古びた図書館の奥深く、鎖で封印された一冊の本があるとしたら、あなたは開いてみたいと思いますか?
それとも、近づくことさえ恐れるでしょうか?
世界中の伝説に語り継がれる「ネクロノミコン」は、読んだ者を狂気に陥れ、異世界の恐怖を呼び寄せるとされる禁断の魔道書です。この本を手にした者の多くが、悲劇的な最期を遂げたと伝えられています。
この記事では、クトゥルフ神話に登場する最も有名な魔道書「ネクロノミコン」について、その恐るべき内容と波乱に満ちた歴史をご紹介します。
概要

ネクロノミコン(Necronomicon)は、アメリカの怪奇作家H・P・ラヴクラフトが創造したクトゥルフ神話に登場する架空の魔道書です。
日本語では「死霊秘法」と訳されることもあります。
クトゥルフ神話とは、ラヴクラフトが1920年代から執筆した一連の怪奇小説に登場する、宇宙的恐怖を描いた物語群のこと。その中でネクロノミコンは、異次元から来た恐ろしい神々(旧支配者や外なる神)についての秘密を記した書物として描かれています。
1922年に発表された『魔犬』という作品で初めて登場して以来、ラヴクラフト自身の作品だけでなく、後に続く多くの作家たちの作品にも引用され、ホラー・ファンタジー作品における「禁断の書」の代名詞となりました。
あまりにリアルに描かれたため、実在すると信じて図書館や書店に問い合わせる人が後を絶たず、バチカンにも問い合わせが殺到したといわれています。
姿・見た目
ネクロノミコンの外見については、ラヴクラフト自身があえて詳細を語らなかったため、謎に包まれています。
作品中の描写から推測される特徴をまとめると、こんな感じです。
書物の外観
- 装丁:革張りの表紙で、金属製の留め金がついている
- ページ数:少なくとも770ページ以上の大部な書物
- 文字:版によってアラビア語、ギリシャ語、ラテン語など様々
- 状態:非常に古く、ページが黄ばんでいる
- 偽装:危険な書物だけに、別の本のタイトルで偽装されていることもある
『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』という作品では、書棚から『イスラム教の教典』と書かれた本を取り出したら、実はネクロノミコンだったという場面があります。
このように、所有者が危険を避けるために、わざと別の本のふりをさせていたんですね。
特徴
ネクロノミコンの最大の特徴は、その恐るべき内容と読者に与える影響です。
記されている内容
この魔道書には、人類にとって知るべきではない知識が詰まっています。
主な記述内容
- 旧支配者と呼ばれる異形の神々についての記録
- 外なる神々の正体と歴史
- それらを崇拝する秘密の宗派
- 異世界の存在を召喚する儀式と呪文
- 地球と宇宙の真実の歴史
最も有名なのが、作中で何度も引用されるこの一節です。
「そのものは永遠に死んだままの死者ではない、
異様なものが到来するとともにその死は終わりを告げる」
この詩句は、旧支配者たちがいつか地球に戻ってくることを予言しているとされています。
読者への影響
ネクロノミコンを読むことは、極めて危険だとされました。
- 精神への悪影響:読んだ者の多くが狂気に陥る
- 異世界との接触:書かれた儀式を実行すると、恐ろしい存在を呼び出してしまう
- 悲劇的な結末:所有者や読者の多くが謎の死を遂げる
『ダニッチの怪』という作品では、主人公がネクロノミコンに書かれた呪文を使って異世界から怪物を召喚してしまい、逆にそれを倒すためにも同じ書物が必要になるという皮肉な展開が描かれています。
伝承(架空の歴史)

