが、弟が亡くなっても葬式を出さず、全財産を復讐のために使うことを決意したのです。
子孫
長男・張不疑(ちょうふぎ)
- 張良の跡を継いで留侯となりましたが、後に罪を犯して爵位を失いました
次男・張辟彊(ちょうへききょう)
- わずか15歳で丞相の陳平に的確な助言をして驚かせたという逸話が残っています
興味深いことに、張良の子孫には後漢時代の学者や将軍がおり、さらに道教の創始者とされる張道陵(ちょうどうりょう)も張良の八世孫(8代後の子孫)だと伝えられています。
姿・見た目
張良の容姿について、興味深い記録が残っています。
美しい女性のような姿
『史記』の著者・司馬遷(しばせん)は、張良の肖像画を見る前、こう考えていました。
「これほどの知略を持つ人物だから、きっと厳つい大男なんだろうな」
ところが実際に肖像画を見て、司馬遷は驚きました。
「状貌、婦人好女の如し(その姿はまるで美しい女性のようであった)」
つまり、張良は女性のような美しい顔立ちをしていたんですね。
司馬遷は「容貌で人を判断してはいけない」という孔子の言葉を引用して、自分の先入観を恥じています。
病弱な体質
張良は生まれつき体が弱かったと記録されています。
そのため晩年は、道教の導引術(とういんじゅつ:呼吸法と体操を組み合わせた健康法)を実践し、穀物を断つ「辟穀(へきこく)」という修行も行っていました。
特徴

張良には、軍師としての優れた特徴がいくつもあります。
冷静な判断力
張良の最大の特徴は、どんな状況でも冷静に判断できることです。
例えば、鴻門の会で劉邦が殺されそうになった時も、張良は慌てずに対応策を考え、実行しました。また、劉邦が怒りに任せて行動しようとした時も、的確な助言で思いとどまらせています。
遠慮深さと謙虚さ
天下統一後、劉邦は張良に「斉の国から好きな場所を選んで、3万戸を領地として与える」と言いました。
しかし張良は、こう答えたんです。
「私は下邳(かひ)で劉邦様とお会いしました。これは天が私を陛下に授けたのです。初めてお会いした留(りゅう)という場所をいただければ、それで十分です」
大きな領地ではなく、小さな土地で満足する。この謙虚な姿勢が、張良が長生きできた理由の一つでしょう。
引き際の見極め
多くの功臣が天下統一後に粛清される中、張良は早めに引退しました。
彼は「赤松子(せきしょうし:古代の仙人)に従って、不老不死の道を学びたい」と言って、政治の世界から身を引いたんです。これは表向きの理由で、実際は功高震主(こうこうしんしゅ:功績が大きすぎて主君に疑われる)を避けるための賢い選択だったと考えられています。
忍耐力
黄石公との出会いのエピソード(後述)が示すように、張良は屈辱に耐える力を持っていました。
蘇軾(そしょく)という宋代の文人は、「黄石公は張良に『小さなことを耐え忍んで大きなことを成し遂げる』ことを教えた」と評価しています。
伝承
張良にまつわる最も有名な伝説が、黄石公(こうせきこう)との出会いです。
始皇帝暗殺未遂事件
復讐を誓った張良は、河南の淮陽(わいよう)で礼を学んだ後、力自慢の大男を雇いました。
そして紀元前218年、始皇帝が巡幸で博浪沙(はくろうさ)という場所を通ると聞いた張良は、重さ約30kgもある巨大な鉄槌を用意させ、始皇帝の馬車めがけて投げつけさせたんです。
しかし、鉄槌は始皇帝の乗った馬車ではなく、副車(予備の馬車)に命中してしまいました。
暗殺は失敗に終わり、始皇帝は激怒して天下中に張良を探すよう命じます。張良は偽名を使って下邳(かひ)という場所に逃れ、身を隠しました。
黄石公との不思議な出会い
下邳で逃亡生活を送っていたある日、張良が橋のたもとを歩いていると、汚い服を着た老人が現れました。
第一の試練:靴を拾わせる
老人は自分の靴をわざと橋の下に落とし、張良に向かってこう言いました。
「おい若いの、下に降りて靴を取ってこい」
張良は一瞬、怒りを覚えました。しかし、相手が老人だったので我慢して靴を拾ってきます。
第二の試練:靴を履かせる
すると老人は足を突き出して、「その靴をわしに履かせよ」と言い出したんです。
張良は「せっかく拾ってやったのに」と思いましたが、膝をついて丁寧に老人に靴を履かせました。
老人は笑って去っていきましたが、少し歩いた後、戻ってきてこう言いました。
「若いの、教えられそうだなあ。5日後の早朝、ここでわしに会え」
第三の試練:時間を守る
1回目の約束
5日後の朝、日が昇ってから張良が約束の場所に行くと、すでに老人が来ていました。老人は怒って言います。
「老人との約束に遅れるとは何事だ。また5日後の早朝に来い」
