繁栄を極めた巨大都市が、たった一晩で跡形もなく消え去る。
そんな恐ろしい出来事が、遠い昔、ムナールという幻想的な土地で実際に起こったと伝えられています。
5000万人もの人々が暮らす黄金の都市サルナスは、千年目の祝祭の夜、突然の災厄に見舞われました。その原因は、かつて滅ぼした先住生物への復讐だったのです。
この記事では、夢の国ドリームランドに存在したとされる幻の地域「ムナール」と、そこで起きた悲劇的な都市滅亡の伝説について詳しくご紹介します。
概要

ムナールは、H・P・ラヴクラフトが創造した幻想世界「ドリームランド(夢の国)」に存在する地域の名前です。
静かで広大な湖を中心とした土地で、川が流れ込むことも流れ出ることもない不思議な場所とされています。かつてこの地にはサルナスという人類史上最も繁栄した都市がありましたが、千年目の祝祭の夜に一夜にして滅び去りました。
ムナールの特徴
- 灰白色の石の産地:五芒星を刻むことができる特別な石材の産地
- アイ河:地域を流れる重要な河川で、都市の発展を支えた
- 主要都市:トゥーラ、イラーネク、カダテロン(カダテアン)などの町が栄えた
- ムナール湖:水の出入りがない神秘的な湖
このムナールで起きた「サルナスの滅亡」は、ラヴクラフトが1919年に執筆した小説『サルナスの滅亡(The Doom that Came to Sarnath)』で語られており、クトゥルフ神話やドリームランド・シリーズの重要な一編となっています。
イブの町と緑色の先住生物
サルナスが建設される前、ムナール湖のほとりにはイブという灰白色の石造りの町がすでに存在していました。
奇妙な住人たち
イブの住人は、人間とはまったく異なる姿をした生物でした。
イブの住人の特徴
- 緑色の体:魚や両生類のような外見
- 奇妙な顔立ち:分厚く垂れ下がった唇、太い耳、奇妙な目
- 水棲生物的な姿:柔らかい体を持つ
彼らはスーム・ハーとも呼ばれ、体が柔らかかったため、武力では人間に太刀打ちできない存在でした。
崇拝していた神ボクルグ
イブの住人たちが信仰していたのが、水棲の大蜥蜴(または大蝦蛄)の姿をした神ボクルグ(ボクラグ)です。
緑色の石で作られた神像を祀り、恐ろしい舞いや踊りを捧げていました。この神像には、蟹のような姿の神格が刻まれていたそうです。
イブの滅亡
黒い髪を持つ牧羊民たちがムナールの地にやって来ると、状況は一変しました。
アイ河に沿って町を築いていった彼らは、やがて湖畔の貴金属鉱床がある場所にサルナスという町を建設します。その時、すぐ近くにイブの町が存在していたのです。
悲劇の始まり
サルナスの人々は、イブの住人の奇怪な姿に一方的な嫌悪感を抱きました。その外見だけを理由に、彼らを皆殺しにする目的で戦争を仕掛け、イブの町を徹底的に破壊し尽くしたのです。
戦利品として持ち帰られたボクルグの神像ですが、大神官が怪死を遂げた後、神像は行方不明になってしまいます。
サルナスの黄金時代

イブを滅ぼした後、サルナスは驚異的な発展を遂げていきました。
繁栄の基盤
サルナスの発展要因
- 豊富な貴金属鉱床:湖畔で採掘される金銀などの資源
- イラーネクとの交易路:隊商路が整備され、交易が盛んに
- 広大な版図:ムナール全土とその近隣の土地を支配
人口は5000万人を数えるまでに膨れ上がり、当時の世界で最も巨大な都市となりました。
壮麗な都市景観
サルナスの街並みは、まさに人類の誇りと呼ぶにふさわしいものでした。
都市の主な建造物
- 数多くの宮殿と塔:権力と富の象徴
- 見事な庭園:美しく整備された緑地
- 17の神殿:様々な神々を祀る壮麗な建築物
サルナス三神
サルナスで崇拝されていた主な神々は以下の通りです。
- ゾーカラル(ゾ=カラル):主神として最も重要視された
- タマシュ:詳細は不明だが信仰を集めた神
- ロボン(ロボボ):こちらも詳細不明の神
これらの神々に捧げる神殿が次々と建造され、サルナスの宗教的な繁栄を支えました。
祝祭の伝統
サルナスでは毎年、イブの滅亡を祝う祭りが開かれていました。
先住生物を滅ぼしたことを誇らしげに祝う、この祭りこそが、後の悲劇の引き金となるのです。
千年目の大災厄