ラヴクラフトは、ネクロノミコンをよりリアルに見せるため、『ネクロノミコンの歴史』という資料まで書きました。
これは完全に架空の年表なんですが、とても細かく設定されているんです。
原書の誕生
8世紀・アラビア語版『キタブ・アル・アジフ』
- 著者:アブドゥル・アルハザード(狂えるアラブの詩人と呼ばれた)
- 執筆時期:730年頃、ダマスカスにて
- 内容:アラビア南部の大砂漠で10年間を過ごした後、廃墟の地下で発見した古代種族の年代記をもとに執筆
「アル・アジフ」というタイトルは、アラビア語で「夜の昆虫の鳴き声」や「ジン(精霊)の声」を意味する言葉だそうです。砂漠の夜に聞こえる不気味な音のことを指していたんですね。
著者のアルハザードは、738年に町の通りで目に見えない怪物に食い殺されたと伝えられています。恐ろしい書物を書いた代償だったのでしょうか。
ギリシャ語への翻訳
10世紀・ギリシャ語版『ネクロノミコン』
- 翻訳者:コンスタンティノープルのテオドラス・フィレタス
- 翻訳時期:950年
- タイトルの意味:ギリシャ語で「死者の掟の表象」という意味
- 運命:1050年に総主教ミカエルによって焚書処分
「ネクロノミコン」という名前は、この時初めて付けられました。ギリシャ語のネクロス(死体)、ノモス(掟)、エイコン(表象)を組み合わせた造語なんです。
しかし、読んだ者の精神と行動に著しい悪影響を与えたため、わずか100年後には焼き払われてしまいました。
ラテン語への翻訳と禁書指定
13世紀・ラテン語版
- 翻訳者:オラウス・ウォルミウス
- 翻訳時期:1228年
- 運命:刊行のわずか4年後、1232年に教皇グレゴリウス9世によって禁書指定
この頃には、原書のアラビア語版はすでに失われていたとされています。
その後の版
15世紀・ドイツのゴシック体活字版
- 現存するものが大英博物館に1冊保管されている
16世紀・ジョン・ディー博士の英語版
- イギリスの魔術師ジョン・ディー(1527-1609年頃)が英語に翻訳
- ただし不完全な写本のみが残り、ダニッチのウェイトリー家などに伝わる
17世紀・ラテン語版
- おそらくスペインで出版
- これが最も多く残っており、各地の図書館に所蔵されている
現代における所蔵状況
ラヴクラフトの設定によると、21世紀の現在でも世界中の限られた場所に保管されているとされます。
所蔵機関
- 大英博物館(イギリス)
- パリ国立図書館(フランス)
- ハーバード大学ワイドナー図書館(アメリカ)
- ブエノスアイレス大学図書館(アルゼンチン)
- ミスカトニック大学附属図書館(架空の大学)
どの図書館でも厳重に管理され、一般には公開されていないという設定です。
また、人の手を経るうちに例外なく一部の章が欠損しており、全30数章すべてが揃った完全版は存在しないとされています。
起源(ラヴクラフトの創作過程)
ここからは、「本当の」ネクロノミコンの歴史、つまりラヴクラフトがどのようにこの架空の書物を生み出したのかをお話しします。
名前の誕生
ラヴクラフトは知人への手紙の中で、「ネクロノミコンという名前は夢の中で思いついた」と語っています。
5歳の時に自分の偽名として「アブドゥル・アルハザード」という名前を使っていたそうで、大人になってからそれを魔道書の著者名として再利用したんですね。
発想の源
ラヴクラフトは、架空の魔道書というアイデアをどこから得たのでしょうか。
本人の説明によると、古代の失われた知識という雰囲気を作り出すために、歴史上の実例を参考にしたそうです。
それは、プトレマイオスの『アルマゲスト』という天文学の書物です。この本は古代ギリシャで書かれた後、ヨーロッパでは失われてしまいましたが、アラビア世界で保存・発展し、後にルネサンス期にヨーロッパへ逆輸入されました。
ラヴクラフトは、この「失われた古代の知識がアラビアを経由して伝わる」という歴史的事実を踏まえて、ネクロノミコンの設定を作ったんです。
初登場と発展
作品での登場
- 初登場:1922年執筆の『魔犬』(1924年発表)
- 本格的な使用:1923年執筆の『魔宴』以降
- 設定資料:1927年に『ネクロノミコンの歴史』を執筆
最初は単なる小道具でしたが、次第に作品世界の中心的なアイテムとなっていきました。
他の作家への影響
ラヴクラフトは、友人の作家たちにも自分の作品世界を使うことを積極的に勧めました。
「共通の設定を使うことで、悪の真実味が増す」と考えていたんですね。
ネクロノミコンを使った他の作家
- フランク・ベルナップ・ロング『喰らうものども』(1928)
- クラーク・アシュトン・スミス『妖術師の帰還』(1931)
- ロバート・E・ハワード『夜の末裔』(1931)
こうして、ネクロノミコンはラヴクラフト個人の創作を超えて、多くの作家が共有する「神話」の一部となっていったのです。
現代における「実在化」
架空の書物であるにもかかわらず、あまりにリアルに描かれたため、様々な「事件」が起きました。
信じた人々の行動
- 図書館や書店への問い合わせが殺到
- バチカンにも「ネクロノミコンを見せてほしい」という要請が届く
- イェール大学では、学生が図書館のカード目録にネクロノミコンのカードをこっそり挿入するいたずらも
ラヴクラフト自身は、ファンが実在すると信じて図書館を探し回っていると聞いて、罪悪感を感じたと語っています。
「再現」の試み
ラヴクラフトの死後、実際にネクロノミコンを作ろうとする動きが何度もありました。
主な出版物
- 1973年:アウルズウィック・プレスが贋作として出版(アラビア風文字の羅列のみ)
- 1978年:ジョージ・ヘイとコリン・ウィルソンによる『魔道書ネクロノミコン』
- 2004年:ドナルド・タイスン『ネクロノミコン アルハザードの放浪』
しかし、ラヴクラフトは生前に「もし誰かがネクロノミコンを書こうとしても、その神秘的な言及に震えたすべての人を失望させるだろう」と語っていました。
想像の中にある方が、どんな実物よりも恐ろしいということなんでしょうね。
まとめ
ネクロノミコンは、20世紀ホラー文学が生み出した最も影響力のある架空の書物です。
重要なポイント
- H・P・ラヴクラフトが1922年に創造した架空の魔道書
- 日本語では「死霊秘法」と訳される
- 異世界の神々と禁断の知識を記した恐るべき書物
- 架空の著者アブドゥル・アルハザードが730年頃に執筆
- 原題は『キタブ・アル・アジフ』(アラビア語)
- 950年にギリシャ語へ翻訳され「ネクロノミコン」の名前がついた
- 何度も禁書指定を受けながら、ひそかに世界中に広まった
- あまりにリアルに描かれたため、実在すると信じる人が続出
- クトゥルフ神話の象徴的アイテムとして、多くの作品に影響を与えた
架空の書物でありながら、ホラーやファンタジーの世界において「禁断の魔道書」の代名詞となったネクロノミコン。もしかしたら、どこかの古い図書館の奥深くに、本当に眠っているのかもしれません。
でも、もし見つけても、開いてはいけませんよ。
読んだ者を待ち受けるのは、狂気と破滅だけなのですから。


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