地下に眠る壮大な地下宮殿に、数千体もの兵士たちが永遠の眠りについている──そんな想像を絶する光景を現実に残した男が、今から約2200年前の中国に実在しました。
彼の名は秦の始皇帝。中国全土を初めて統一し、「皇帝」という称号を生み出した歴史上の巨人です。でも、実はこの偉大な支配者は、ひとりの人間として「死」を何よりも恐れ、不老不死を夢見て数々の神秘的な探求に人生を捧げた人物でもあったんです。
この記事では、秦の始皇帝の波乱に満ちた生涯と、彼が残した偉業、そして不老不死を求めた神秘的な伝説についてご紹介します。
概要

秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)は、中国史上初めて全土を統一し、「皇帝」という称号を作り出した人物です。
本名は嬴政(えいせい)または趙政(ちょうせい)といい、戦国時代の混乱を終わらせ、中央集権国家を築き上げました。
統一後は文字・通貨・度量衡の統一、万里の長城の建設、巨大な陵墓の造営など、後世に残る大事業を次々と実行。一方で、厳しい法治主義と過酷な労役により、わずか15年で秦王朝を滅亡へと導く原因も作りました。
始皇帝の人生で特に興味深いのは、不老不死への執着です。絶大な権力を手に入れた彼は、その力を永遠に保つため、仙人や仙薬を探し求め、最終的には水銀を含む薬を服用していたとも言われています。
人質の子から中国の支配者へ
始皇帝の物語は、意外にも苦難から始まりました。
邯鄲での誕生
紀元前259年、始皇帝は秦国の王族でありながら、敵国である趙国の都・邯鄲(かんたん)で生まれました。父親の子楚(しそ)は、秦国から趙国への人質として送られていたんです。
当時は戦国時代の真っただ中。各国は互いに人質を交換することで、一時的な平和を保とうとしていました。でも、秦と趙の関係が悪化すると、幼い政とその母親は命の危険にさらされることに。
商人の賭け
そんな窮地を救ったのが、呂不韋(りょふい)という大商人でした。
呂不韋は子楚を見て「奇貨居くべし(珍しい商品は買い占めておくべきだ)」と考え、巨額の財産を投じて子楚を秦国の後継者に仕立て上げる計画を実行します。莫大な賄賂と巧みな政治工作により、この計画は見事に成功しました。
13歳の王
紀元前247年、わずか13歳で秦国の王となった政。
幼い王を補佐したのは、恩人である呂不韋でした。しかし成長するにつれ、政は呂不韋の影響力を警戒するようになります。紀元前238年、22歳になった政は、呂不韋の権力を剥奪し、ついに実権を握ったんです。
若き王は、ここから中国統一という壮大な野望に向けて動き出します。
六国を飲み込む統一戦争
秦王政が即位したとき、中国は戦国七雄と呼ばれる7つの強国が覇権を争っていました。
統一への戦略
政の側近である李斯(りし)は、巧みな戦略を提案します。
統一のための戦略
- 遠交近攻:遠くの国と同盟し、近くの国を攻める
- 離間工作:敵国の君主と臣下の間に不和を生む
- 賄賂作戦:敵国の重臣を金銀で買収する
この冷徹な戦略のもと、秦軍は次々と敵国を攻略していきました。
滅亡の順序
紀元前230年から221年の10年間で、六国が次々と秦に飲み込まれていきます。
- 韓国(紀元前230年):最も弱小で最初の標的に
- 趙国(紀元前228年):名将・李牧を失い敗北
- 魏国(紀元前225年):首都を水攻めされ降伏
- 楚国(紀元前223年):60万の大軍でようやく征服
- 燕国(紀元前222年):荊軻の暗殺失敗後に滅亡
- 斉国(紀元前221年):最後まで残るも無血降伏
荊軻の決死行
統一戦争の中で最もドラマチックなのが、荊軻(けいか)による暗殺未遂事件です。
紀元前227年、滅亡寸前の燕国から送られた使者・荊軻は、秦王政への献上品として地図を持参しました。しかしその地図の中には、毒を塗った短剣が隠されていたんです。
地図を広げると現れた短剣。荊軻は政に襲いかかりますが、政は柱の周りを逃げ回り、必死で長剣を抜こうとします。側近たちは武器を持つことが禁じられていたため、ただ見守るしかありませんでした。
最後に政は剣を抜き、荊軻を斬り倒します。この事件は始皇帝の生涯で最も危険な瞬間のひとつでした。
「皇帝」の誕生
紀元前221年、39歳の政はついに中国全土を統一します。
新しい称号
統一を成し遂げた政は、「王」という称号では不十分だと考えました。