2回目の約束
次の5日後、張良は鶏が鳴く時刻(午前2時ごろ)に家を出ましたが、やはり老人の方が早く来ていました。
「また遅れるとは何事だ。さらに5日後に来い」
3回目の約束
最後の5日後、張良は夜中から約束の場所で待ちました。しばらくして老人がやって来ると、満足そうに言いました。
「これでよい」
兵法書の授与
老人は張良に一冊の書物を渡し、こう告げます。
「これを読めば王者の師となれる。10年後に世が乱れ、お前は活躍するだろう。13年後、お前はわしに会う。済北の穀城山の麓にある黄石が、わしなのだ」
この書物は『太公兵法』(たいこうへいほう)、つまり太公望(たいこうぼう)の兵法書でした。
張良はこの書を何度も読み返し、兵法の知識を深めました。そして老人の予言通り、10年後に陳勝・呉広の乱が起こり、張良は歴史の表舞台に立つことになります。
13年後の再会
張良が劉邦とともに済北の穀城山を通った時、山のふもとに黄色い石を見つけました。
張良はこの石を持ち帰り、黄石公として祀り、大切にしました。そして自分が死ぬ時、この石を一緒に埋葬するよう遺言したと伝えられています。
商山四皓(しょうざんしこう)の招聘
劉邦は、正妻の呂雉(りょち)が産んだ皇太子・劉盈(りゅうえい)を廃して、寵愛する戚夫人(せきふじん)の子・劉如意(りゅうじょい)を皇太子にしようと考えていました。
危機を感じた呂雉は、兄の呂沢を張良のもとに送って助けを求めます。
張良は答えました。
「商山四皓(しょうざんしこう)という四人の高名な学者を、皇太子の師として招くのです」
商山四皓とは、東園公、甪里先生、綺里季、夏黄公という四人の老人で、みな白い眉と白いひげを持つ賢者でした。劉邦は何度も彼らを招こうとしましたが、いつも断られていたんです。
ところが皇太子がこの四人を師として迎えることに成功しました。劉邦が理由を尋ねると、四人はこう答えました。
「陛下は人を軽んじ、よく罵倒されます。私たちはその屈辱を受けたくなかったので隠れていました。しかし、皇太子は仁孝で礼儀正しく、人を大切にすると聞き、お仕えすることにしたのです」
劉邦はこれを聞いて、「もう皇太子の羽は生えそろった。今さら変えることはできない」と廃太子を諦めたのです。
出典・起源
張良の物語は、主に以下の古典文献に記録されています。
主な出典
『史記』(しき)
- 前漢時代の歴史家・司馬遷が編纂した中国の正史
- 「留侯世家(りゅうこうせいか)」という章に張良の伝記が詳しく記されています
- 黄石公との出会いや、劉邦への助言の数々が生き生きと描かれています
『漢書』(かんじょ)
- 後漢時代の歴史家・班固(はんこ)が編纂
- 張良の伝記と、功臣表に張良とその子孫の記録があります
『平家物語』などでの日本での受容
- 日本でも古くから張良は「優れた軍師」として知られていました
- 江戸時代の黒田官兵衛は、徳川秀忠から「今世の張良」と評されたほどです
- 「圯橋三進履(いきょうさんしんり)」という、張良が老人の靴を拾う説話は、御伽草子や能の題材にもなりました
伝承の広がり
張良の物語は、中国だけでなく日本でも広く知られるようになりました。
江戸時代の庶民文化
- 『通俗漢楚軍談』などの読み物を通じて、張良の名前は庶民にも知られました
- 円山応挙や歌川国芳、月岡芳年などの画家が張良の肖像画を描いています
現代への影響
- 「運籌帷幄(うんちゅういあく)」という四字熟語は、張良の功績を称えた劉邦の言葉から来ています
- 「帷幕の中で策を練る」という意味で、今でも使われる言葉です
まとめ
張良は、中国史上最高の軍師として今も語り継がれる人物です。
重要なポイント
- 韓の名門貴族出身で、祖国復興のため始皇帝暗殺を試みた
- 神秘的な老人・黄石公から兵法書を授かったという伝説を持つ
- 女性のような美しい容姿と、冷静沈着な頭脳を併せ持つ
- 劉邦の天下統一に最も貢献した「漢初三傑」の一人
- 鴻門の会での機転、韓信の扱い、都の選定など、重要な場面で的確な助言
- 功成り名遂げた後は早めに引退し、天寿を全う
- 謙虚で忍耐強く、引き際を見極める賢さを持つ
- 後世、「天才軍師」の代名詞として日本でも広く知られる
張良の生き方は、「知恵を持って主君に仕え、功績を誇らず、適切な時に引退する」という、理想的な参謀の姿を示しています。現代でも、組織で働く私たちにとって学ぶべき点が多い人物ではないでしょうか。


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