イブ滅亡から千年が経過したその夜、恐ろしい出来事がサルナスを襲いました。
祝祭の夜の異変
千年目を記念する盛大な祝宴が開かれていたその時、突如として異変が起こります。
災厄の始まり
サルナスの王族や貴族たちが、全員緑色の水棲生物の姿に変貌してしまったのです。それは、千年前に滅ぼしたイブの住人とまったく同じ姿でした。
ボクルグの復讐
これこそが、水蜥蜴神ボクルグの呪いによる復讐だったのです。
都市は狂乱と混乱に包まれ、祭りに訪れていた他の都市の人々は、おぞましい恐怖の光景を目撃することになりました。
都市の完全消滅
その夜のうちに、サルナス全体がムナール湖に沈没してしまいます。
5000万人の民、壮麗な宮殿、数え切れない財宝、全てが一夜にして湖の底へと消え去りました。世界の驚異とまで言われた黄金の都は、跡形もなく消滅したのです。
災厄後の光景
現在、サルナスの跡地には緑色の藻が這う湿地帯が広がるだけとなっています。
気味の悪い緑色の虫が蠢く沼地。それが、かつて人類最高の繁栄を誇った都市の名残なのです。
伝承の背景
ラヴクラフトの夢
『サルナスの滅亡』の作者H・P・ラヴクラフトは、実際に見た夢を小説として執筆したと語っています。
1919年12月11日付の友人ギャラモ宛の書簡で、夢に見た情景をそのまま作品化したことを明かしているのです。ラヴクラフトは同様の手法で他の作品も執筆しており、夢と創作が深く結びついた作家でした。
ダンセイニ卿の影響
翻訳者の大瀧啓裕氏は、この作品にアイルランドの幻想作家ダンセイニ卿からの影響が大きいことを指摘しています。
ダンセイニ卿は幻想的な架空世界を舞台にした物語を多く書いた作家で、ラヴクラフトも大きな影響を受けました。ただし、『サルナスの滅亡』は濃厚なホラー要素が際立って異なる点だとされています。
発表と再録
作品は以下の経緯で世に出ました。
発表の歴史
- 1919年:執筆
- 1920年6月:同人誌『ザ・スコット』44号に初掲載
- 1935年3・4月号:『マーヴァル・テイルズ・オブ・サイエンス・アンド・ファンタシイ』に掲載
- 1938年6月号:作者没後、『ウィアード・テールズ』に再録
不思議な偶然
興味深いことに、サルナスという名前は、仏教の聖地サールナート(鹿野苑)と同じ綴りです。
ただし、これは偶然の一致であり、ラヴクラフトは知らなかったのだろうと、研究家のダニエル・ハームズは述べています。
ドリームランドとの関係
『サルナスの滅亡』では明示されていませんでしたが、後年発表された他の作品で、ムナールがドリームランドという幻想世界の一地域であることが明らかになりました。
ドリームランドは、ラヴクラフトが創造した夢の世界で、多くの作品の舞台となっています。一方、作家ブライアン・ラムレイは、ムナールを目覚めの世界のアラビアに設定するなど、解釈は様々です。
まとめ
ムナールとサルナスの物語は、傲慢さと復讐をテーマにした悲劇的な神話です。
重要なポイント
- ムナールはドリームランドに存在する幻想的な地域
- 緑色の先住生物が住むイブの町が最初に存在した
- イブの住人は水蜥蜴神ボクルグ(ボクラグ)を崇拝していた
- 人間の牧羊民がイブを一方的に滅ぼし、サルナスを建設
- サルナスは5000万人を擁する巨大都市に発展
- 千年目の祝祭の夜、ボクルグの呪いでサルナスは滅亡
- 都市全体が湖に沈み、跡地には湿地帯が残るのみ
- H・P・ラヴクラフトが見た夢を元に1919年に執筆された
先住生物を外見だけで判断し、虐殺したことへの報いとして訪れた千年越しの復讐。この物語は、偏見や差別の恐ろしさ、そして因果応報の教訓を私たちに伝えているのかもしれません。
ムナール湖の底に沈んだサルナスの廃墟は、今もひっそりと、人類の傲慢さを静かに物語り続けています。


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