臣下たちは神話に登場する三皇五帝から「泰皇」という称号を提案しますが、政はこれを改め、「皇」と「帝」を組み合わせた「皇帝」という全く新しい称号を創造したんです。
そして自らを「始皇帝」(最初の皇帝)と名乗り、後継者は二世皇帝、三世皇帝と続き、万世にわたって続くことを願いました。
徹底的な統一政策
始皇帝が行った改革は、単なる領土統一にとどまりませんでした。
統一の三大政策
- 文字の統一:各国バラバラだった文字を小篆に統一
- 通貨の統一:円形方孔の半両銭を全国共通貨幣に
- 度量衡の統一:長さ・重さ・容積の基準を統一
これらの改革により、広大な帝国内での意思疎通や商業活動がスムーズになりました。現代の中国の基礎は、この時に築かれたと言っても過言ではありません。
不老不死への執着
絶大な権力を手に入れた始皇帝でしたが、ひとつだけ手に入らないものがありました──それは永遠の命です。
仙薬への渇望
統一後、始皇帝は急速に不老不死への関心を深めていきます。
彼が恐れたのは、せっかく築き上げた権力と栄光を、死によって失うことでした。「皇帝」という唯一無二の地位を、永遠に保ちたい──この願いが、彼を神秘的な探求へと駆り立てたんです。
始皇帝は方士(ほうし)と呼ばれる術師たちを次々と宮廷に招き、不老不死の秘法を探らせました。
徐福東渡の伝説
最も有名なのが、徐福(じょふく)という方士の物語です。
紀元前219年、徐福は始皇帝にこう進言しました。「東の海の彼方に蓬莱山(ほうらいさん)という仙人の島があり、そこに不老不死の薬があります。童男童女を連れて探しに行かせてください」
始皇帝は喜んで許可し、徐福は数千人の若者を率いて船出します。しかし何年経っても帰ってきません。再び呼び出された徐福は「大きな魚に邪魔されて島にたどり着けない」と言い訳をし、さらに援助を受けて再び出航。
その後、徐福は二度と戻りませんでした。伝説によれば、彼らは日本列島にたどり着き、そこに定住したとも言われています。
水銀の危険な誘惑
始皇帝が実際に服用していたとされるのが、水銀を含む仙薬でした。
当時の中国では、水銀は「エネルギーを増し、心を落ち着かせ、霊力を授ける」と信じられていたんです。1960年代から90年代にかけて発掘された古代の墓から、水銀・硫黄・石英などを含む丸薬が発見されており、始皇帝もこのような薬を服用していた可能性が高いとされています。
しかし現代の科学では、水銀の摂取は命を縮める行為。皮肉なことに、永遠の命を求めて服用した薬が、始皇帝の死を早めた可能性があるんです。
万里の長城と驚異的な建設事業
始皇帝が後世に残した最も目に見える遺産が、数々の巨大建築物です。
万里の長城
北方の遊牧民族・匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、始皇帝は将軍・蒙恬に30万の兵を与えて、各国が築いていた防壁をつなぎ合わせるよう命じました。
これが万里の長城の原型となります。
ただし、現在私たちが観光で訪れる長城の多くは、明代(14~17世紀)に再建されたもの。始皇帝時代の長城は、もっと簡素な土と石の壁でした。
建設には囚人や農民が動員され、多くの人々が過酷な労働で命を落としたと言われています。
巨大宮殿・阿房宮
始皇帝は首都・咸陽に阿房宮(あぼうきゅう)という壮大な宮殿の建設を始めました。
伝説によると、前殿だけで東西約693メートル、南北約116メートルという巨大さ。1万人が座れ、高さ十数メートルの旗を立てられるほどの規模だったと言われています。
門は磁石でできており、武器を持った者が通ると発見できる仕組みになっていたとか。ただし、これらは誇張された伝説で、実際には始皇帝の死により工事は中断され、完成しなかったようです。
秦直道
始皇帝は首都から北方の防衛拠点まで、全長約700キロメートルにも及ぶ直線道路「秦直道」の建設も命じました。
これは古代の高速道路とも言えるもので、山を削り谷を埋めて、可能な限り直線に近いルートが作られたんです。軍事物資の輸送を迅速にするための壮大なプロジェクトでした。
始皇帝陵:永遠の地下宮殿
始皇帝が生涯をかけて築いた最大の建造物が、彼自身の墓・始皇帝陵です。
地下宮殿の驚異
史書『史記』によれば、始皇帝陵の地下宮殿には驚くべき仕掛けが施されていました。
地下宮殿の特徴
- 水銀の川:100本もの水銀の川で中国の河川や海を再現
- 天体の装飾:天井には星座が描かれている
- 自動防衛装置:侵入者を自動で射る弩(石弓)
- 人魚の油の灯火:永遠に消えない明かり
2006年の探査では、実際に地下宮殿周辺の土壌から、自然界の約100倍もの濃度の水銀が検出されました。伝説は事実だったかもしれないんです。
水銀は蒸発して有毒ガスを発生させるため、遺体の保存と盗掘者の毒殺という二重の目的があったと考えられています。
兵馬俑の奇跡
1974年、農民が井戸を掘っていたところ、偶然にも兵馬俑(へいばよう)を発見しました。
発掘された兵馬俑は、実物大の兵士や馬の陶器製の像が7,000体以上。驚くべきことに、一体一体が異なる顔つきをしており、当時の兵士たちの多様性が表現されているんです。
これらの兵士たちは、始皇帝が死後の世界でも軍隊を率いられるよう、地下で永遠に主君を守っているというわけです。
神秘的な伝説の数々
始皇帝の周りには、数多くの不思議な伝説が残されています。
祖龍の予言
紀元前211年、不吉な出来事が次々と起こります。
東郡に隕石が落下し、何者かがその石に「始皇帝死して地分かたる(始皇帝が死ねば天下は分裂する)」と刻みました。始皇帝は怒り、周辺住民を全員処刑させます。
さらに秋には、ある使者が不思議な老人から玉璧を受け取り、「今年祖龍死す」という言葉を聞かされます。「祖龍」とは始皇帝自身を指す言葉でした。
海神との戦い
始皇帝は何度も東方へ巡遊し、海辺で仙人や仙薬を探しました。
ある時、海の向こうに大きな魚が現れ、船の進行を妨げていると報告されます。始皇帝は自ら連弩(連発式の弓)で大魚を射殺しますが、この直後に病に倒れることになるんです。
伝国玉璽の秘密
始皇帝は、かの有名な和氏の璧を加工して玉璽(皇帝の印鑑)を作らせました。
これが伝国玉璽と呼ばれるもので、表面には「受命於天 既寿永昌(天命を受け、寿命は永く栄える)」と刻まれていたと言われています。
この玉璽は後の王朝に代々受け継がれ、正統な皇帝の証しとされました。しかし、10世紀ごろに失われ、今も行方不明のままです。
沙丘の死と帝国の終焉
紀元前210年、始皇帝は5度目の巡遊に出発します。これが最後の旅となりました。
突然の病
旅の途中、平原津で始皇帝は突然病に倒れます。
「死」という言葉を忌み嫌っていた始皇帝に、誰も病状について直言できませんでした。始皇帝は遠く離れた長子・扶蘇に、「咸陽に戻って葬儀を執り行え」という遺詔を書かせますが、この手紙は側近の趙高の手元に留め置かれます。
7月、始皇帝は沙丘の平台で崩御。享年49歳でした(一説には50歳)。
隠された死
始皇帝の死は、すぐには公表されませんでした。
丞相・李斯は天下が混乱することを恐れ、死を秘密にしたまま咸陽へ向かいます。腐敗臭を誤魔化すため、大量の魚を積んだ車を伴走させました。
その間に、趙高と末子の胡亥は陰謀を企て、遺詔を改ざん。本来の後継者である扶蘇に死を命じ、胡亥を二世皇帝として即位させたんです。
わずか15年で滅んだ帝国
しかし、秦帝国は長くは続きませんでした。
過酷な労役と厳しい法律に苦しんでいた民衆は、始皇帝の死後わずか1年で大規模な反乱を起こします。これが陳勝・呉広の乱です。
紀元前206年、始皇帝が崩御してからわずか4年後、秦帝国は滅亡。「万世に続く」はずだった王朝は、あっけなく幕を閉じました。
予言書『録図書』にあった「秦を滅ぼす者は胡」という言葉は、北方の胡人ではなく、末子・胡亥のことを指していたという皮肉な結末でした。
まとめ
秦の始皇帝は、中国史上初めて全土を統一し、「皇帝」という称号を生み出した歴史的人物です。
重要なポイント
- 13歳で秦王となり、39歳で中国統一を達成
- 文字・通貨・度量衡を統一し、中央集権国家の基礎を築いた
- 万里の長城、始皇帝陵、阿房宮など壮大な建設事業を実行
- 不老不死を求めて徐福を東方へ派遣、水銀を含む仙薬を服用
- 地下宮殿に水銀の川と7,000体以上の兵馬俑を残した
- 49歳で急死し、わずか15年で帝国は崩壊
絶対的な権力を手に入れながらも、「死」だけは克服できなかった始皇帝。彼が残した巨大な陵墓は、2,000年以上経った今も完全には発掘されておらず、まだ多くの秘密を地下に隠し続けています。
不老不死を夢見た皇帝の魂は、今も水銀の川が流れる地下宮殿で、永遠の眠りについているのかもしれませんね。


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